平凡は高くつく
兄さんが冷たい目でわたしを見下ろしたまま、また魔力をわたしの方へと送り出す。わたしの鼻先すぐそこまで、兄さんの緑色の魔力は迫っていた。
あれが頭に触れたらどうなる。兄さんの思考誘導を振り切ることは可能だろうか。
不可能。すぐに冷静な思考はそう答えを返す。
だって兄さんほどの魔術師に抗えるほどの実力をつけるまでに何年かかるか。そうこうしてる間に、マインドコントロールは完全に成功して、思考そのものが捻じ曲げられてしまう可能性が高い。
兄さんの右手がわたしの首に添えられて、左手の指先が脳髄を押さえる。
あと、数秒でわたしは兄さんの魔術の餌食になって、この自意識を奪われるように操作される。
そんなわかりきった未来が、頭の中で再生された。
嫌だ。そう強く、心の中で叫ぶ。
何もせずにこのまま死ぬなんて嫌だ。抵抗したい。
今わたしができる最大を。今この瞬間に。
妙に冷静な心で、静かに魔力を練る。液体から気体になって、体内のパイプの中で加速した魔力が自在に駆ける。
魔力がいつもとは比べものにならない速度で、比べものにならない強さで、静かに回路の中を流れる。
わたしを守る、盾のように。
すうっと、兄さんが遠くなっていく。違う、兄さんを感じられなくなる。
今わたしが『見ている』のは、兄さんじゃない。
兄さんの魔力だ。
禍々しい魔力。邪気を孕んだ、触れるだけで恐怖を感じさせるもの。
父さんのとも、おばあちゃんのとも、全く違う。
逃げたい、そう本能が叫ぶ。でもそれは、状況が許さない。
そうだ、たかだかこんなちっぽけなわたしの魔力で兄さんを止められるはずがない。
せいぜい0.05秒。それだけわたしの自由意志が残っている時間が増えるだけ。
八方ふさがり。どうすることもできない。
兄さんの魔力が目の前にまで迫る。
あと、数センチ。
そう認識した瞬間、感情が爆発した。
なんで。どうして。わたしはただ幸せになりたいだけなのに。平和に暮らしたいだけなのに。いい人生を送りたいだけなのに。そのために努力だってしてるのに。そのために強くなりたいって願ったのに。
ただ、平凡でいたいだけなのに。
その叫びが届いたのか、追い詰められて限界を超えたのか、そこらへんはよくわかんない。
一瞬にして、魔力量が膨れあがる。
それは、迫ってきている兄さんの指先を弾き飛ばすぐらいには。
魔力放出。土壇場にしてはそれなりに上手くいった。
透明な魔力が兄さんの指先に当たって、一瞬兄さんが静止する。
「……やっぱり魔術習得前に無理してでも操っておけばよかった。下手に魔力炉が点いて死なれても困るから、ある程度魔術を覚えてからにしようと思ったんだけどね。加減、見誤ったかなあ。まあいっか。それならそれで」
兄さんが一瞬わたしの励起した魔力を見て少し驚いたような顔をした。でもその表情は、やっぱりいつもの無表情へと戻る。
オーケー、わたし。一回落ち着こうか。
さっきの兄さんの言葉でやっとわかった。なんで今、いきなりわたしに思考誘導を施そうとしたのか。
兄さんの思考誘導は魔術の攻撃。魔力を持たない素人がノーガードで受けたら死ぬ危険がある。だから育つまで待った。
わたしがその魔力を受けても生き延びられるぐらいになるまで。
つまりこのマインドコントロールはわたしが生まれた時から施されるのはもう決まってたんだ。
ははっ、嘘でしょ。
もう何の解決策も浮上しなくて、乾いた笑いがこみ上げてくる。
兄さんはわたしにどんな命令を下すんだろうか。
思わず湧いたその疑問に、わたしの脳は即座に回答を返す。
そんなのわかりきってる。
きっとそれは、こんな平凡な望みを抱けるような意志さえ奪い取るんだろう。
これからわたしは自分のための何かを得たいなんて思うこともせずに、ただこの家のために尽くし続けるんだ。
「そうだよ。ヘイゼルはこの家のモノになる。ヘイゼルの行動にヘイゼル自身の意思は必要ない。ヘイゼルはただ俺の命令を聞いて動く、便利な人形であればいい」
兄さんの言葉が、魔力を纏って鼓膜から脳へと伝わる。
「平凡な人生? 笑わせないでよ。ヘイゼルに自分の人生を選ぶ選択権はない」
一言一言が、心に刻み込まれるような感覚。
「ヘイゼルの命はヘレンザック家の所有物でしかないんだから」
脳内でなんども兄さんの言葉が渦巻く。
だんだんと意思が渦の中に飲み込まれていく。
ヤダ
嫌だ。
飲み込まれそうになった意識の中で、その言葉だけが自己主張をやめない。
その言葉だけが、わたしをつなぎとめている。
嫌だ?何が?
