第三話 因縁
——雪華が水月院家へ来て五年、歳はまだ十に満たない時。
水月院家で読みや習字、算数に地理など実生活で基礎となる要素の学問や一般教養、加えて上流階級へも通ずる知識や作法なども学んでいた。
雪華は寺子屋に通うことは出来なかったのでそういった形になっていたが、水月院家に限らず大家五家全ての家で寺子屋とは別に学童を設け、子供達へ陰陽道を指南していた。
参加する者は見鬼の才のある子供だけではなく、その道を極めたいと欲する大人まで教えを受けていた。
加えて各家門を代表する者たちでそれぞれの学府を行き来するなど、情報交換や交流をする場にもなっている。
その日は洌士が代表として“土”を有する楽土門家、光留の生家へと出向いていた。無論、光留も共に連れてだ。
その時の学童はいつもと違い、全ての時間を“自主学習”に充てるようにとの指示があリ、常であれば雪華の両隣には洌士と光留が居るのだが今日はひとりぼっちだった。
「なぁよっちゃんあいつ……」
「あぁ、やるなら……」
「でもやっぱり……」
「今日しかないやろ」
雪華を遠巻きに見てはコソコソと話す男の子たちが三人、皆歳は雪華と同じくらいだろうか。
どうやら雪華に対し何か仕掛けようと企んでいるらしい。
彼女の周りには現当主の孫で次期当主と謳われる洌士と、その側近候補である光留が常にピッタリとくっついていた。まるで護衛のように。
それが今日はいない上に大人たちも何だか慌ただしげでこちらには一切立ち寄らない。
ちょっかいをかけようとすると洌士や大人たちにこっぴどく叱られ近づくのも難しかった。
「今日はアイツらも居ないし大人たちも来ない、ちょっとビビらせたろうや」
どうやらここへ来る前はどこかに閉じ込められ、とても酷い目に遭っていたという噂を耳にした。
だからと言っていつも一人だけ守られ、あの大寿朗様にも猫可愛がりされているのは納得がいかない。
加えて、ほんの少しのことですぐに泣いては洌士や光留に縋るのも気に食わない。
(いつも以上に泣かせてやる!)
子供だけではなく大人を含め、周りの雪華へ対する感情は様々だった。
無関心、珍しいものへの好奇心、得体の知れない存在への畏怖。
彼女の受けている待遇を良しとしない者も勿論居て、中でも強く向けられる“嫉妬”が厄介だった。
その感情を向けるほとんどが同じく方術を学ぶ子供達で、この子らもただ単に雪華が羨ましく妬ましかったのだ。
「おい!」
ぞろぞろと彼女の席までやって来て三人で囲う。
その中でリーダーなのだろう、先程よっちゃんと呼ばれていた、他二人よりも少々恰幅の良い男児が荒々しく声を掛ける。
雪華はビクリと肩を震わせ、おそるおそる声を掛けてきた人物を見る。
「聞こえへんのか?」
ただ黙って見つめる彼女に腹が立ち、よっちゃんはさらに詰め寄る。
「へんじしろや!」
——ドンッ
肩を強く押す。
「いっ……、な、なに?」
子供の手加減がない力程痛いものはない。
雪華の目は潤み、声も微かに震えている。
そんな彼女の子犬のような表情にほんの少し頬を赤らめる後ろの二人。
そりゃそうだ。どれ程不穏な噂があろうと、どれだけ周りから奇異の目を向けられようと、そんじょそこらでは見ない程の愛らしい顔立ちに変わりはない。
同じ歳の子であれば見惚れてポーっとなってしまうのも当然と言える。
本来の目的を忘れモジモジとし始める子分に、よっちゃんは大きな舌打ちをする。
「チッ、ちょっとついて来い!」
先程までよりも声が大きいが、周りも自習という名の自由時間にはしゃぎ騒いでいるので誰も気に留める者はいない。
「え、外に出るのはだめなんじゃ……」
「いいから来いや!」
腕を強く引っ張り上げる。
「いたっ」
雪華の痛がる声を無視し、無理矢理連れてそのままこっそりと教室から抜け出してしまった。
周りはお遊びやお喋りに夢中で誰一人気付いていない。
だがその様子を黙って見ていた少女がいた。
その少女もまた人目を盗んで抜け出し、雪華たちの後を追いかけたのだった。
「はぁっ、はぁっ……」
邸宅を出てからもう三十分程経っただろうか。
追って来る大人は誰も居ない。
黙って出てきてしまったこと、そしていつも頼りにしている二人が居ないことで、雪華は大きな不安を感じていた。
「やっぱり、戻ったほうが……」
前を歩く三人は聞こえないふりをして歩き続ける。
「あの……」
「お前、俺らの仲間にしたるわ」
「へ?」
思わぬ言葉に呆ける。
「お前友だちおらんやろ」
洌士や光留は……、兄の様な存在であって友とは言えない。
円は唯一の友達だがいつも会えるわけではない。
正直なところ、他の子たちが楽し気に戯れているのが羨ましかった。
涙が出るほど共に笑ったり、くだらないことで言い合いをして共に先生に怒られたり、互いを認め合い切磋琢磨できるような仲間が欲しかった。
「……ほんとに?」
(よしっ、かかった!)
