夏氏の乱
蔿艾猟という蔿賈の子が楚の新たな令尹となった。
しかしこの若き執政と、熊旅という若い王とは、まったく性格が合わない君臣であった。
熊旅が気概に満ち、晋に敵意を燃やし外征に意欲を傾ける王であるのに対して、蔿艾猟は私心がなく、それでいて自分のことを国家を円滑に回すための機構のように捉えている節がある。
ある人が蔿艾猟にこう言った。
「身分の尊い者は人に妬まれ、高官にある者は君主に憎まれ、禄を多く食む者は人に怨まれる」
蔿艾猟は二十代という若さで令尹となった人である。それだけでも他人からいらぬ恨みを買うだろう。まして蔿艾猟は有能な人であったので、向けられる敵意は尋常ではあるまい。それを案じたが故の忠告であったのだろうが、蔿艾猟は落ち着いていた。
「身分が高くなれば志を低くし、高官にあれば心を小さくし、禄が多くなれば施しを多くすればよいのです」
志を低くし、心を小さくするというのは、私というものを行動から排斥するということであろう。
蔿艾猟からすれば身分や官位というものが出来たのは、それが人の世にあって必要なものだからである。ではなぜ必要なのかというと、そういう仕組みが求められるのは、人々に望まれる在り方というものがあるのだ、というのが蔿艾猟の考えだった。
これは、かつての楚の令尹子文の、
「富に近づくことは、死に近づくことである」
という思想に近しいものであった。顕職に身を置く者ほど、その地位がもたらす甘美な蠱惑から逃げなければならない。それこそが、高位の人に求められる振る舞いであり、同時に、その身を安んずるためのたった一つの処世術なのである。
――そのことを分からず地位に溺れ、職分を果たさず、権勢を欲しいままにして我欲を叶えようとすれば、立ち所に排斥される。
それが、蔿艾猟の信条であった。そして、蔿艾猟から見て、楚国において最も権勢を頼んで欲望を満たそうとしている人こそ、主君たる熊旅であった。
蔿艾猟が令尹になったこの年。『春秋左伝』には魯の僖公十年と記されるこの年に、鄭は楚の盟下に戻った。熊旅は大いに喜んだが、蔿艾猟は歓喜に浮かれる朝廷の中で、一人冷ややかな視線を浮かべていた。
蔿艾猟の視線は政治に向いていた。というよりも、高官にあれば心を小さくし、の言葉どおり、それこそが令尹の責務であったと考えていたのだろう。
ただし、国家として首を絞めるような無謀を行わぬ限り、熊旅の外征を諫めることはなかった。
――それを諫めるのは私の役割ではない。
と考えていたからである。蔿艾猟は、自らの職分に心を注いだ。令尹としての蔿艾猟の才能を窺えるものに、築城がある。
熊旅は蔿艾猟に命じて沂という地に城を築くように命じたことがあった。この時の蔿艾猟は実に鮮やかな手腕を見せたのである。
封人という土木を司る官と築城の内容を相談すると、その日程について適切な日時を決め、資材が滞りなく調達出来るよう段取りを整え、さらに自らも現場に立って築城過程を確かめた。そして人夫らがしっかりと働けるようその食事にまで気を配り、現場役人にはその能力を調べて相応しい役目を与え、当初の予定通りに築城を終えたのである。
この手並みに一国の執政の縮図がある。
王命を受けながら独断で行わずに専任の者と協議し、それを実行するための目算を立てる。そして実現させるために必要なものの段取りを行い、能力に見合った人員配置を行う。それでいて、自らが前線に立ち実情を知ることも怠らない。
国家の要職に就く人物とはまさにこうあるべきであろう。
蔿艾猟はとりわけ、人を知るということに重きを置いていたといってよい。それも、目に見える行いよりも、人目に付きにくくとも欠かせぬ役を担っている者に少しでも報えるように、と思っていたに違いない。
そして蔿艾猟という人の異才は、軍事にも大いに発揮された。外征を嫌う人であったが、しかし軍事に疎く、軽んじることはしなかったのである。
蔿艾猟は令尹となると、兵典を新たに定めたのである。兵典とは、つまりは軍法のことであった。
