第一章・1
第一章
―1―
少女が自転車に乗ってやってきた。
少しくすんだような赤い色のコートが印象的な少女だ。
歳はまだ高校生くらい。俺の中にある勝手な『今時の高校生』の印象と比べると大人しそうな子で、顔はまだどこか幼く、美人というよりかは可愛い。
少女は自転車を本屋の裏口前に止めて鍵を掛ける。背中の真ん中あたりまである長い黒い髪が顔にかかり、少女は片手で髪をかきあげた。
俺はそれを暗いところから見ている。
暗い。
俺からは裏口の明かりに照らされた少女の姿がよく見えるが、少女からは俺の姿は見えないのではないかと思われる。俺が立っているのは雑居ビルの隙間のようだ。
暗くて狭い。
右手脇にはゴミが散乱しているし、左手奥には空いたビール瓶の入ったケースが積み重なっている。
少女がこちらに背を向けた。
俺は右手をコートのポケットに入れ何か冷たいものを手にすると、ビルの隙間から抜け出し少女に近づく。
少女が俺の気配に気づいて振り向き、俺の右手に握られたものを見て表情をこわばらせた。
俺の右手に握られているのはナイフだった。
少女は更に近づく俺に背を向け逃げだした。俺は足を速め少女に追いつくと、ナイフを持っていない左手で少女の腕をつかんで引き寄せる。
そしてナイフを握った右手を振り上げると、まっすぐ少女に向かって振り下ろした。
◆◆◆◆◆◆
「うわぁっ!!」
大きな声が口から出たとたん、
「いてっ!」
頭に飛んで来た拳にまた大きな声が出る。
「いてっ、じゃねぇ。常磐、今、寝てただろ」
「……すみません」
常磐要は殴られた頭をさすった。
「夢まで見やがって。おかげで目が覚めたろうが」
寒空の下、安っぽいよれよれのコートを着たその男二人は、道路脇に止めた車の中にいた。
助手席に座っている男、東田昇は元々のしかめっ面を更にしかめて、運転席の常磐を呆れたように見る。
「ええ、おかげ様で。有り難うございました。もう……すごい嫌な夢でしたよ」
寝てしまっていたことを悪びれもせず、力いっぱい殴られたことに不満も言わず、常磐は礼を言う。
「へえ、どんな夢だよ」
「それがですね……」
常磐が話しだそうとしたとき、
『ちょっと、二人とも真面目にやってるんでしょうね』
耳につけた無線のイヤホンから不満そうな女の声がした。
「西山さん、何か動きは」
女の声に答える常磐。
『今のところ、特に何も』
「餌が悪いんじゃねぇか」
『東田、聞こえたわよ』
女、西山夕希の怒りを含んだ声が返ってくる。
常磐、東田、西山は霞野署の刑事だ。東田と西山は刑事になって五年目の同期だが、常磐はまだ一年目の新米刑事である。
そして今は連続婦女暴行・傷害事件の犯人を捕まえるべく囮捜査の最中で、西山は囮としてかれこれ一時間以上、繁華街と繁華街から少し外れた道とを行ったり来たりしていた。
「西山さん、そんな大きな声出すとバレちゃいますよ」
『大丈夫よ、携帯で話してる振りしてるから』
常磐達からは前方に携帯電話を耳に当てている西山の姿を確認できる。
その姿を見ながら東田が言った。
「犯人の狙いは髪の長い女子高生なんだろ? 西山じゃ無理だろうが」
『最近のカツラはよくできてるのよ?』
西山は囮として長い髪のカツラをかぶり女子高生の制服を着ていた。スカートの下にはスパッツを穿いているが……。
東田は軽く笑みを含んだ声で返す。
「問題は髪じゃねぇだろ」
『は?』
「ああ?」
東田と西山のこうした口喧嘩は日常茶飯事。
東田はいつも西山のことを口悪く言うが、常磐は西山を美人だと思う。確かに化粧をほとんどしないため華やかさには欠けるが、はっきりとした目鼻立ちは化粧なんてしなくても十分整っている。
身長は女性にしては高く百七十cmはあり、身長が百八十五cmある常磐は別に気にならないが、自称百七十五cm(おそらくそんなにはない)の東田に言わせると『でか女』となる。