よっちゃんは雪華に気付かれないようほくそ笑むと、すぐさま気の良さそうな笑顔をはり付け振り返った。
「おうっ、ただし……俺らの試験をクリアできたらや!」
そう言うと、よっちゃんは少し先の鬱蒼とした茂みを指差した。
そこは大人が二人程であればやっと通れるような入り口になっていて、よく見ると廃れた鳥居があり真ん中辺りに細く注連縄が渡っているのが見える。
(おおじじ様とれい兄が入っちゃダメだって言ってたとこだ……)
屋敷の裏手にある社からさらに奥へ奥へ進んだ場所にここはある。
陽の光もなかなか差さず、昼間でも暗く気味が悪い。
ここにはその昔、水月院家の陰陽師全てが束になってかかっても滅することの出来なかった、恐ろしく強大な妖を封印した石碑があるのだとおおじじ様に聞いた。
初めてその話を聞いた日の夜はとても怖くて、洌士と光留に挟まれるようにして眠ったのを思い出した。
「ダメだよ、ここは……おおじじ様たちがぜったいに入るなって」
「じゃぁお前とはなかよくしてやらへん〜」
ベーっと意地悪く舌を出しフンッとそっぽを向いた。
雪華はグッと唇を噛む。
おおじじ様たちの言い付けを破るのは良くない。
でも、仲間外れも嫌だ。
胸がズキリとする、一人ぽっちはとても寂しくて悲しい。
(ちょっとだけなら……)
それに、ここは子供たちの間で度胸試しに使われていることを雪華は知っていた。
大人たちの目を盗み、キャーとはしゃぐ姿を何度も目にしていたのだ。
「……わかった、やる……」
雪華は仕方なく了承してしまった。
このくらいの歳であれば、叱られることよりも狭い子供社会の中で孤独を感じることの方が怖いのだろう。
(((作戦通り!)))
三人は目配せをしニヤリとした。
「よしっ、ほな行くで!」
「「おーっ!」」
意気揚々と歩き始め、その後ろを一人暗い面持ちで着いて行く雪華。
そして、その様子を陰から覗く者が居ることを誰も知らなかった。
鳥居をくぐると、意外にも歩きやすい道が出来ていた。
子供たちが頻繁に出入りしているおかげだろう。
しばらく歩き続け、入り口から百メートル程進んだところで突然開けた場所に出た。
その場所だけ明らかに人が手を加えたとわかるような何も無いまっさらな場所だった。
いや、何も無いというのは間違いで、周りに茂っている木々たちを繋ぐように何かの御札といくつもの錆びた鈴がぐるりと一周していて、がらんとした真ん中には注連縄がぐるぐると幾重にも巻かれた異様な物体がある。
「っ……」
雪華はそれを目にした瞬間、何故だか背中がゾクリとした。
恐らくその異様な物がおおじじ様が話していた石碑だろう。
(ケケケッ、びびってらびびってら!)
(今にも泣き出しそうやな!)
(早くやろうやっ)
三人は彼女の様子にクスクスと楽し気に笑っている。
「おい!」
わざと大きな声で呼ぶ。
雪華の肩がビクリと大きく跳ねた。
「ぷっ、ビビりすぎや」
怖がる姿がよほど面白いらしく吹き出した。
「だ、だって」
「あれにタッチして来い!」
あれとは、幾重にも注連縄が巻き付く妖を封じている石碑だ。
「え!?やだよっ」
「えぇのか?仲間にしてやらへんで」
「でもっ」
「えぇから行けや!」
——ドンッ
背中を強く押され、危うく転びそうになったところを踏み留まった。
そこからなかなか前へ進まない雪華。
(あーもう何しとんねん!)
(怖くて固まってるんちゃう?)
(もうムリヤリ触らせようや)
後ろから見ている三人には雪華の表情は見えない。
雪華は怯えているわけでも泣いているわけでもなく、ただ黙って前にある石碑を凝視していた。
まるで、じっくりと何かを確かめるかのように。
「じれったいわ!来い!!」
よっちゃんが無理矢理腕を引く。
「ちょ、ちょっと待って!」
「チビっとるから動けへんのやろ!」
馬鹿にしたように揶揄う。
「ちがうよっ、何か、何か聞こえるの!」
雪華は必死に訴える。
「オモラシしてる音がする〜」
「きったねぇ〜!」
「ちがうそんなんじゃないっ、もう帰ろう!なんかおかしいよ!!」
彼女が躍起になるので、さらに揶揄うとゲラゲラと笑う三人の声が響いた。
「おかしいのはお前や!」
「ほらとっとと触れっ、とっ、ぅわっ!!」
雪華の手を掴み石碑に触れさせようとした時だった。
——ドシャッ、ブチブチッ
足元に埋まっている石に気付かず、躓き転んでしまった。
倒れる体を支えようとした片方の手には、引きちぎれた注連縄が握られている。
「お、おい、お前……」
よっちゃんの声が震えている。
「痛ってぇー……」
「だ、だいじょうぶか? ……!!」
後にいたもう一人が心配して駆け寄ったところで気付いた。
「そ、それ」
震える指で差す先には、注連縄とグシャグシャになった何かの御札がしっかりと手に握られている。
「あ、う、うわぁぁぁぁーっ!!」
気が動転し、激しく腕を振りその紙切れたちを捨て去る。
「はぁっはぁっ!」
「ば、ばか!捨てんなや!」
「じゃ、じゃぁどうすればえぇねん!?」
彼らはパニックになりあたふたとしている。
対照的に、雪華は微動だにせず静かに石碑を凝視していた。
「も、戻さなっ」
「どうやってや!」
「正直に謝った方がえぇって!」
——ピシッ
何かにヒビが入るような音が鳴る。
ギャンギャン揉めているせいで彼ら三人には聞こえていない。
「言ったら叱られるやん!隠さな!」
「アホ!そっちのが悪いわっ」
「な、なぁ」
ビシリッビシリッと音が段々と大きくなっていく。
「な、なぁってば!」
「なんやねんさっきから!」
「なんか、聞こえへんか……?」
彼に言われ、辺りに響く異様な音に気付いた。
「せ、せや、あいつのせいにしようや!」
「「しっ」」
未だに一人だけ叱られるのを免れようと必死だが、もうそんな場合ではない。
他の二人に黙るように言われ、やっと自分たちを囲う空気がおかしいことに気付く。
「な、なんやろ……」
「わからへん」
音だけではない、先程までよりも空が暗くなっている気がする。
不気味さが増していくにつれ不安と恐怖が募る。
(せやアイツは……!)