前に、楚の軍制は三軍であると書いた。しかし蔿艾猟の定めた兵典には、左右両翼の他に、さらに前中後の軍が出てくる。これはおそらく、王が率いる中軍においてのみ、さらに事細かにその役割を説いたものであろうと考えられる。
蔿艾猟は、軍における各軍の役割を次のように定めた。
右軍は車の轅を向けてその方向に進む。
左軍は宿衙のための糧秣を集める。
前軍は旌旗を掲げて敵の伏兵に備えながら進み、中軍は権謀を巡らせ、後軍には勁悍な兵を置くべし。
そして、ただ制度として定めただけでなく、実際にそれを上下に徹底させたのである。しかもその在り様は、苛烈に強いることなく、自然と行われていたというのだから、蔿艾猟の定めた兵典の秀逸さは想像するだに難くない。
また、擢登、褒賞、刑罰においても、蔿艾猟のやり方は公平を期したものであったという。後年、ますます盛んとなる楚国の武威の骨子は、蔿艾猟という令尹にもたらされたといって過言ではない。
それでいて蔿艾猟は決して傲ることなく、自ら口にしたように、令尹という名の機構として粛々とこれらの施策を行った。
蔿艾猟は幼いころに両頭の蛇を見た。しかし今日まで生きている。
あるいはそれは、子供の見間違いか恐怖が生み出した幻のようなものであったかもしれない。しかし蔿艾猟は本心から、
――私は昔、確かに両頭の蛇を見た。
と信じていた。しかしそれを殺して埋めたことが今の自分を形作っている。
人に見えない徳を天に見られ、それによって生かされた自分には他者の隠れた徳を拾い上げねばならない。そういう使命感こそが、高官にあれば心を小さくする、と言った蔿艾猟という人にとって唯一の私心と呼べるものであった。
熊旅もまた、自分とは異なる視線を持っていると知りながら蔿艾猟を重用した。
蔿艾猟は生涯のうち、三度令尹となり、三度のその地位を去ったとされている。蔿艾猟が令尹であったのは熊旅の治世だけのことである。熊旅の次代、共王の治世にその名は見られない。
熊旅が蔿艾猟を辞任させたのか。あるいは、蔿艾猟が辞職を申し出たのかは分からない。
しかし熊旅の治世において、虞丘子の後に楚で令尹となった人は蔿艾猟の他にいない。熊旅は一度は令尹の地位を去った蔿艾猟を再び呼び戻したということに他ならず、蔿艾猟もまた熊旅の求めを拝命したのである。
万事において通じ合った君臣ではなかったが、それでも互いにその才覚や素質を認め、歩み寄ろうとした君臣であった。
さて、鄭は一たび楚の盟下に戻ったのだが、その直後に晋が軍を率いて鄭を討つと、またすぐに晋に与してしまった。
――こうもあっさりと離れられてしまうと、楚の立場がない。
熊旅は鄭を討つことを決めた。
しかしこの出征は失敗に終わる。それも、失敗しておきながら怒りよりも敵への称賛が先に出そうになるほどの見事な敗戦であった。
晋の軍を率いていたのは士会である。
士会は気を見るに敏であり、進むべき時に進み、退くべき時には退いた。そうして勝機を見逃さず楚軍を撃退したのである。
負けを認め、郢に帰る陣中で熊旅は、
――蔿賈がいれば。
と思った。
蔿賈の死後、楚に軍事において頭角を現す大夫はいなかった。軍隊としては強く、将兵ともに優秀ではある。しかしそれだけに、偏りや尖りがありつつも時に鋭く敵を討つような異才というものがいなかった。
――このままでは引き下がれぬ。
ここで弱気を見せてはならぬと思い、熊旅は翌年にまた鄭を攻めた。すると鄭は掌を返してまた楚についたのである。
熊旅はあっけに取られてしまった。晋の人もまた驚いたであろう。しかしこれが鄭という国であった。
鄭の人の言い分としては、
「晋楚は徳を敷かず武力にて争っている。ならば我らは攻めてきた方に与すればよい。彼らに信義がないのに、どうして我らが信義を見せる必要があるだろうか」
というものである。
晋楚の首脳は共に、鄭は信のおけぬ国だと考えていた。しかしその渦中にある鄭人の言葉こそが、この時代の真理を突いていたと言ってよい。背信を忌々しく思うことしかせず、何故背かれるのかという思考が抜け落ちていたのだ。
さて、この年の冬。
