第一章・3
―3―
「おー。お疲れ」
東田は常磐に向かって手を上げた。
「すいません、わざわざ待ってもらって」
「おー待った待った。結構な大手術?」
「まあ、神経まではいってないそうなんで。傷口開くから動かすなとは言われましたけど」
手術室から出てきた常磐の左腕は、肘の下から手の甲まで包帯に巻かれていた。
現場から一番近かった小さな病院の待ち合い室には今、他に誰もいない。
血の染みだらけのワイシャツを着ている常磐に、東田は持っていた常磐のコートを差し出した。
「着るか?」
「……もうダメですね、これ」
右腕部分は肩から破け、かろうじて糸数本で繋がっているだけ。左腕はナイフによって裂かれ、染み込んだ血が乾いてガビガビになっている。スーツの上着も同じ有様でもう着れそうにはない。
コート、これしか持ってないのに……。
しかし他に人もいないこの待合室は思いの他寒く、東田が自分の着ているコートを貸してくれる……などという優しさを見せることはまず絶対にないので、仕方なく常磐はそのコートを肩に引っ掛けると、病院の硬い長椅子の、東田が座っている隣に腰を掛けた。
我ながらみっともない犯人確保の瞬間だった。迫るナイフをひらりとかわし、素早く犯人を背負い投げ、その手に手錠をかける……なんて、映画やドラマのようにはいかないのは当然とはいえ、これはあまりにも格好悪い。
「もう帰れるんだろ?」
「ええ。痛み止めをもらえるそうで。今は局部麻酔が効いてるから何にも感じないんですけど」
常磐の腕を覗き込んだ東田は、ふと思い出したように言った。
「そういやお前、左利きとか言ってなかったっけ。不便じゃね?」
「一応両方使えるんですよ、俺」
常磐は怪我をしていない右手を、開いたり閉じたりして見せる。
「そりゃあ器用なことで」
「子供のとき直されたんで。文字書いたり、飯食べたりは右でできます」
「ふうーん……」
東田は何か考え、
「常磐」
「はい?」
「ほら」
コートのポケットから取り出した、丸まったティッシュを常磐に投げつけた。
「わ! 何するんですか。いって!」
「……とっさに出る手はやっぱ左か」
「やめてくださいよ。動かすなって言われてんですから」
「わりぃわりぃ」
少しも悪びれた様子もなく、東田は言った。
「顔の傷は?」
「ああ、これは縫うほどじゃないんで」
血は結構出たものの、左目の下に負った傷は浅かったため、テープを貼るだけの簡単な処置が施されていた。
「悪人顔にさらに箔がついたな」
「東田さんの方がよっぽどヤクザな顔してるくせに……」
「あ?」
「なんでもないです」
いちいち言い返していたらキリがない。
「……で、常磐、お前なんで田村を捕まえられたんだよ」
「田村?」
東田の口から出た名前に聞き覚えがない。
「ああ、お前まだ名前聞いてなかった? お前が捕まえた婦女暴行犯」
「そうか。早く署に戻らないと……」
「もう捕まえたんだ。焦ることはねぇよ。お前は名誉の負傷中なんだし」
「でも」
「俺は、お前がどうやって田村を捕まえたか知りたいんだよ」
言いながら大きな欠伸をする東田。
「それが俺、あのとき夢を見たって言ったじゃないですか」
「あー、そんなこと言ってたな」
「それが、女の子が襲われる夢でして」
「ほお」
「その夢に出て来た子に、そっくりな子が目の前を通り過ぎたので……」
「それで?」
「つい後を追いかけたら」
「夢と同じく襲われたと」
「そうなんですよ!」
「アホか……」
「本当なんですってば」
東田の反応に不満顔の常磐。
「こういうのってなんて言うんですっけ?」
「あ? 予知夢とか?」
「じゃなくって、ほら、横文字で」
「さっぱりわからん」
「えーっと。ほら……ジデブー?」
常磐がそう言ったとき、
「ふ」
後ろで誰かの笑う息づかいが聞こえた。
「失礼。別に聞くつもりはなかったんですが。ほら、ここは静かなもので」
いつの間にか斜め後ろの席に男が座っていることに、常磐は今、気がついた。