恐らくこの中でも一番小心者の雪華はもう泣いているだろう。
(とりあえず目標は達成やけど……)
「よ、よっちゃん!」
「早く逃げようっ」
こちらももう半泣きの状態だ。
さっさと皆を連れてここから出なければ。
雪華に近付き声を掛ける。
「おい……」
「来る……っ」
「え……」
——バキンッ!!
今までとは異なり一際大きな音が轟くと、石碑を縦に割るような大きなヒビが入る。
さらに風が無いにも関わらず、周りの鈴たちが一斉にシャンシャンと鳴り渡り、地獄の底から響いて来るような地鳴りがし始めた。
「ここはアカン!もう行くでっ……、っ、わっ」
雪華も連れて出ようと肩に触れた瞬間、突風が巻き起こる。
(なんやっ!?)
目を開けることも出来ない強風に腕で顔を覆う。
——ビシッ、ビシッ、ビシビシビシッ、パーンッ!!
「「「ぅわぁーっ!!」」」
遂に石碑は勢いよく四方八方に砕け飛び、辺り一体は不気味な静寂に包まれた。
先程まで煩く鳴り響いていた鈴も、大地が割れそうな強い揺れも、嘘のように治まっている。
そして、石碑があった所には底など到底見えそうもない大きな穴が開いていた。
——ゴゴゴゴゴゴゴ
そこから何かが這い上がってくる。
音が近づいてくるにつれまた揺れ始めた。
そして次の瞬間、巨大な百足のような化け物がドッと飛び出してきた。
「「「う、うわぁぁぁぁーっっ!!」」」
その恐ろしい見た目によっちゃん達は絶叫している。
何十メートルあるのだろうか、化け物は飛び出した勢いのままウネウネと立ち昇っていく。
『ア、アアアァァァァッッ!』
そして顔を天に向け、この世のものとは思えない恐ろしい声で哭いた。
「うぁっ!」
「み、耳がッ」
「頭が割れるッ!」
鼓膜を突き抜け脳に直接届く。
ビリビリと響く音と恐怖に足が竦み、雪華以外はその場にしゃがみ込んでしまった。
『ウレシヤ……』
一哭きし終えると、恍惚な表情を浮かべ感嘆の声を洩らした。
男とも女とも捉えられる低い声音がより一層不気味に思える。
この妖は“奸它蠡”と言われている。
それぞれ“奸”は邪悪、“它”はへび、“蠡”はむしばむの意を持つ。
本来は何と呼ばれていたのかは分からないが、先の戦いに於いてそう名付けられた。
恐らくその姿に準えたのだろう。
人の顔が三つあり、真ん中の顔は男で大きな目が三つ、残りの二つの顔は女で真っ赤な紅を差した艶やかな口のみだ。
体は上が女の裸で六本の腕が生えており爪が牙の様に鋭く尖っている。
下は蛇が捻れた形で百足のように無数の足が生えているのだが、その足は全て鬼の腕になっている。
——ギョロリ
(((ひっ)))
よっちゃんたちは恐怖に声も出せない。
『供物が四つ、腹は満たぬがまぁ良い』
雪華たちを喰らうつもりのようだ。
奸它蠡はクツクツと不気味に嗤う。
『さぁ、どれから喰うてやろうか!』
空から勢いよく降りて来ると、雪華たちを囲いグルグルと周回し始めた。
地面に擦れる無数の鬼手がザリザリと嫌な音を立てる。
「う、うわぁぁぁっっ」
「もうだめだっ、死ぬんだっ」
カッカッカッと、愉快気に嗤う怖しい化け物を前にもう助からないと絶望している。
自身へ訪れる想像も出来ない死を感じ、諦めかけたその時。
「ばか!早く逃げな!!」
突然、誰かが飛び出してきた。
勇敢にも妖の前に立ちはだかった人影は、雪華たちが教室を抜け出すのに気付き、こっそり跡を付けて来ていた少女だった。
『一匹増えたか、ククク』
奸它蠡は三つの口をニヤリと歪ませ、嬉しそうに舌舐めずりをしている。
「緫!?」
「「お、おふさーっ」」
藤月 緫、彼女も雪華らと学舎を共にする同士である。
四人の跡を付けて来てから、助けに入る時機を窺っていたのだ。
「「た、だずけてーっ」」
よっちゃん以外の二人は、涙と鼻水を垂れ流したぐしゃぐしゃの顔で飛びついた。
(早くここから出ないと)
雪華の方を見るが微動だにしていない。
泣きじゃくる二人とよっちゃんの様子は正常だ。
だが彼女は泣くどころかずっと何も話さない、というより何の反応も無いのだ。
『鳥居の外にさえ出さなければここは我の庭じゃ、ククッ、あぁ嬉しや』
女の口が喋りながらまたぐるりと廻り、楽しそうに嗤う。
(まさか気でも失ってんとちゃうか!?)