何が嫌だったんだっけ?
わたしはなんで抗ってたんだっけ。
奪われた何かを懸命に取り戻そうと、記憶を探る。
絶対に失っちゃダメな何か。それを全力で探し回る。
『平凡で幸せな人生を送る』
見つけた。
これが、これがわたしの軸。わたしがわたしであるという証明。
この思いがある限り、わたしは大丈夫だ。
渦に飲み込まれかけていた半身を起こして、魔力を練る。
今ここで抵抗しないでどうする。ここで負けたらわたしの思いはどうなる。
わたしの願いはここで捨てられるほど軽いものなのか?
違う。わたしの願いは外からの力で曲げられるようなヤワなもんじゃない。
そう意識した瞬間、魔力が激流のように流れ出す。ばちんと、耳元で音がしたような、そんな感覚。
わかる。全部わかる。ここに何が存在しているのか。どんな風に空気が流れて、どんな風に移り変わっているのか。
全て、手に取るようにわかる。
「これは………感知魔術、に近い。けど、まだそこまでの練度はないか………」
イーゼル兄さんのそんな呟きさえ、音ではなく、空気の流れそのものとして読み取れる。
なにこれ。どういうこと。
ううん、今はそれは後だ。とりあえずこれで、乗り切らないと。この状況を。
幸いなことにまだ兄さんの操作魔術はわたしに行使されてない。まだ抗える。終わってない。
考えろ。どうやったら兄さんを止められる? 兄さんのあの緑色の魔力をどうやったら退けられる?
……わたし自身の身体を人質に取ればいい。
そう思ったのは、ただの勘だった。
だって兄さんはこの状況に至っても、わたしの肉体を殺そうとはしていない。自我を奪い取ろうとしているだけだ。
それだけ、このヘレンザックの子女であるわたしの血と遺伝子は大切なのだ。
もし、そうであるならば。
兄さんの指先を凝視する。
急にわたしの魔力が増加したことを警戒したのか、兄さんとの間には距離ができている。よし、この状況なら多少何かをする余裕はある。
イメージは単純。ナイフだ。全身の体内回路を流れる魔力を、首筋の一点だけに集める。透明の魔力は少しずつゆっくりと形をつくり、不可視のなにかがわたしの首を押した。
たらり、と浅く入った傷口から血が垂れる。
「ねえ、兄さん。わたし死にたくないの」
自分自身で作り出した、固形化した魔力の刃をまた押し込む。薄い皮膚が切れる。ぷちり、と音がした。あと数ミリこの刃が食い込めばわたしの首は落ちる。
そしてそんな風にヘレンザックの貴重な血が絶えることを兄さんは決して許せない。
わたしのその読みが正解であることを証明するように、兄さんは珍しく目の中に隠せない動揺を浮かべていた。緑色の魔力が少しだけ勢いを減らす。
よし、行ける。息を吸え、わたし。
「死にたくはない。でも兄さんがわたしを洗脳しようとするなら、その前に自分で自分の首を飛ばして終わらせたいとは思ってるの。……兄さん、わたしは躊躇わないよ」
「……本気で言ってるの?」
「嘘に見える?」
もう一段肉へと魔力が食い込む。頸動脈に刃先が触れる。
精神の死は肉体の死だ。少なくともわたしはそう思ってる。だから兄さんに今ここで思考回路を操られて身体だけ生き残ったとしても、なんの意味もない。
それなら死ぬ。躊躇いなく。
だってわたしはもう既に一度死んでいるのだ。2度目を躊躇う理由がどこにあるだろうか。
「わたしは弱い。弱いけど、自分で自分を殺せるくらいには強いよ」
ねえどうする、兄さん?
わたしはそう微笑んだ。




