堂上兼女、所以観人能也
皐滸の戦いにおいて熊旅は苛烈さを見せた。従軍した者を尽く攻め滅ぼし、逃げた闘淑もやがて囚えられ、殺されたのである。ただ、闘淑の子の賁皇という人物のみが追手を避けて晋に亡命した。この人物は後に晋で苗という食邑を与えられて苗賁皇と名乗り、晋の大夫として楚と戦うこととなる。
このような処断を行った熊旅であるが、闘氏を族滅したわけではない。皐滸の戦いが起きた時、克黄という人が公務で宋にいた。子文の孫にあたる人であり、楚で箴尹という官についている人物である。子文の孫であるので、この人も当然ながら闘氏である。
ちなみに箴尹とは諫言を司る官であり、君主の過ちを諫めるのが主な役割であった。
闘淑率いる闘氏の謀反と大敗を聞いた人が、克黄にこのことを話した。そして、楚に帰らず亡命すべきであると忠告したのである。
しかし克黄は、
「君命を帯びて国外に出ながら、それを果たさずに逃げた者を受け入れる人物などいない。それに、君主とは臣にとって天に等しいものであり、これから逃げることなど出来ない」
と言って帰国すると、復命し、それを終えると自首したのである。
しかし熊旅は克黄に得度を見せた。
「子文ほど功がある人でも家を残せないようであれば、寡人は臣下に忠勤に励めと言う資格はない」
熊旅は闘氏による専横を嫌い、国家の要職が一氏に独占されている現状を変えたいと思っていた。
しかしそれは闘氏への怨みというよりは、闘淑や闘般の傲岸への怒りであったと言ってよく、熊旅は子文のことをとても尊敬していた。
むしろ、
――他氏の私でさえ令尹子文を尊敬して止まないというのに、その血を引くお前たちは子文の遺徳を貪って腹を肥やすことしか知らぬのか。
という憤慨が今回の騒動を起こしたのである。
そして、我が身の安泰よりも与えられた国務を重んじる克黄を見て、
――見るがいい。これぞ令尹子文の教化の賜物である。
と思ったに違いない。
さて、闘淑が死んで、次に楚の令尹となったのは虞丘子という人であった。
この虞丘子という人物には謎が多い。
楚で令尹となっているからには羋姓の人であろうと思われるのだが、羋姓の虞氏という族がどこから現れたのかが分からないのである。
氏となりうるのは地名か、氏族の長である人物の諱や字、もしくは官職である。
地名で言えば周の西にかつて虞という国がある。しかし虞は既に晋に滅ぼされており、その領地となっている。さらに言うなら虞も晋も姫姓であるので、虞の公族や、虞を食邑として与えられた晋の大夫の縁者という可能性は極めて低い。
虞氏という族は探せば見つかるのだが、羋姓に特定してしまうと一気に分からなくなってしまう。
無難に、楚の公族に虞という名を持つ人がおり、その裔孫であると思っておくのがよいような気がする。
少なくとも、熊旅がこの人をどこで見出したのかは定かではない。だが、熊旅にとっては闘氏の支配から脱却してより、初めて自分で擢登した令尹である。
令尹を改めた熊旅にとって、目下の課題は鄭であった。
楚は皐滸の戦いの年とその翌年に鄭を攻めたが成果を得られなかった。さらにその翌年になって、ようやく鄭を楚の盟下に引き戻すことが出来たのである。
しかし鄭は、また一年もしないうちに楚の盟下より離反してしまった。
――鄭ばかりを気にしすぎるのはよくないかもしれぬ。
そう思った熊旅は、敢えて北ではなく東に目を向けることにした。
魯の宣公八年。郢より南方の舒という地の者たちが楚に叛いたので、熊旅はこれを討つために東へ向かった。そして舒を伐つと、さらに東にある呉、越の国と同盟を結んだ。
しかしこの二国は楚からあまりにも遠く、この盟については、二国の軍事力を頼みにしたというよりも、
――眼前ばかりを見ていて立ち止まったり振り返ることを怠れば、思わぬところで足を掬われる。
という直感からきたものである。
しかしこの頃の熊旅の視線は国外に多く向いていた。熊旅としてはどうしても晋を意識せざるを得ず、それがため鄭に注心してしまうのだ。
さらに翌年、楚はついに大挙して鄭を攻めた。
しかし晋が南下してきてその進軍を阻んだのである。
熊旅は苦々しい顔をして鄭から退き返してきた。外征が思うようにいかず、軍旅の中にある熊旅は常に苛立ちを覚えていた。
しかし一方で、国内で聴政に当たっている時の熊旅はとても充実していた。
熊旅の虞丘子への信任は厚く、事あるごとに虞丘子に意見を求めた。熊旅にとっては、初めて自分で擢登した令尹である。公平な目で見なければと思いながらも、虞丘子の成果を、
――見よ。私の人を見る目は確かであろう。
と誇らしげに思い、自惚れに浸っていたところはあった。
ある時、熊旅が虞丘子と国事を諮っていたことがあった。政談は盛んになり、夜遅くになるまで続いた。ちょうどその日、熊旅は樊姫の元を訪ねることになっていたのだが、政治の話に熱中するあまり、熊旅が樊姫の下に赴いた時には約束の刻を大きく過ぎていた。
「朝廷での職務は終えられましたのにまだ政務を為されておられるとは、王は空腹というものを知らぬようですね」
嫌味のように樊姫は言う。
約束の刻に遅れたのは確かに熊旅の非に違いない。しかし、王として国のことを考えていたが故という自負のある熊旅は、そのようなことを言われて愠色を示した。
「賢人と話しているのに、どうして空腹を知ることがあろうか」
熊旅は堂々と言った。
「王の言う賢人とは何方でございましょうや」
そう訊かれて熊旅は冷静さを取り戻した。