起立状態で気絶は見たことがないが、もしそうなら連れ帰るのは困難だ。
「ちょっと!?」
雪華の肩を強く引きながら顔を覗く。
気を失ってはいない。
ただずっと妖の顔を凝視している。
「聞いとんの!?はよここから逃げなあかんで!」
「……って」
「は!?」
上手く聞き取れなかった。相手にする時間が勿体無い。
徐々にイライラしてくる。
「もう行くで!」
「私たちを食べるって」
また、ぽそりと呟くように言うが、今度はしっかりと聞こえた。
“食べる”そう聞こえたが、一体何の話しだ。
「は、何が」
「アイツ」
雪華は目の前の妖を指差す。
(あの妖の言葉がわかっとるん!?)
緫は驚いた表情で雪華を見た。
実は雪華以外にはあの妖の言葉は理解出来ていなかった。
「蝟ー縺�※繧�m縺�眠縺�※繧�m縺�」
ただただ意味不明な言葉の羅列を叫んでいるようにも、囁いているようにも聞こえ、ずっと耳がザワザワとして気持ちが悪かった。
「な、何言うとんの、理解できる言葉なんて話してへんやろ!」
「繧ッ繝�け繝�け繝�∫炊隗」蜃コ譚・縺ャ縺具シ�シ溘け繧ッ繧ッ窶ヲ窶ヲ繧「繝シ繝上ャ繝上ャ繝上ャ��シ�」
緫はもう一度妖を見た。
また何か言っているようだがやはり理解出来い。
ただ表情を見るに、口を大きく開いて何やら笑っていることは分かった。
『クックックッ、理解出来ぬか!?ククク……アーハッハッハッ!!』
だが雪華はしっかり聞き取っていた。
妖は雪華だけが言葉を理解している事に気付いておらず、声高に嘲り笑っている。
(こんな状況で嘘つくわけあらへん……)
雪華の顔には緊張と怯えの色が窺える。
緫は彼女の言葉を、その並外れた能力を信じてみることにした。
「それがほんまなら……なんか助かる方法はわからんの?」
雪華は驚いた顔で振り返った。
揶揄うわけでも気味悪がって敬遠するわけでもなく、ただ真っ直ぐに雪華の瞳を見返してくる。
その後ろには怯え泣いて震える同胞達の姿が。
(皆んなの命がかかってる……)
雪華は強く頷くと妖の方へ向き直った。
何か助かるためのヒントは無いかと耳を澄ます。
「緫!何しとんねんっ、はよ逃げなあかんやろ!?」
よっちゃんは未だ泣き続ける二人を宥めながら大声で訴えた。
「しっ!今……、それを探ってもろてんねん」
彼女の視線の先には雪華がいる。
(あんなんに何ができんねん!)
よっちゃんには何が起きているのか理解出来なかった。
いつも周りから爪弾きにされる弱虫に頼って助かるわけがない。
(とりあえずコイツらだけでも先に逃して、後から戻ってくるしかない!)
責任感はしっかりと持ち合わせているようだ。
イタズラを考えた自分のせいだと、ここに居る全ての者を無事に逃さなければと思っていた。
「アンタの考えてることはわかってる、その二人だけでも先にって思っとるんやろ?」
思考が読まれている、ならば殊更早くこの状況を打破したい。
「焦るのもわかるけど、この中であの妖の言葉が理解出来んのはアイツだけや。少しでもえぇから助かる情報が欲しいねん」
あんな化け物の言葉が理解出来るなんてと、よっちゃんは怪訝そうな顔をしている。
だが緫の真剣な顔を見て、冗談ではなく本気で言っているのだと理解した。
(緫の言うことがホンマなら……頼む……っ、何とか!)
祈るような思いだ。
「うぅっ……」
「よっちゃん……っ」
泣きじゃくる二人を強く支える。
「っ、大丈夫や、何とか、何とかここから出る方法を見つけたるからな!」
希望を失わないよう慰める。
『ここから出るだと……?そうはさせぬ!!』
よっちゃんの言葉に奸它蠡の様子が急に変わった。
先程まで楽しげにニヤニヤとしていたのが固い顔付きになり怒りが見える。
雪華たちの周りをぐるぐると周回するのもやめ、尾先でドシンドシンと強く地面を叩き始めた。
「な、何や!?」
「「わあああぁぁんっ!」」
よっちゃんは強い揺れに倒れそうになるが踏ん張り直し、更に泣き喚く二人を抱え直す。
(っ、やっぱりアカンのか!?)
