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蒼天の比翼  作者: ペンギンの下僕


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14/25

楚后樊姫

 申叔時はまず、熊旅の陳への出征に賛辞を贈った。

 臣下が君主を殺すことは大罪であり、熊旅が夏徴舒を殺したことは義であると言ったのである。

 褒められている。自分の行いを肯定されている。それなのに、熊旅は気が気でなかった。

 この時、熊旅の心の片隅には乱に乗じて陳を併呑したことへの後ろめたさがあり、申叔時に祝辞を求めたのには、この老大夫に認めてもらうことで自身の行いが正しいと思いたいという心の弱さがあったのだろう。

 だが申叔時は熊旅の心情を目ざとく見て取った。

 熊旅が何も言わなければ、申叔時は日を改めて、厳しい言葉をもって直諫したであろう。しかし、背徳であるという自覚を持つ熊旅を前に申叔時は、


「牛を牽いて他人の田を踏み荒せば田主がその牛を奪う、という言葉がございます」


 と、喩え話を持ち出した。


「他人の田を荒らすことは無論、悪行でございます。ですが、だからと言ってその相手の財である牛を奪ってよい道理にはなりません」


 誰かが悪行を行ったからといって、悪行を正す際にこちらも悪を行ってはならない。申叔時はそう諭したのである。熊旅は過ちを認め、陳を国として復刻させることを決めた。この決定に対して申叔時は、


「これをその懐に取りてこれを与えるなり」


 と言った。一度他人の懐から奪った物を返す、ということになる。

 手厳しい言葉であった。他人から奪った物を返すのは徳などではない。元を正せばそれは己の物ではないからだ。しかし、返さぬよりは善いであろう、というのが申叔時の評価であった。

 その後、太子嬀午が帰国することで陳は国として復活する。熊旅はこの時に儀公父と孔寧とを陳に返した。厄介払いをした、というほうが正しいだろう。




 申叔時の言葉に従い陳を復権させた熊旅だが、一つだけ持ち帰ったものがあった。

 夏姫である。

 熊旅が夏姫を欲したというよりは、乱の元となった傾国の美女を陳の国人が放逐したというべきであろう。

 熊旅も、夏徴舒を殺した後にその姿を見たが、確かに美人であった。しかしどうにも大人しく、木石のように物言わずな女である。我が子を殺した熊旅に対しても怒りを見せることなく、静かに頭を下げるのみだった。

 熊旅はその顔の良さよりも、薄気味悪さを覚えた。


 ――どうしてこのような女が、一国の君主と二人の大夫を惑わして亡国の端と成り得たのだろうか。


 しかしそう考えると、逆に惹かれてしまう。

 一たび抱けばいかなる男も逃れえぬ魔性を秘めているのかもしれない。そう思うと、熊旅の中にも、


 ――この女を抱いてみたい。


 という感情が芽生えた。しかし、つい先だって陳併呑の一件を申叔時に諫められたばかりである。

 その記憶が新しい熊旅は独断で決めることを善しとせず、巫臣(ふしん)という大夫に諮った。

 巫臣は羋姓、屈氏の人である。陳への出征に同行した大夫であり、熊旅に従って夏姫を見た人であった。その時から巫臣の様子がどうにもおかしい、と熊旅は見ていたのである。

 あるいは巫臣もまた夏姫を見初めたのかもしれない。巫臣の態度次第では、夏姫を与えてもよい。そうなれば諦めもつく。

 熊旅は、


「夏姫を後宮に入れようと思う」


 と言った。巫臣は、それはよくないと言った。


「王が諸侯より兵を集め夏徴舒を倒したのは、夏徴舒に罪があったからです。その結果として美女を手にし、後宮に入れるとなれば王の義挙は美女を得るための戦いであったと見られることでしょう」


