第十章・3
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霧藤は話を続けた。
「今まで、勝手に……いえ、外に出たがること自体なかったので、気にかけていなかったのですが」
「俺のせいですね」
「いえ。別に常磐さんを責めるつもりはありません。僕はあなたのことも心配しているんですよ」
「夢ワタリのことですか」
「ええ」
「でも俺はただ夢を……」
言いかけて常磐はやめた。
「ほら、また」
霧藤は少し笑った。
「すみません」
「僕もね、初めは夢ワタリなんて信じていなかったし、夢なんて、たかが夢と思っていたんです」
残りのコーヒーを飲み干し、カップを置く霧藤。
「肉体は脳に支配される。肉体が実際に感じないことであっても、脳が感じさえすれば、それは肉体にとっても現実となる」
「確かに、俺は夢の出来事で、動悸や息切れをしましたけど……」
「ちょっと失礼」
常磐の言葉をさえぎって、霧藤は白衣の胸ポケットに手を入れ、煙草を取り出した。
「吸ってもいいですか?」
「あ、どうぞ」
霧藤は煙草をくわえると火を点けて、一度軽く吹かすようにして煙を吐く。
「人間の脳はありとあらゆることを可能にするんです。……常磐さん、すみませんが、そこの灰皿を取っていただけますか」
常磐の後ろの棚にある灰皿を指差す霧藤。
「はい」
常磐は棚まで行くと、灰皿を持ってきて霧藤に渡した。
「一つ実験をしましょう」
「はあ」
すると霧藤は突然、常磐の手を掴んで、その手の甲に煙草を押し付けた。
「あちっ!!」
叫ぶと、慌てて常磐は手を引いた。
「何するんですか!」
しかし霧藤は落ち着いたもので、
「熱い?」
と、首をかしげる。
その手にある煙草には火が点いていなかった。
「え? あ……熱く……ない」
常磐は自分の手を見た。
霧藤は机の下から、コーヒーのカップを出した。火のついた煙草はその中にあった。常磐が後ろを向いている隙に入れて、新しい煙草を取り出したのだろう。
「今、常磐さんは火のついていない煙草を熱いと感じた。一瞬でも。そうですね?」
「……そうですね」
「常磐さんは僕が煙草に火を点けたのを見て、立ち上る煙を見て、臭いをかいで、僕が持っているのは火の点いた煙草だと認識した」
「それで?」
常磐は手の甲を擦る。なんだか、ヒリヒリするような気がして、気持ちが悪い。
「常磐さんは、僕が火の点いた煙草を机の下に隠すなんて、考えてもみなかった。だから、火のついた煙草を押し付けられたと思い込んだ脳が、手が熱いと勘違いをしたんです」
「分かりやすい説明、有り難うござます」
霧藤は常磐の手を見た。
「手は平気?」
「平気ですよ。実際には火は点いてなかったんですから」
煙草を押し付けられた手を、プラプラと目の前で振ってみせる。
「それは良かった。この実験はね、実際に火傷をする人もいるので」
「え」
「鈴は熱湯と勘違いしたヤカンの冷水で、手の皮膚が腫れるほどの火傷をした」
「水で?!」
「鈴は過去に実際、ヤカンのお湯で軽い火傷をした経験があるそうです。それがなければ、もしかしたら火傷を負うまではならなかったかもしれない」
カップから火のついている煙草を取り出し、灰皿に押し付け火を消す霧藤。
「痛みの記憶は大切なことなんです。痛みを経験し、苦痛を記憶、学習することで、それを回避しようという能力が備わる。しかし、その経験から鈴の体は熱湯をかけられたと勘違いした脳によって、過去に火傷をしたときと同じような反応を表した」
霧藤は立ち上がると、窓を開けた。冷たく冷えた空気が流れ込み、煙草の匂いを薄めていく。
「鈴は特に特別なケースですが。脳の経験を現実のものとする鈴にとって、夢がどれほど危険か……例えば、夢の中で死んだらどうなるか」
常磐は爆弾魔の夢を思い出した。
「常磐さんは手が吹き飛んだとき、激しい動悸を感じた。動悸だけ。しかし、動悸だけで十分でしょう?心臓マヒでも人は死ぬ」
霧藤の言葉に、常磐はゴクリと唾を飲む。
「僕は常磐さんを心配しているんですよ」
霧藤は繰り返した。
「鈴と違って、夢と現実の見分けがつかなくなってしまうような常磐さんは、非常に危険だ」
そして、少し考えるように顎に手をやる。
「どうやって、どうして、常磐さんが他人の夢に同調してしまうのか……」
「そんなの、俺だって教えてほしいですよ」
憮然として言った常盤に、霧藤は苦笑いのような表情をする。
「まさか、警察の常磐さんが、こんな風に鈴と関わることになるなんてね」
十五年前に起こった、一家惨殺事件。
「朝日奈さんの事件は……」
「そう、十五年経った今も、犯人は捕まっていない」