緫は悔しさに拳を強く握る。
無理にでも押し通るか?いや、あれほど大きな妖は今まで見たこともない、敵うはずがないのだ。それに逃げたところでどこまで追ってくるかわからない。
焦りと恐ろしさに思考がまとまらなくなる。
緫も本当は怖い。
だが、この状況で仲間を見捨てることなど到底出来なかった。
「……い」
緫は雪華を見た。
「何……」
「鳥居!さっきアイツが言ってた!」
鳥居……ここへの入り口にあったあれのことだ。
「鳥居がなんやの!?」
「“鳥居の外にさえ出なければここは自分の庭だ”って!」
奸它蠡の行動ができる範囲は鳥居の内側のみ、そこより外には出られない。
((!!))
緫とよっちゃんは驚きと不安が混ざった顔で互いを見る。
「ホンマやんな!?」
よっちゃんが問う。
「うん、だからここから鳥居まで真っ直ぐに走り切ればきっと……!」
緫とよっちゃん、雪華は互いに顔を見合わせ頷く。
助かりそうな方法はわかった。
だが鳥居の外までは百メートル程、奸它蠡の動きを見ていたが、どれほど速く走ってもあの化け物には追いつかれてしまうだろう。
(っ……、誰かがアイツの注意を引かなアカンてことや)
緫は下を向き唇をギュッと強く噛んだ。
正直、自分が囮になるのは嫌だ。
助けるために勢いよく飛び出したが恐くないわけではない、なりふり構わずここから逃げ出したいのが本心だ。
ここに居る誰もが同じ気持ちで口を噤んだ。
「私がアイツをひきつけるから、その間に逃げて!」
ハッと顔を上げその言葉を発した彼女を見る。
雪華は迷うことも物怖じすることもなく、アイツに向かって九字を切り始めた。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前!」
「な、何ゆうてんの!?アンタはどうすんねん!」
全員を逃した後、雪華はあの化け物と二人きりだ。
どうやってここから離れるのか。
「……なんとか隙を見つけて逃げるから」
九字を切る雪華を奸它蠡の黄色い双眸がギョロリと睨みつける。
雪華のこめかみから汗が伝う。
正直なところ勝算は無い。
(今の私にできることはこれしかない!)
指を手の内側で交叉させるように組み内縛印を結ぶ。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダソハタヤ ウンタラタ カンマン」
不動明王慈救咒(中咒)を唱える。
不動金縛り法によって奸它蠡の動きを封じるつもりだ。
「アンタ、それは……!」
緫は愕然とした。
自分達の年齢ではまだ到底覚えることも、扱うことも出来ない法術だ。
雪華は続けて剣印を結ぶ。
「オン キリキリ」
そして刀印。
「オン キリキリ」
更に転法輪印を結び再度中咒を唱えると、外五鈷印を結び不動明王火界咒(大咒)を唱える。
「ノウマク サラバ タタギャティ ビャク……」
「お、おいっ緫!はよ今のうちや!」
よっちゃんは両脇にベソをかく二人を抱え既に駆け出していた。
「……っ、隙を見て逃げるんやで!?」
緫は雪華に背を向けよっちゃん達と共にその場を離れた。
逃げる際に目の端に映った奸它蠡は、自分の動きを止める雪華に集中している様で、緫達には一切気付いていなかった。
(とにかく、あの鳥居まで!!)
わき目もふらず、何かを振り切るように一心不乱にただただ走った。
(みんな、逃げれたかな……)
目の前の妖と睨み合いが続く。
ダラリと汗がこめかみから顎へと伝い流れる。
もう何日も経っているかのように感じる。
(このままだと、もう……っ)
雪華が他の子に比べ霊力が強かろうが体は子供だ、そう長くは保たない。
「……上手くできるかわからない、けど……」
体力が切れてしまう前に、少しでもこの状況を良くしなければ。
雪華は散漫し始めていた意識を集中させ奸它蠡を見る。
——パチ
一瞬小さな光りが弾ける。
つづいてパチパチと、奸它蠡の周囲に無数の小さな火花が飛び始めた。
やがてその小さな火種達は互いにぶつかり、そして溶け合い、次第に大きな炎へと変化していった。
『な、なんじゃこの炎はっ、小童まさか!?』
奸它蠡の身体は一気に炎に包まれ激しく燃え盛る。
『お前、まさか、“不知火”の者かっ!』
奸它蠡は大きな図体をくねらせ、驚愕と押し寄せる熱に目を見開きながら悶え雄叫びを上げた。
——オオオオォォーッ!!
「このまま……」
灰になってしまえと、炎の威力を強めようとさらに集中する。
『お前の心臓を喰ろうてやる!!』
「!」
火力を上げることに意識が集中し、緊縛の術が緩んでしまっていた。
その隙を突いて奸它蠡が雪華へ向かって突進して来る。ザリザリと無数の鬼手が地に擦れる。
雪華はギリギリで衝突を回避したが、自身に翳る大きな影に気付いた。
——ギチギチギチ
振り向くと、すぐ真後ろに歯をガチガチと鳴らし上から見下ろす奸它蠡が……。
(っ、無理だ……!)