『でか』と『刑事』をかけてるのか、などとくだらないことを言っては、また西山を怒らせるのだ。
「東田さん、被害者はナイフで刺されてるんですから」
ほおっておくとエスカレートするので、二人の間に割って入る常磐。
『そうよ。もっと心配したらどうなの』
「はいはい。気をつけてねぇ」
やる気のない東田の口調。
『あんた、後で覚えておきなさい』
ナイフ……。
常磐はさっき見た夢を思い出した。気持ちの悪いくらいリアルな夢だった。
そういえば夢には人の願望が現れると聞いたことがあるが……。冗談じゃない。きっと、今追っているこの連続婦女暴行・傷害事件の影響だ。
この繁華街を中心に、犯人は被害者が一人になった時を見計らいナイフで被害者に切りかかっている。
一ヶ月半で四人の被害者がでた。四人目の被害者は重傷で、まだ入院中である。被害者は16から18歳の女子高校生。長い黒髪が被害者の特徴の一つ。
そこで常磐はまた思った。夢に出て来た少女も、被害者の特徴に当てはまる。
常磐は欠伸をした。
悪い夢なんか見ないで、ゆっくり眠りたいものだ。
「長い黒髪、女子高生に限定しなければ、選り取り見取りなのにな」
夜遅い時間にもかかわらず人の多い繁華街の方に目をやり、東田が不謹慎な発言をした。
この人はどうして刑事になれたんだろうと、時々常磐は思う。
いや、発言だけでなく見た目も東田は、目つきは据わっていて無精鬚。正義の味方というよりは悪の幹部といった雰囲気で、残念ながら同じく爽やか好青年というよりは目つきの悪い不良顔の常磐と並んで歩くと、どこかのチンピラの兄貴分とその付き人という感じになってしまう。
「お、見ろ常磐、いい女がいる」
本当に、どうして刑事になれたんだろう……。
そのとき、どこからか悲鳴のような声が聞こえた。
「西山。今の聞こえたか」
東田が西山に訊く。
『ええ。今確認するわ……。ちょっとそこのあなた? ちょっと、待ちなさい!』
西山の無線が途切れた。誰かを追いかけているのか、無線が揺れる雑音がする。
「おい、西山?! 西山! ちっ。行くぞ」
東田が車を出た。
「はい!」
常磐も車を降りる……と、
チリリン!
自転車のベルが鳴らされて慌てて身を引く。前から自転車に乗った少女が走ってきて、常磐の目の前を通り過ぎて行った。
少しくすんだような赤い色に目を奪われる。
長い黒髪がなびいた。
常磐は思わず少女を振り返った。
長い黒髪の赤いコートを着た、自転車に乗った少女。
「あの子は……」
◆◆◆◆◆◆
東田は車を降りると人だかりができている場所を見つけてそこへ走った。
「ちょっと……いいか」
人の群れをかき分けるが、なかなか輪の中心へと行けない。
「どけっ。警察だ!」
怒りのこもった声で怒鳴ると、東田を振り返りながら人がざわざわと道を空け始める。
ったく面倒くせえ……。
東田がようやく人だかりの中心へとたどりつく。
「……で、なにしてんだお前」
輪の中心にいた西山に、そう声をかける。
西山はやせた若い男を道路にねじ伏せ、その背に膝をついて腕をねじり上げていた。スカートがめくれてスパッツを穿いた太腿があらわになっているが、色っぽいというよりかは逞しい……。
男は苦しそうに呻くことしかできない。
「ひったくりですって」
「ひったくりぃ?」
拍子抜けといった感じの東田。
「早く手貸しなさいよ」
西山に言われて東田は男の襟首をつかんで立たせる。
「てっきり暴行犯を捕まえたのかと思ったぜ」
「ひったくり犯は見逃していいってわけじゃないでしょ」
西山は顔にかかったカツラの長い髪を目障りそうに払いのけた。
「しっかし、騒ぎになっちまったな」
ギャラリーが携帯電話で写真を撮っている。これでは囮捜査の方は中止せざるを得ない。
「こら、撮んじゃねぇよ」
注意しながら、東田はひったくりの男を連れて行く。
「ねえ、そういえば常磐は?」
「あ?」
言われて東田はあたりを見回したが、常磐の姿はどこにもなかった。