最初の言こそ嫌味のようであるが、樊姫がそういう婦人らしい皮肉を言う人でないことは熊旅が誰よりも知っている。何か含みあってのことだろうと感じ取った。
「虞丘子である」
そう答えると樊姫は口元を抑えて笑った。
熊旅はつとめて慇懃に、樊姫の笑みの理由を聞いた。
「虞丘子は賢人ではございます。ですが、忠義の人ではありません」
樊姫は回りくどい言い方をした。
しかし、こういう言い方をするのが樊姫という后であると知っている熊旅は、怒ることなくそのわけを聞いた。
「私が王にお仕えして十余年になります。その間、私は鄭と衛とに人を遣って女性を集め、王に勧めてまいりました。今、私より賢い者が二人、私と同列の者が七人おります」
ここで樊姫が鄭とともに衛という国を挙げたところに不可解さがある。
鄭が楚の盟下にいた時であれば、鄭から賢女を求めることはおかしなことではない。羋姓の多い楚の国内を離れ、他国の公女や大夫の娘を側室に求める必要があるからだ。
しかし衛は長きに渡って晋の盟下にいる国である。楚とは地理的にも遠く、そこへ人を派遣してまで王の側室を求める理由は分からない。だが、わざわざ樊姫が言うとなれば、樊姫には何か伝手があったと思うべきだろう。
「私とて王の寵愛を独占せんとする思いはございます。しかし私は同時に、『堂上にて女を兼ねるは能く人を観る所以なり』とも聞いております。故に私心を廃して王に見聞を広めていただきたいのでございます」
ここで樊姫の言う、『堂上にて女を兼ねるはよく人を見る所以なり』という言葉は分かりにくい。
堂上とは朝廷において王の座すところを指す。そこに女を兼ねるというのは、如何なる貴人であってもまずは妻のことを知ることから始め、そこから来る経験と知識によって人を見る目を養え、という意味であろう。より俗な言い方をするのであれば、身近な人間を理解しようとする心が人を見る目を鍛えることになる、ということである。
樊姫のこの言は、国外にばかり目を向けて楚国内のことがおざなりになっていた熊旅への批判である。
「さて、虞丘子でございますが、彼が楚の令尹となってから、その子弟を推薦することはあっても縁故の無い賢人を推挙し、悪臣を排斥したという話を聞いたことがございません。賢人を知っていて推挙しないのは不忠であり、賢人を知らないのは不智でありましょう」
樊姫の言は、柔らかい言葉の中に耳に痛い叱責がある。
それは虞丘子に向けられたものであり、熊旅に向けられたものだ。
鄭に固執し、外征を繰り返しながらも成果が上がらない。それは楚という国の停滞であり、いずれ国難を招きうる。しかしその危機感がなく、自らが擢登した令尹の悪しきところを見ようとしない熊旅に対して、樊姫は敢えて厳しい言葉をかけたのである。
次の日、熊旅は樊姫とのやりとりを虞丘子に告げた。
いかに樊姫が賢夫人であるといっても、政治に携わらぬ婦人の言葉である。虞丘子は赫怒してもおかしくなかった。しかし、虞丘子は神妙な顔をしていた。
そして、慎みながら熊旅にこう言った。
「臣は、法を遵守させることで名誉を得ることが出来、それを行うための能力が薄い者が高位を望むこと、また仁智なき者が名誉を求めること、才能なき者が富を求めることはあってはならないと聞いております」
熊旅はもっともであると頷いた。
「臣が令尹となってから、国は治まらず、訴訟は絶えず、罪人は減らず、在野の賢人を推挙することも出来ず、淫禍を討つことも出来ませんでした」
虞丘子はそれを、自らを指して言っているのだと知ると熊旅は大声で否定した。
「そんなことはない。貴方がいなければ寡人は楚を治めることが出来なかったでしょう」
樊姫に手厳しい批判を受けたことは承知しながら、しかしこれもまた熊旅の心からの言葉であった。
樊姫の批判も虞丘子の自責も、ともに虞丘子という人の瑕疵にのみ言及したものであったと言ってよい。この人の業績について史書は多くを語らないが、闘淑の後に令尹となり、彼の後代の令尹までの間、楚に大禍なく熊旅が外征を思うがままに行えたのは間違いなく虞丘子の功績であろう。
執政に国を治める能力がないのに王が戦争を続ければ、その国は衰退していく一方である。しかしこの頃の楚にそういった翳りは見えない。
熊旅が敢えて樊姫の言葉を聞かせたのは、
――もう少し、子弟の外に擢登の目を向けてくれればよい。
という想いからであった。
しかし虞丘子は賢明な人であり、また潔い人であった。
「長きに渡って高官に在る者は貪欲です。というのも、それは自分よりも優れた人間を君主に推挙しないからです。まして今、楚には私に勝る賢者がいるというのにその人を王に推薦しないというのは、王に対する欺きに他なりません。臣は、自らよりも優れた人物を推挙することで令尹の位を辞したいと思います」
自分より優れた人物を推挙する。虞丘子はそう言った。
しかし熊旅にはそれが誰のことか分からなかった。少なくとも、熊旅が見た限りでは楚の朝廷の中に虞丘子よりも有能な人物はいない。だが、自惚れが目を曇らせているかもしれないと思った熊旅は、それが誰であるのか虞丘子に訊いた。
「それは王が誰よりもご存じでございましょう」
虞丘子は迂遠な言い方をした。
しかし熊旅には分からなかった。
「はっきりと申せ」
と言うと、虞丘子は居住まいを正した。
「蔿氏の、艾猟どのです」
そして朗らかな声で言った。
虞丘子が挙げたのは、蔿賈の継嗣である蔿艾猟という人であった。