『もう逃げられぬ!』
「っ!」
雪華は観念したように固く目を瞑った。
『ギャアアァァァァッッ!!』
奸它蠡の叫声が轟く。
予想だにしない声に驚き目を開くと奸它蠡は苦しみ踠いていた。
面前で叫ぶ顔がひどく歪んでいる。
そしてそのすぐ下、首を一本の矢が深く貫いているのが見えた。
(どこから!?)
——ガサガサ
茂みから人影が現れた。
「そんなっ、なんで!?」
突如現れたその人物はキリキリと弓を引き、鋭く光る矢尻を奸它蠡に向けている。
「どうせアンタのことやから諦めて逃げへんのやろ」
そう言いながら、緫は雪華の隣へ立つ。
逃げ出したはずがなぜここにいるのか。
彼女は雪華の身を案じて戻ってきたのだ。
「……」
緫の言葉に何も言い返せない。その通りだった。
「そんなんされたらうちらはどうしたらえぇねん。一生アンタの“死”を背負って生きろっての?」
淡々と話しているように見えるが、言葉の節々に小さな怒りが滲んでいる。
その気持ちを乗せるように勢いよく矢を放っていく。
ドスリと的確に奸它蠡の首や体を射抜く。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ァァァァァァァァッッ!!』
奸它蠡は矢の深く刺さった首を掻き毟りながらバタンバタンと尾を地に打ち付け暴れている。
緫は何も言わない雪華を横目で見た。
(ほんまにこいつは……腹たつわ!)
力強く次々と矢を放っていく。
水月院家では数多くの戦闘方を学ぶ。
その中で緫が最も得意とするのは弓矢だ。
腕前は大人ですら降参させる程で、“彼の右に出る者はいない”と言わしめた光留をそのうち越えるのではと囁かれている。
——バシッ
「弾かれたっ」
暴れ回る奸它蠡の尾先が矢をはたき落とす。
残りの矢も少なくなってきた。
ここへ来るまでの途中に水月院家の管理している小さな社がある。
そこには各種の儀式で使用する道具が奉納されているのだが、その中には追儺で利用される葦矢と桃弓があり、緫はそれを勝手に持ち出して来たのだ。
「……なんで?」
「何が」
残りの矢も少ないのだからあまり気を乱さないでほしい。
そう思いながらもしっかりと雪華の声に耳を傾ける。
「なんで戻ってきたの?私のことなんて……」
なんての後は“嫌いなのに”か、“いつも無視だったのに”か。
(確かに今まで優しくしたことなんてない……、ほんまは気に食わへん。けど……)
「気分悪いやろ」
緫は淡々と話す。
だが声音とは逆に、弓を引く手は力んでいて固く震えていた。
「誰か一人に押し付けて自分だけのうのうと逃げるなんて。腹立つやろ、何もしてへんのに無理だって決めつけるなんて」
緫の言葉全てが自分に突き刺さる。
“みんなのために犠牲になった”
そんなの耳障りよく聞こえる言い訳で、本当はいつも心のどこかで“どうせ自分なんていらない子なんだ”とへそを曲げていただけだった。
(どうして、どうしてそんなに強くいられるの……)
その強さが羨ましいと思った。そして同時に気付かされた。
いつもいつも、自分に無いものを遠目に見て羨ましがって、“どうせ”と“仕方ない”と、何もしなかった。
己の弱さを突きつけられ、雪華は恥ずかしさと悔しさに拳を強く握り締めた。
緫は何も言わない雪華を気にする間もなく敵へ矢を放ち続けている。
(諦めへん、コイツが死のうがなんやろうが、もう最後までやりきるしかないんや!)
ギリリと弓を引き、矢先を奸它蠡の額に向ける。
勢いよく飛び出した矢は真っ直ぐに額を目掛けて飛んで行くが、暴れ回る奸它蠡のせいで軌道から外れてしまった。
残り少なくなった矢を手に取り、再び額に狙いを定める。
(これを外したら残りは二本)
焦る気持ちを落ち着かせ、打ち放とうとしたその時……
「待って!」
雪華に止められた。
「なんやの!?もう三本しか無いんやで!」
「わかってる、だからこそ……」
雪華は自身の懐をゴソゴソと探り、そこから三枚の白い紙を取り出した。
「!」
「これに私の霊力を込めてその矢に結べば……」
取り出された三枚の白い紙は札だ。
何やら術式が描かれているようで、不思議な記号や読むには難しい文字が見える。
「その……私、“火”を使えるの……、だから、この札に私の霊力を込めて飛ばせば、刺さった時に札ごと爆発させられるんだけど……」
上目遣いで恐る恐る話す雪華。
突然の提案に驚いたが、緫はすぐにそうかと納得した。
大家五家にはそれぞれに特性があり、その家の元に生まれた者は家の特性を継ぐ。
もしくは、長い年月をかけて厳しい修行を積むことにより大家五家の有する能力を発揮することも可能だ。
だがこの五家の内、“火”を有する“不知火家”だけは力を持つ者に恵まれず、今は過去の栄光と名ばかりだと聞いていた。
(どう考えてもウチらの歳だと修行だけじゃ無理や。そんならコイツはきっと……)
不知火家の血を引く者だ。
現存する不知火家の人間の中で唯一その力を発現させたのだろう。
「……」
「……残りは三本や、確実に仕留めなあかん」
そう言って緫は矢を差し出す。
雪華は目をまん丸くさせていたが、次第に口元が緩やかに弧を描いていった。
「頼んだで」
「うんっ!」
先の鳥居の件から、雪華を信じてみようと決めたのだ。その思いが彼女にも通じている。
そして雪華は三枚の札を指に挟み瞳を閉じた。
少しすると、札の下部から術式の字をなぞるように赤く光りだした。
(燃えてる……?)
