両頭之蛇
まずは蔿艾猟という人について語らねばならない。
熊旅の初期の治世を支えた功臣であり、軍事において卓越した才を持った楚の名将である蔿賈の子である。
蔿賈の子であるので、当然ながら羋姓の人であり、楚で令尹となり得る家格は十分にあった。
面白い逸話がある。
まだ蔿艾猟が幼少の頃、家に帰ると暗い顔をして何も食べなかった。母がその訳を訪ねると蔿艾猟は急に泣き出した。そして、
「先ほど、頭が二つある蛇を見ました。両頭の蛇を見た者は死ぬと聞いております」
と言った。
母親は動揺することなく、毅然とした態度で、
「その蛇は今どこにいますか」
と、泣きじゃくる蔿艾猟に訊いた。
「人が見てしまわないように、殺して埋めました」
蔿艾猟がそう答えると、母は蔿艾猟を抱きしめた。
「陰徳のある者は天より幸福を与えられます。貴方が死ぬことはありません」
そして、諭すようにそう言ったのである。より仔細に語るのであれば、“陰徳有る者は、之に陽報いあり。徳は不詳に勝ち、仁は百禍を除く”であった。
陰徳とは人の目に留まらぬ善行のことを言う。見てしまえば死に至るという奇形の蛇を、他の者が見ないように殺して埋めるという行動は陰徳に他ならず、死に怯えて泣きながらもそういった行いが出来る者は天が見捨てはしない、と母は蔿艾猟を励ました。
ところでこの両頭の蛇という物と、それを見たら死ぬ、という風説が何に由来するのかは分からない。
しかし、蔿艾猟が蔿賈の子であることを想えば、その知識は蔿賈から授けられたものであろう。
長ずるにつれて蔿艾猟は、
――一つの生き物に頭が二つあれば、必ずどちらかを滅そうとする。この大陸にあっては、楚と晋こそが蛇の両頭であろう。
と考えるようになった。見れば死ぬというのは、二つの大国が覇権を求めて争う時代には多くの人が死ぬ、ということではないか。
蔿賈は蔿艾猟に、いずれ晋は倒さねばならない、という意味を込めてこの訓話を話したのであろう。実際に蔿賈は、両頭を一頭にするために熊旅の下で軍事に粉骨した人であった。
しかし両頭の蛇をまとめて埋めた蔿艾猟は父に肖ない子であり、蔿賈とは違う視点を持っていた。
――上辺の徳を喧伝し、見せかけの義で諸侯の上に君臨しようとしている。
蔿艾猟は冷めた目で晋、楚という二大大国を見ていた。母から、仁徳は不詳、百禍を凌駕すると教えられた蔿艾猟にしてみれば、所詮、晋楚の徳は虚妄である。それ故に難が絶えず、国が定まらないのだ。
さて、蔿賈の死後の蔿艾猟は、処士と呼ばれる立場であった。学識がありながら、官位を求めず在野にある人をこう呼ぶのである。
蔿氏は楚では名家であり、父である蔿賈は熊旅からの信頼が厚い功臣である。
蔿賈の死に際して熊旅は当然ながら、その継嗣である蔿艾猟に出仕を求めた。しかし蔿艾猟は服喪を理由にこれを辞し、喪が明けても楚の朝廷に出仕することはなかった。
蔿艾猟からしてみれば、
――楚王は政敵を除くために父を利用し、殺した。
という疑念がある。
熊旅の方にも、
――闘氏排斥のために蔿賈を巻き込んでしまったが故に、無二の名将をむざむざと死なせてしまった。
という悔悟から、出仕を拒む蔿艾猟に対して遠慮していた。蔿氏を政界に誘わぬことが蔿賈への誠意であると思い、敢えて蔿艾猟から目を背けていたのである。
しかし今、虞丘子は自分の後任として蔿艾猟の名を挙げた。
「彼の者は才に秀で、しかも寡欲です。王が政治を任せれば必ずや楚を善く治め民は服することでしょう」
そう語る虞丘子に、熊旅は難色を示した。
それは虞丘子の推挙や蔿艾猟の素質を疑っているのではなく、自分が招いても蔿艾猟は来ないだろう、という諦観から来るものであった。
虞丘子はそんな熊旅の憂いを悟った。
「臣が、蔿氏を招きましょう」
その不安を払うように虞丘子は力強く言った。
虞丘子はさっそく、人を遣って蔿氏の食邑に赴いた。
処士と言えど蔿艾猟は蔿氏の長である。在野に下って世捨て人のような生活をすることは出来ず、最低限の邑主としての職分は行っていた。
郢から使者が来たと聞いたとき、蔿艾猟は取り次いだ家宰にいやな顔を見せた。
それが虞丘子の家人であると聞くと、病と言って断れと告げた。
すると引き返した虞丘子の家人は、次に来た時には車に見舞いを積んでやってきた。蔿艾猟は居留守を使い、家宰に命じて丁重に見舞いの品を持ち帰らせた。
ちょうど、年が変わる時期である。
虞丘子は年賀の使を出した。しかし蔿艾猟は、その使いさえ門の内に入れなかった。
「ここまでなさる必要がありますか」
妙齢の家宰は怪訝そうな顔をした。虞丘子の家人は礼を尽くしている。それなのに瞭然の嘘をついて追い返すのは不義理のように思えたからだ。
しかし当の蔿艾猟は済ました顔をしており、悪びれている様子はない。
この蔿艾猟という人は若い。
父である蔿賈が初めて史書に現れるのが魯の僖公二十七年のことであり、三十三年前である。その時の蔿賈は弱年であったとされるため、当然ながら蔿艾猟が生まれていたとは考えにくい。どれだけ早くとも蔿艾猟の誕生は三年ほどは後のことであろうと思われる。そうなると、蔿艾猟の年齢はまだ三十にも届かないことになる。