まだ若いその男は、常磐たちに人当たりの良い笑顔を向けて来た。若いわりに身なりがきちんと整った男で、物の値段がよく分からない常磐にも、男の皺一つないシャツや品のいいネクタイ、腕にたたんで掛けている暖かそうなコートが、高いものだろうということが分かる。なにより、それが似合う男前である。
「デジャヴュのことですね」
男が言った。
「え?」
「先ほどお二人で話してましたよね。デジャヴュ」
「そう! それですよ、それ。デジャブー」
すっきりしたような常磐とは逆に、眉をひそめる東田。
「デジャブー?」
「ええ。デジャヴュ。既視感といって実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることをそういいます」
「へえ」
男の説明に感心する常磐。
「デジャヴュの場合、ある行動を元に記憶が呼び覚まされるような感覚のことを言うので、予知や予言とは少し違います。あなたのお話は、どちらかというとデジャヴというより、予知に近い気がしますけどね」
「おい、兄さんいったい何なんだ?」
東田が犯人相手の尋問の時のような、凄みのある声で訊く。
「ああ、失礼しました。僕はこういうもので」
男が名刺を差し出す。
「あ、どうも」
常磐は慣れない手つきで名刺を受け取った。
「霞野心療内科クリニック? ええと……きりとう……」
「霧藤愁成といいます」
「変わった名前ですね」
常磐が持っている名刺を東田も後ろから覗き込んだ。
「精神科医?」
「まあ、今はカウンセラーのようなことをしています。なので、お二人のお話もちょっと気になって」
「常磐、ちょっと腕だけじゃなくって、精神も診てもらったほうがいいんじゃね?」
東田の言葉に憮然とした顔をする常磐。
「東田さん、ひどいです」
「ええ、ぜひ。僕で良ければ診察しますよ」
「いえ……遠慮しときます」
「警察の方なんて、きっとご苦労も多いでしょう?」
「えぇ、まあ」
「第三者に話を聞いてもらうだけでも、気が楽になることもありますから」
「いえ、本当に……」
このままだと、本当に精神異常者にされかねない。
常磐が断ろうとしていると、
チリン……
どこかで鈴が鳴る音がした気がした。
「あれ?」
きょろきょろと辺りを見回す常磐。
「どうかしましたか」
「いえ、今、鈴の音がしませんでしたか?」
「鈴?」
「はい」
「いえ、僕には聞えませんでしたけど……」
「俺も聞こえなかったぞ」
霧藤、東田共に聞えなかったと言われ、常磐は首をかしげる。
「あれぇ、おかしいな」
「お前、やっぱ、診てもらった方がいいって」
「だ、大丈夫ですよ」
常磐は言ってふと病院の暗い廊下に目をやり、
「あ……」
と言葉を失う。
「ん? どうした常磐」
「あ、あれ」
常磐の指差す方には、中学生くらいだろうか。小柄な少年が一人立っていた。
少年は、少年には少し大きすぎるグレーのパーカーに、黒くてこちらもダボダボのズボンを穿いている。フードを被っているせいで顔はよく見えないが、濡れたような前髪が額と頬に貼りついている。手にはタオルをぶら下げるように持っていた。
「なんだ、あの子供」
「え、東田さんにも見えるんですか」
「見えてるけど」
「良かった。幽霊まで見えるようになったかと思った」
霧藤は立ち上がると少年を見て言った。
「おはよう。目は覚めた?」
「あれ、お知り合いですか」
常磐が訊く。さすがに霧藤の子供だとしたら大きすぎる。
「ええ、まあ」
しかし少年は返事をせず、霧藤に持っていたタオルを投げて渡すだけ。
『おはよう。目は覚めた?』という霧藤の言葉と少年の様子から察するに、顔でも洗っていたのではないかと思われる。
「返事くらいしたらどうかな」
呆れたように言う霧藤を完全に無視して、少年は出口に向かって行ってしまった。
「まったく……。それでは、僕もこれで。失礼します」
霧藤は常磐たちに軽く頭を下げると、ゆっくり少年の後から病院を出て行った。
このときの常磐は、もう二度と霧藤とその少年に会うことはないと思っていたのである。