第九章・1
第九章
―1―
「おはよう、灯ちゃん」
開店前の店の入り口を掃除していた大酉は、制服姿に着替えた灯が座敷に戻って来たのを見て言った。
蜃気楼の二階部分は住居になっていて、店の奥の階段で繋がっている。灯は学校へ行く前には、いつも蜃気楼で朝食を食べて行くことにしていた。
大酉は灯の顔色を見て言った。
「よく眠れたみたいだね」
すると、灯がやはり不機嫌な顔をする。
「どこ見てんのよ。変態」
「え、えぇ~……」
謂れのない暴言。
「鈴さんは?」
「鈴様なら……」
座敷の中を振り返って、灯の顔が少しがっかりしたようになる。
「ああ、お休みになってしまいましたか」
鈴はテーブルに突っ伏し、腕を枕に目を閉じていた。大酉は時計を確認して、鈴の肩に毛布を掛ける。
「ほら、灯ちゃんは早くしないと、学校に遅刻するよ?」
「分かってるわよ」
大酉に言い返してから鈴を見て
「一緒に朝ご飯食べたかったのに」
すねたようにつぶやく灯に、大酉は苦笑した。
◆◆◆◆◆◆
「おはようございます、大酉さん」
八時半、時間ぴったりに、新聞を手にした霧藤が店に入って来た。
「おはようございます」
霧藤は新聞の記事から目を離さず、一番近くにあるソファの席に座った。すぐに大酉が朝食を運んで来る。ご飯にみそ汁、ダシ巻き卵といった和風の朝食。
「いただきます」
と、まずはみそ汁に口を付ける霧藤は、ふと思い出したように言った。
「そういえば最近、あれ作ってないですよね」
「あれ?」
「ほら、黒胡麻プリン。結構好きなんだけどな」
店に出す和菓子のことだ。
「ああ、あれは結構手間がかかるので、鈴さんの体調が良くないと」
「大酉さんは作れないんですか?」
「鈴さんみたいには作れなくって」
「そうですか」
「この店ももっと、繁盛してもいいと思うんですけど」
大酉が残念そうに言う。
「場所の悪さもあるかもしれないですね」
霧藤は笑った。
「今じゃ、夢占目当ての女の子がほとんどですし」
「それも鈴次第か」
綺麗な焼き色のダシ巻き卵をほおばる。
「うん、うまい」
大酉は霧藤にお茶を入れながら、少し曇った顔で
「鈴さんのことなんですが。最近ちょっと回数が多い気がします」
と、霧藤を伺う。
「今朝も灯ちゃんが起きてすぐに」
「……そう」
霧藤は腕時計を見て、席を立つ。
「ごちそうさま」
そして、鈴のいる座敷に向かった。大酉は流し場で霧藤の朝食の片付けを始めようとしたが、
「大酉さーん」
座敷の方で霧藤が呼ぶ声がして、手を止めた。
「はい」
大酉が顔を出すと、座敷の開いた戸の前に霧藤は立っていた。
「最後に鈴を見たのは何時ですか」
「え?一時間はたってないかと思いますけど」
「そうですか」
「どうかしましたか」
大酉が座敷を覗く。
「じゃあ、まだそんなに遠くへは行ってないのかな」
霧藤が言う。そこに鈴の姿はなかった。