 この諫めに熊旅は安堵した。

 君主としての在位が長くなるにつれ、傲岸さを見せることも多くなった熊旅であるが、しかし臣下の諫めに道理があればこれを聞き入れる謙虚さはある。というよりも熊旅の場合、分かってはいても納得がつかぬことに対し、臣下の諫めを聞いて自分の中で納得させようという想いもあったのではないか。

 ともかく熊旅は夏姫を後宮に入れることはしなかった。

 しかし夏姫が楚にいることに違いはない。早いうちに適当な大夫に与えてしまおう、というのが熊旅の本音だった。

 熊旅がその人選をしている間に、子反(しはん)という公子が夏姫を娶ろうとした。しかし巫臣が、


「夏姫は不吉な女であり、関わった男は尽く死んでおります」


 と忠告したためにこの話はなくなった。

 この話を聞いた熊旅は、巫臣に対して薄気味悪さを覚えた。

 どうやら巫臣は夏姫に執心のようである。といって、自ら夏姫を娶ろうと画策することはなく、夏姫を自分の女にしようと考える者にその不吉さを説くことしかしない。その迂遠さが熊旅には不気味に映ったのである。

 とはいえ、熊旅は一度、夏姫を後宮に迎えようとして、しかもそれを巫臣に諮ってしまった。これを諫めさせておきながら自らの妻にすることなど出来るはずはない。それをしてしまえば巫臣の諫言は夏姫を妻にしたいという私欲から出た言葉となる。


 ――色気など起こさず、疾く巫臣にくれてやればよかった。


 今さらながらにそんな後悔が熊旅の頭によぎった。

 女一人を拾ったことで、後日に大きな禍の種を招き寄せたような気になったのである。そんな予感を覚えた熊旅は、王命として襄老(じょうろう)という大夫に夏姫を娶らせてしまった。




 さて、陳の一件がようやく落ち着いた頃である。

 鄭がまた楚から離れ、晋の盟下につこうとしたのである。


 ――年が明ければ、また鄭に征かねばなるまい。


 こうまで度々背かれるのであれば、いっそ鄭を攻め滅ぼしてしまおうかとも熊旅は考えていた。

 度々、鄭のために兵を出すとなれば軍資も尋常ではない。それでいて、楚が引き返し晋が訪れるとすぐさま離れていくのであれば採算が合わない。

 そもそも、晋楚の二国が鄭を従わせても完全に滅ぼさないのは、鄭をめぐる攻防が二国の直接衝突を避けているからである。鄭はいわば緩衝地帯となっており、だからこそ鄭の去就が勝利のための条件となり、鄭という成果を得れば矛を収めることが出来るのである。

 その鄭がなくなってしまえば、いよいよ晋楚の決戦は避けられないだろう。

 その腹を決めて鄭を滅ぼしてしまうべきか。

 蔿艾猟に諮ると、そうすべきではないと言った。蔿艾猟は戦争を嫌う。それは道義や人倫に反するという話ではなく、無用の出兵が国庫と民に与える負担を考えるが故であり、陳への派兵のような道理のある戦争にまで否定をしているわけではない。

 しかし蔿艾猟は楚の朝廷においては異端であり、大夫の多くは鄭の二面外交を憎んでおり、晋に敵愾心を燃やしていた。

 どうするべきか熊旅には迷いがあった。

 同時に、一つの確信があった。

 来年の鄭への派兵は、その後に大きな会戦を伴う。熊旅が楚王となってから――いや、城濮で楚が晋に敗れて以来、晋楚の大きな戦いというものは起きていない。しかしそれは巨大な堰に水をひたすらにため込んでいるにすぎず、晋楚両国の中で今にも溢れかえってはちきれそうになっていると熊旅は見ていた。

 晋楚が真っ向からぶつかればただでは済まない。

 故にどちらとも、これまでは大きな戦となることを避けてきた。しかしもはやその抑制を利かせるのも限界であろうと思うのだ。

 今の晋は大夫の力が強く、君主の意思は大きな力を持たない。

 熊旅にしても、この先、大夫たちに押し切られてしまえば戦う道を選ぶかもしれないという想いがあった。

 どうすべきか。

 悩みあぐねた熊旅は、樊姫の下を訪れた。

 夜遅くであったのに、樊姫は部屋の中に静かに座していた。燭台に明かりを灯し、静かに書を読んでいる。大国楚の正室であるというのに、華美な装飾や高価な玉などで飾り立てることはせず、その内装は慎ましやかなものであった。