熊旅は郢の北東にある陳へ兵を出した。陳で内乱が起きたからである。
この乱は先年に起こり、夏氏の乱と呼ばれる。この動乱の渦中には夏姫という女性がいた。
夏姫は鄭の公女であり、陳の大夫である夏御叔に嫁していた。
しかしこの夫は早世した。夏姫が殺したという説もある。その間に夏徴舒という子がいた。この夏徴舒が乱を起こしたのである。
しかし、元の罪は陳公と二人の大夫にあったと言ってよい。
この時の陳の君主は後に霊公と諡される人である。さらにそのとりまきに孔寧、儀公父という大夫がいた。この三人は未亡人となった夏姫と私通し、しかもそれを三人の間で公然の秘密としていた。
三人がそれぞれ、朝廷で夏姫の着物を内に着こんでふざけあっていたというので、この時の陳の朝廷は相当に紊乱していたと言える。しかも三人は堂々と夏氏の家で酒宴を開いていたのである。
あるいは、君主が美しき未亡人を強引に自らの後宮に入れた、という程度であれば夏氏の乱は起きなかったかもしれない。しかし何を思ったか、霊公は二人の大夫とともに夏姫との私通を公然の秘密とした。
三人の淫行はいっそう盛んになった。しかも、それを諫めた気骨の士は殺されたので、陳の朝廷に三人を諫める者はいなかった。それが霊公らをいっそう増長させた。
夏氏の家で酒宴をしながら、夏御叔の子である夏徴舒の容姿について、
「儀公父よ。夏徴舒はおぬしに似ておるな」
「いえ、我が君に似ておられます」
などと言って笑い合っていたのである。
このことを聞いた夏徴舒は大いに怒った。当然のことであろう。
親に似ることを“肖”と言い、不肖の子とは親に似ない子のことを指す。不肖の子とはつまり不孝者であり、霊公と儀公父の言葉はどんな悪口にも勝る侮辱であった。
そうでなくとも、母を慰み者とされ、我がもの顔で家に入り浸る霊公たちに怒りを覚えていたが、この一言でついに耐えきれなくなった。
夏徴舒は霊公の帰り際を狙い、矢で射殺したのである。
このことを知って恐れた儀公父と孔寧は楚に逃げた。
最初、二人の逃亡者を見てその経緯を知った熊旅は儀公父と孔寧を疎ましく思ったに違いない。君主の姦淫を諫めるどころか、同調してともに楽しむような不埒ものである。熊旅の性情はこういった者を好まない。
熊旅は陳については、
――私が何をせずとも、いずれ陳は定まるであろう。
と考えていた。
霊公は死んだがその太子である嬀午は晋に亡命している。いずれ陳国内は落ち着きを見せ、嬀午が陳の君主として即位するであろう、というのが熊旅の見解であった。
しかしその予想に反して、陳は君主不在のまま一年が経った。
鄭を服従させ、ひと段落した熊旅は陳の実情を知って、流石にこのまま捨て置けぬと思い陳に出兵したのである。
熊旅ははじめ、夏徴舒一人を殺せばよいと考えていた。そして実際に、容易く夏徴舒を殺した。
しかしこの時、熊旅は傲岸さを見せた。
――君主は大夫の未亡人と通じ、それを諫める者もなく国が滅んだ。そして今、大夫国人に国内の乱れを正そうとする義士の一人もいない。このような国を残しておいてどうするというのだ。
鄭を服従させ、盟主として南方に長く君臨してきたが故に起きた考えであっただろう。
熊旅は陳をそのまま、楚の領地として糾合してしまったのである。しかも楚の大夫や、楚に追随する諸侯はこのことに祝辞を述べた。そのことが熊旅の気をますますよくさせた。
この時、東方の国、斉に使者として赴いていた申叔時という老大夫がいた。
老齢で物腰穏やかながらも気骨があり、見識に富んだ人物である。この老大夫はどのような言葉で自分を褒めてくれるだろうかと心弾ませていた熊旅であったが、申叔時は任務についての復命を済ませると退出しようとした。
「他に何か、申すことはないのか」
熊旅はつい口に出してしまった。
申叔時は立ち止り、熊旅のほうに向きなおって跪く。叩頭しているので顔は見えぬが、岩のように少しも動かずその場にいる様に、顔を上げている熊旅のほうが気圧されていた。
「寡人に言いたいことがあるならば、言ってくだされ」
そう言うと申叔時は顔を上げた。




