天命問答
年が明けて、春になった。熊旅の在位十六年目となる年である。晋楚に兵乱の嵐が吹き荒れる、激動の一年が幕を開けた。
熊旅は、南方の盟主として、離反し晋の盟下に降った鄭へと兵を向けたのである。鄭の人々は騒然として、降るべきか、戦うべきかと逡巡した。
楚は大軍であり、強行によって攻め切ることも難しくはない。
しかしここで楚が賢明であったのは、鄭の人々の動揺を見て取ると、一度、囲いを解いて兵を退いたことである。鄭の首脳に猶予を与えたということであり、同時に、晋の動向を注視する意図もあった。
だがこの時、晋は動かなかったのである。いや、動けなかった、というほうが正しいであろう。
この時の楚は、鄭を囲みはしたが、戈矛を交えることはしなかった。ただそれだけの挙動を見て、大軍を南に向けるゆとりがなかったのである。
しかし晋の遅緩とした動きは、鄭には頼りなく映った。そして、三月の後に楚が再び大挙して押し寄せると、鄭は一戦もすることなく、楚に降ったのである。
この時、鄭の主君である襄公は、上衣を脱いで上体を露わにし、羊を牽いて熊旅の前に現れた。肉袒牽羊と呼ばれるものであり、降伏し臣僕となる意を示す作法である。
そして襄公は、熊旅の前で謝意の言葉を述べた。
「不徳な私のために、王の怒りを買い、兵を出させるようなことをしてしまいました。まったくこれは我が罪であり、不実なる我が身を貴国に連れ帰られるも、また、鄭国を諸侯に割譲なさるも、すべて王の意のままになさってください」
襄公は誠意を見せた。しかし、それでは終わらなかったのである。
「また、もし王がかつての鄭との友誼を恵顧し、我が祖を嘉してくださり、鄭を滅ぼさず、改悟して仕えよと仰せられますれば、これこそ王の恵みにございであり、私の望むところでございます。ですが無論、私としてはそうしていただきたいと望むようなことは致しません」
襄公は、全霊を口舌に込めて言葉を放った。その意いは、熊旅の心に届いたのである。
楚臣は、鄭を赦してはならぬと諫めた。しかし熊旅は、
「鄭伯は、一国の主でありながら人の下に立つことが出来る。こういう主君のある国を、敢えて滅ぼそうとは思えない」
と言って、鄭を赦した。
しかし、まだ鄭が楚に降るより先に、晋のほうでも、いよいよ兵を挙げて南進をはじめていたのである。
晋には上中下からなる三軍があり、中核たる中軍の将を荀林父、下軍の将を趙朔、そして上軍の将を士会とする布陣である。荀林父はこの時、晋の最上位たる正卿であり、挙国しての出陣であった。
しかし、いよいよ黄河を越えようという時になって、鄭の降伏を知ったのである。
荀林父は消極の色を見せた。士会も、荀林父に賛同した。
この時、士会は、“師を用いるは、釁を観て動く”と語った。釁とは亀裂、間隙のことであり、敵の綻びに付け入るように兵を出し、攻め込むことが用兵の妙であると説いたのである。
士会はさらに、蔿艾猟の楚における統治を絶賛した。その擢登より今日まで、蔿艾猟という令尹の施策によって楚は軍事、内政ともに充足しており、盤石であることを語ったのである。
「攻めやすきを見て兵を進め、難敵あれば退くことは軍の善政です。そして、惰弱、蒙昧の敵を攻めることこそが武の善経なのです」
経とは教書のことを指し、武の善経とは、軍における指南書のような教えであるという意味を持つ。
士会という人は、晋のみに限らず、春秋時代において一、二を争う稀代の名将である。しかしその根幹にあるのは、勝てる敵に確実に勝ち、戦力で劣る、あるいは伯仲している敵とは戦わないという思想の人であった。そして、それを貫徹したからこそ、士会は名将なのである。
しかし、荀林父と士会が撤退を決めようとした時に、異を唱えた大夫がいる。中軍の佐、先穀であった。この将は、敵の強壮なのを聞いて怯むのは愧であると言って、軍を率い、黄河を越えてしまったのである。
これは明らかな軍律違反である。といって、拱手して見ていることも出来ない。といって、既に制止は利かず、引き戻すにも手遅れであった。
逡巡する荀林父に、司馬である韓厥という人が進言した。
「既に我らは時遅くして、鄭を楚子に奪われたのです。これは我らの罪ですが、この期において軍律が徹底されずに兵を失うことがあれば、それは貴方一人の罪となります。どうせならば、その罪も我らで同じくしようではありませんか」
先穀の独断の咎を一人で負うことはない、と韓厥は説いたのである。また、中軍の佐だけを突出させて退陣するくらいであれば、全軍を率いて鄭に入ったほうが、いくらかよい。そう考えた荀林父は、やむなく黄河を越えて、軍を南に進めることにした。
一方の熊旅も、晋軍来ると知るや、兵を返そうとしていた。
晋軍の大軍容もさることながら、