緫は不思議そうな表情でそれを見ていた。
まるでお線香の先の燃え始めのようにじわりと広がっていくようだ。
そのまま札の上まで達すると、火は消え元の札と何も変わらない状態になっていた。
雪華は目を開け、緫の両手に乗る三本の矢それぞれに札を結びつけた。
二人は互いの目をしっかりと合わせ頷き合う。
——キリキリキリ……
緫は弓を引き狙いを定める。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!!』
奸它蠡は世にも恐ろしい叫び声を上げながら、六本の腕と無数の足で地を駆けこちらへ迫って来る。
(まだ、もう少し……)
なかなか矢を放たない緫。
術を発動させるため、その機会を逃さないよう隣で待機する雪華の額にはうっすらと汗が滲む。
奴はもうすぐそこ、ほんの数メートル先まで迫ると、こちらへ飛び掛かろうと体勢を低くし一瞬止まった。
(今や!)
勢いよく矢を放つ。
矢は真っ直ぐに空を駆け、奸它蠡の腹ど真ん中にしっかりと突き刺さった。
「今や!」
「破っ!」
緫の掛け声に、雪華は刀印を結び札に仕掛けた術を発動する。
——ボォォン!
矢に垂れ下がる札は瞬時に燃え上がり、爆発音と共に大きく弾けた。
奸它蠡の体は炎に包まれる。
『ギャァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ーッ!!』
耳を劈くような悲鳴に大地が揺れた。
だが緫は臆する様子も見せず、躊躇なく矢を飛ばす。
今度は尾を貫いた。
地に縫い付け動きを止めるつもりだったが、そう上手くはいかなかった。
それでも燃え広がる炎と痛みにより動きはだいぶ鈍くなっている。
(最後の一本や……!)
確実に仕留めるために額を狙う。
(ここや!)
最後の矢を放とうとしたその時、奸它蠡がこちらへ突進してきた。
『道連れにしてやる……!!』
「緫!逃げて!」
緫の目の前に雪華が飛び出してきた。
「アホ!何してんねん!?」
——ドンッ
「きゃっ」
緫は咄嗟に雪華を突き飛ばした。
「ここはうちに任せて……!」
——ゴォーッ……
バチバチと炎が弾ける音と激しく燃え盛る音が近くなった。
いや、近いというより、すぐ真後ろから聞こえる。
(熱い……)
同時に背中に熱を感じる。そして何かの気配も。
緫はゆっくりと振り返った。
「ひっ」
目の前にはギロリと睨む三つの大きな目玉が……。
触れてしまいそうな程近い。熱い。
「緫ーっ!」
雪華は緫の名前を叫ぶ。
「いやああああぁぁーっ!!」
奸它蠡の腕は恐怖に叫ぶ緫をしっかりと捕らえていた。
「熱いっ!!離してええええぇぇーっ!!」
『お前も道連れじゃ!』
燃え盛る奸它蠡は緫を抱え奥へと逃げて行く。
「助けてーっ!!」
「緫!!」
その後を雪華は追いかけた。
先に道は無い。奸它蠡が次々と木々を薙ぎ倒し燃える草木が広がっていく。
(! 行き止まりだ!これで……!?)
「そんな……っ」
ついに追い詰めたと思ったが、奸它蠡の前には大きな扉が聳え立っていた。
あの世とこの世の境、冥界への入り口だ。
そこからは阿鼻叫喚、悍ましい声が聞こえてくる。
『ここから先は無間地獄、我らの領分。こんな童ひとたまりもない……クククッ』
——ギィ……
炎により焼け爛れる手を扉にかけると、嫌な音を立てゆっくりと開いた。
その先から聞こえる無数の叫び声が強くなる。
『向こうでゆっくり喰らうとしよう』
「イヤアアアアァァァァァァーッ!!」
緫は恐怖のあまり叫び暴れる。
『クククッ……怯えろ怯えろ、その方が肉が締まってさらに旨くなる』
頬に伝う涙と汗を長い舌でゾワリと舐めとる。
『コイツ一匹では回復に時間が掛るがしかたあるまい』
本来ならば雪華ほどの霊力を取り込めれば回復も早いのだが、自身の体を考えるとすぐにでもここから離れた方が良い。
(力をためたら次は……)
奸它蠡はチラリと次の獲物である雪華を見やると扉をくぐろうと端に手を掛けた。
「……せ」
背後から声が聞こえ、動きを止めて振り返る。
だが雪華の姿はない。
(何処へ……)
——ゴオォォォォッッ
何かが迫る音が聞こえる。
どこからか、前後左右周りを確認していると突として身体に衝撃を受けた。
『何!?』
「離せえぇぇぇぇーっ!!」
雪華は高く飛び上がり、真上から奸它蠡目掛けて急降下する勢いで打掛たのだ。
ドサリと、大きな図体が倒れる。
地が垂直になり少し先に横たわる緫と水平に並ぶ。
一瞬のことでわからなかった。
奸它蠡は立ちあがろうとしたが下肢に力が入らない。
(なぜだ、何が起きている!?)