この若い主人を、老家宰は、
――よく分からない人だ。
と思って眺めていた。
邑内を治めるのに疎漏はない。それどころか、蔿賈の下で長年仕えてきた彼からして舌を巻くほどに優秀であるのだ。しかも寸暇を惜しんで書を読みふけっている。しかし蔿賈の後を継いで楚の朝廷に出仕しようという姿勢をまるで見せない。それが不思議なところであった。
楚は南国であり、夏は酷暑となる。
それでもやはり冬は寒い。ある豪雪の日のことである。家宰が召使たちに命じて屋根の雪下ろしをしていた時に、不意の来訪があった。
――また令尹の家人か。
嫌な顔をした家宰は、渡された木札を見て驚愕した。
訪ねて来たのは虞丘子その人だったのである。流石に楚の令尹を門前払いすることは出来ず、蔿艾猟は部屋に暖を焚いて虞丘子を招き入れた。
「さて、令尹どのが我が家にいかなる要件でございましょうか」
蔿艾猟は恭しい態度で、しかし気を緩ませずに聞いた。
「私と共に郢に来ていただきたいのです。そして、私の後任の令尹となっていただきたい」
そう請われると、蔿艾猟は素直に頷いた。
「令尹になる、とはお答えいたしません。ですが、郢には参りましょう」
これまで居留守を使っていたのが嘘のように、蔿艾猟は虞丘子の招きにあっさりと応じた。
後でこの話を聞いた家宰は蔿艾猟に訳を聞いた。
「人が人を知り、薦めるということはとても難しい。令尹が私に人を遣ったのは、役人か将軍かになれという話だと思っていたので断った。しかし今、あの方は富貴の身にあり位人臣を極めながらも、その地位を譲るために自ら私を訪ねてくださった。無碍にするわけにはいくまい」
蔿艾猟は目だけで笑ってそう答えた。
こうして蔿艾猟は虞丘子に伴われて郢に来た。熊旅は早速、蔿艾猟と会うことにした。
目通りし、形ばかりの言葉を交わすと、熊旅はさっそく蔿艾猟に政治について聞いた。
「寡人は未だに国是を明確に定めることが出来ていないのだがどうすればよいでしょうか」
熊旅は目下である蔿艾猟に対して、師に問うように恭しく聞いた。
「百姓とは明確な国家の方針というものを嫌うものです。王は百姓から怨みを受けるのを恐れてそれを定められずにおられるのではないでしょうか」
直截な答えである。
政治には明確にすべきところと、敢えて曖昧にしておくべきところがある。それを、臣民への詐とならぬよう、国家としての帳尻を合わせるところに政治の妙があると言ってよい。
しかし、やはりそれは小手先のことに過ぎないと蔿艾猟は批判したのである。
熊旅は心の中で呻った。
しかし、その飾らず媚びることもなく、それでいて物怖じすることのない態度には好感を抱いた。
「そうかもしれません。ですが、それは寡人一人の罪と言えましょうか」
熊旅は敢えて試すようなことを言った。
「君主が士大夫に驕りを見せれば、我が力なくして士大夫が富貴を得ることは出来ないと思われるでしょう。士大夫が君主に対して傲岸を見せれば、我ら無くして君主は君主足りえないのだと思いあがることでしょう」
蔿艾猟は、やはり堂々と答えた。
「君主は国を失ってから、士大夫は地位を失い飢えと寒さを知ることで、ようやくそれを悟ることでしょう」
これは、闘氏を力で排斥した熊旅への批判である。
闘淑に、我らありてこそ楚国ありという不遜があったことは否定できないが、同時に熊旅にも、楚王の意に添わない令尹など不要であるという傲岸さがあった。
「君臣が同じ方向を見て、心を一つにすることが出来なければ国是を定めることなど出来ないでしょう」
蔿艾猟はそう結んだ。その言葉には熊旅への痛烈な批判がある。今の楚の朝廷は君主と臣下が違う方向を向いていると真っ向から言ってのけたのだ。
そう批判した上で蔿艾猟は熊旅の出方をうかがった。
しかし熊旅は、一瞬だけ眉をひそめて苛立ちを見せたが、すぐに顔に笑みを浮かべた。そして、
「ならば、士大夫らと協議した上で国是を定めなければなるまい」
と言った。そして蔿艾猟に命じた。
「艾猟よ。そなたは令尹となってその主導を行え」
大抜擢と言ってよい。しかし、今の令尹である虞丘子は蔿艾猟を推すつもりであったので、予定通りとも言える。
しかし熊旅は、あくまで最後は自身の判断で決めるつもりでいた。
そして蔿艾猟も、熊旅が凡君であったならば何か理由をつけて領内へ帰ろうと考えていたのである。そして今も、熊旅のことを完全に認めたわけではない。
――この王は、両頭の蛇を埋める人であろうか。あるいは、両頭の蛇を衆目に晒す王であろうか。
それを見極めなければならない、という想いもあり、熊旅の命を受けて令尹の座を拝受した。
ちなみに、今更ながらに熊旅の年齢の話をしておくことにする。この年は魯の宣公十年となる。熊旅の在位十三年目であるのだが、即位した翌年を元年と数えるので、即位から十四年が経過したことになる。熊旅もまた弱年で即位した人であるので、三十には届かないだろう。
蔿艾猟もまた二十代である。
ともに、まだまだ若い王と執政という君臣であった。