――士会がいる。
ということが、大きな理由としてあった。
晋の大夫としてだけでなく、秦で客将であった間にも、士会という将の敗戦を見た者はいない。
実はこの時、晋楚ともに、会戦を避けんとする意向は共通していたのである。
しかし、晋軍の先穀がそうであったように、楚軍の中にも、決戦を声高に叫んだ者がいた。伍参である。
ここで少し余談を挟むと、伍参は、かつて熊旅を諫めた伍挙の父とされている。しかしそうなると、二人の年齢がおかしなことになってしまう。史書の中で伍挙と伍参が混合された、と考えたほうがよいかもしれない。
少なくとも、伍氏の誰かが熊旅に決死の諫言をしたことは事実であろう。それ故に、伍氏は楚にあって顕職を担っていた。そしてこの伍参は、晋と戦うべしと主張したのである。
これに赫怒したのは、蔿艾猟であった。
「先年は陳、そして今年は鄭へ派兵した。将兵ともに困憊の最中にあって、戦うのは愚行である。もしそれで戦果を得られなければ、私はお前の肉を食べても飽き足らないぞ」
舌鋒盛んに、激烈たる面罵を口にした。
「もし勝てば、貴方は軍略に長じていないということになる。敗れた時には、私は敗死しているでしょうから、その骸は敵中にあって、貴方が口にすることは出来ないでしょう」
伍参は、そう言って耳を傾けなかった。
蔿艾猟は憤慨し、旗を翻し、戦車を南へと向けた。何よりも、君主たる熊旅がすでに兵を退くつもりでいるので、伍参一人が吠えたところで、その進言は通らないと見たのである。
しかし伍参は、熊旅の下に赴くと、熱弁を繰り広げたのである。
晋では大夫同士の和が乱れ、軍律は正しく行われていない。加えて、国君が出陣せず、卿大夫の率いる軍である、と。
「国君の兵が臣の兵を避けるは、楚の社稷を穢すこととなります」
最後に、伍参はそう言った。覇者としての体面のことを思えば、伍参の言葉は熊旅に響いたと言える。熊旅はついに、一度、南に戻した戦車を、再び北へと向けさせたのである。
この時の、蔿艾猟の憤慨は並々ならぬものであった。
しかし君命である。従わぬわけにはいかない。そこで蔿艾猟は、戦車を熊旅の下に寄せて、進言した。
「戦いに勝つとも、これを保つことは難しいことです。また、王の祖たる若敖、蚡冒は粗末な車と襤褸とでもって山林を啓き、今日の楚の隆盛の元を築かれたのです」
それは、蔿艾猟が事あるごとに口にする説教である。また、熊旅も軍中において、兵士たちに語っている訓戒であった。故に、一言違わず知悉していることであるが、熊旅は黙って聞いていた。
「臣民の生活をよくするには、ひたすらに務めることです。怠惰に走らず、勤勉であり続ければ、民が苦しむことはないでしょう」
もはや晋との戦いを止めることは出来ない。そうであれば、ただこのことを念頭に置くべしと告げたのである。代わり映えのしない説教の他に、蔿艾猟は言葉を持たなかった。
そういった胸中を悟了しているからこそ、熊旅も、静かに頷くのみであった。聞き終えてから、
「のう、令尹よ。そなたは、天命というものを信じるか?」
と、聞いた。
卒爾におかしな問いを投げられて、蔿艾猟は戸惑いを見せた。自らの主君が、そういうものを信じているとは少しも思っていなかったからである。
――自らは信じていないからこそ、その有無を問うてみよう、ということだろうか。
これまで、熊旅からの下問には何であれ即答していた蔿艾猟にとって、この問いは初めての難問となった。迂闊なことも言えず、目を伏せて暫し考え込むと、やがてゆっくりと顔を上げた。
「天命とは、暗闇の中にある道のようなものです。確固としてそこにあれど、我らには正しくすべてを知る術はございません。故に、辿り着いた果てこそが天命なのではないでしょうか」
「それでは、無いと言っているのと変わらないではないか」
「王がそう思われるのであれば、それでもよろしいでしょう。人の世はどこまでも玄通なものでございます」
滔々と語られると、熊旅も段々とそういう気がしてきた。
蔿艾猟は天命というものを、人が大業を為したときに、それを天佑と思うか、己の功績であると思うかの差異でしかないと口にしたのだ。
しかし、つい先ほど、倨傲を戒めんという話をしたばかりである。
熊旅としては、事が巧く運んだときには、天に嘉されたと思うほうがよい、と感じた。
――かつて樊姫は、寡人のことを、傲る晋に振り下ろされる天意であると言った。それが真実であるとして、しかし、戦火を引き起こす者が天意を自称すれば、次なる天意の執行者が現れて楚に報いを与えるであろう。
この時の熊旅は、そう思っていた。
しかし後念、まさに熊旅の考えの通りに、楚は一人の男によって天意と言うべきものを突き付けられることとなるのであった。