自分の身に何が起きているのか把握するため、六本の腕だけで上体を起こす。
奸它蠡の目には未だ燃え続ける無数の足と尾が映った。
下半身は焼け続ける痛みにビクリビクリと動いていた。
だがその熱が伝ってこない。代わりに腰下辺りから冷えるような痛みが走る。
奸它蠡は尾先から腹までなぞるようにゆっくりと確認した。
『なっ!?何……っ!』
腰から下が完全に分断されている。
混乱と驚愕、そして同時にこれまで感じたことのない恐怖を覚えた。
『……っ、あり得ぬ!』
雪華に目を向ける。
こちらへ背を向ける彼女は紅く燃えていた。まるで雪華自身が一つの大きな炎かのように。
一刻も早くこの場から逃げなければ……。
奸它蠡は六本の腕で身体を引きづり、緫へ這い寄った。
(こいつだけは貰ってゆく……!)
緫の肩に尖る歯を深く刺し噛みついた。
「アアアアァァァァッ!!」
気絶していた彼女は激痛に目を覚まし悲鳴を上げた。
(早く、早く向こうへ……!)
緫を銜えて逃げようと振り返ったその瞬間、ドッと胸へ重い衝撃が打ち込まれた。
『グウ゛ウ゛ウ゛ウ゛ッッ!!』
痛みと苦しさから声も出せない。
胸の真ん中を白く細い腕が貫いている。
(このっ、小娘っ!!)
俯いており表情はよく見えないがぶつぶつと何か言っているのが聞こえる。
その姿が一層気味が悪く、全身を何かがゾワリと駆け巡る。
緫を連れてなど悠長なことを考えている場合ではなかった。
(こいつもここで喰ろうて……っ!)
雪華はつと顔を上げると静かに告げた。
「灰になれ」
彼女を包む炎の威力が高まる。
『ぅぐ……っ!』
これまでとは比べ物にならないほどの熱気が取り巻いていく。
胸が、腹が、首がジリジリと灼ける。
心臓にまで届いてしまいそうだ。
奸它蠡は胸に突き刺さる腕から逃れるために身を捩るが既に手遅れだった。
「うあああぁぁぁぁーっ!!」
雪華は自我を保てていないようだ。
叫声を上げながら、貫いたそこにある奸它蠡の心臓を掴む。
——ドクドクドクドクッ
手のひらから腕まで速く脈打つ振動が伝わる。
そのまま握り潰すにはその心臓は大きすぎた。
——ブチブチブチッ!
代わりに力任せに引き抜いた。
『ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ーッ!!』
奸它蠡は激痛に絶叫しのたうち回る。
銜えられていた緫は投げ飛ばされた。
再び気を失ってしまっているようで、地面の上でビクともせず炎に包まれ横たわっている。
『グゥ゛……小娘……』
奸它蠡は低い声で唸りながら雪華を睨みつけた。
彼女の手には血が滴り、引きちぎられた何本もの管が垂れる赤黒い塊が握られていた。
身体から引き離されたにも関わらずドクリドクリと脈打っている。
妖の心臓の中には妖力の源となる妖核が在る。
それにより妖たちは基本的に半永久的な命を持ち、寿命が尽きるか心臓を潰されたりしない限りは完全に死ぬことはない。
一度取り出されたとしてもまた身体に戻せば破損した部位も再生するのだ。
自身の命そのものを握られた焦慮と惧れに、手中の心臓がさらに大きく速く鼓動する。
『くっ、心臓ごと取り込んでやる!!』
奸它蠡は雪華も道連れにせんと肩に喰らい付く。
「っく……!」
だが、悲鳴を上げたのは奸它蠡だった。
『あ、あ、ァ、ッギャアアァァァァ!!』
雪華の手には紅蓮の炎が渦巻き、轟々と音を立てさらに燃え盛っている。
それに比例するよう奸它蠡の体を烈火が取り巻いていく。
その炎はまるで地を焼き天を焦がすかのようだ。
『こ、んな、小娘に……っ!』
奸它蠡は息も絶え絶えに発する。
『お前も……、っ、死ねええぇぇぇぇっ!!』
最後の力を振り絞り雪華に襲い掛かった。
「ぅぐっ……!!」
二本の手で細い首をギリギリと締め付ける。
雪華もそれに対抗しさらに力を注ぐ。
爆発的な炎により、周りの木々にも火が移り燃え広がっていく。
奸它蠡が灰になるのが先か、雪華の首が折れるのが先か。
『ぅ、ぐっ、あ、あア、ア゛ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛!』
先に根を上げたのは奸它蠡だった。
首を強く締め付けていた手が離れ、奸它蠡の身体が地に落ち倒れる。
しばらく低い声で呻き声を上げていたが、何も聞こえなくなり、ビクリビクリと痙攣する身体もやがて動かなくなった。
最後を見届けると、雪華や奸它蠡、辺り一帯に広がっていた炎は消え、黒い燃え殻と煙が立ち込めた。
雪華の脱力した手からは灰になった心臓がサラサラと流れ、肩から伝う自身の血がポタポタと流れている。
——ドサッ
雪華はその場に倒れた。もう少しも力は入らない。
薄れゆく意識の中、瞼が閉じてしまうその瞬間まで、横たえる煤だらけの緫を見つめていた。