「おや、王よ。このような夜更けにいかがなさいましたか?」

「少し、おぬしと話がしたい」

「それは嬉しゅうございます」


 微笑んで、樊姫は侍女に酒の用意をさせた。

 熊旅は座ると、暫く黙って酒を煽っていたが、やがて口を開いた。


(しん)はどうであろうか」


 審、とは熊旅と樊姫の間の子である。三年前に生まれた子であり、熊旅の太子であった。

 樊姫が熊旅の后となって長らく子が出来なかったので、審が生まれた時の二人の喜びようは大そうなものだった。


「どう、どは如何なる意味でございましょうや」

「善き王となれるかどうかだ。他にあるまい」


 そう聞くと樊姫は口元を抑えて笑った。その笑顔は童女のような無邪気さがあり、真剣な熊旅は毒気を抜かれてしまった。


「王は不思議なことを仰せになりますね。そのようなことはまだ誰にも分かりません。賢王の子が暗君になることもあれば、暴君の子が名君となることもございます。まだ三つの審のことを今のうちから案じられるのはあまりに気が早いというものでしょう」

「それもそうか」

「ですが、審のことはおまかせください。きっと、王の名に恥じぬ善き君主に養育いたしてみせます」


 笑いを消し、声をおさえてそう告げる樊姫は、熊旅の后ではなく母の顔をしていた。

 その振る舞いが熊旅を安堵させた。


「ところで、王がわざわざこのようなことをお話しになられますのは、翌年の鄭との戦に憂いがあるからでございましょう」


 樊姫は目ざとくそう言った。熊旅は隠すこともせず頷く。


 ――樊姫に隠し事は出来まい。


 思えば、郢から攫われた馬車の中で初めて会った時から、熊旅はこの女性に弱い。

 樊姫に助けられて今の自分があると信じている熊旅は、己の胸襟をさらけ出すことに抵抗もなかった。


「私は、いよいよ死ぬかもしれない。晋との戦いはもはや避けることは出来ず、しかも避けてはならぬと思う私がいる。しかし晋は強く、必ず勝てるとは限らない」

「ならば、必ずしも戦う必要はないでしょう。私は女で、戦のことは詳しくはありません。ですが王には、令尹の尊父であらせられる蔿大夫という軍事の師がおられます。蔿大夫であれば、軍の進退は勝敗の算段のみにてお決めになられるのではないでしょうか」


 樊姫の言葉はもっともであると熊旅は思った。

 しかし、樊姫がそう言ったのが熊旅には意外であった。


「しかしそなたは、私に天意として晋を討つことを望むのではなかったのか」


 そう口にした自分に気づいて、熊旅は悩みを吐露しにきたつもりでありながら、実は晋と戦うための背中を押してほしくてここに来たのだと悟った。


「あの言葉は、まだ分別もつかぬ時の戯れです。お忘れください」


 樊姫は穏やかな目をしていた。

 かつて、熊旅こそ天意であると言った樊姫にはなかった柔らかさがある。同時に、熊旅がその時に見た、陽樊という亡国から与えられた怨毒もすっかり消え去っているように思えた。


「人にはそれぞれ立場というものがございます。あの時の私は、陽樊という亡国の公孫に過ぎませんでした。ですが今は南方の盟主たる楚王の后でございます。王の壮健、社稷の繁栄こそが私の喜びであり、他に望むことなどございません」


 そう言われると熊旅には、敢えて晋と激突しようという気にはならなかった。

 しかし心の中に、小さなわだかまりのようなものがあり、それが何であるのかもまた、判別がつかなかった。

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