第6章(その9)
彼が力尽きるのと、この炎が晴れるのと、果たしてどちらが先になるというのでしょうか。賢者は仁王立ちのまま、次第に言葉にならないようなうめきとも唸りともつかない苦悶の叫び声を洩らし始めたかと思うと、やがてついには空に手を伸ばしたままその場に片膝を折ってしまいました。
まるで支えていた重みに耐えかねるように崩れ落ちそうになるルッソでした。足にしがみついていたリテルが、今度は倒れそうになる彼の背中を必死に支える役に回ったのでした。
それと同時に、人々を守っていたあの壁もぐっと高度を下げたと見えて、渦巻く炎がぐんと近い位置まで降りてくるのに、人々は肝を冷やさずにはおれませんでした。やがてルッソがついに倒れたかと思うと、人々を守っていた壁もすっかり消え去ってしまいました。ですがほとんど同時に炎の渦も勢いを弱めていて、壁が消えたと同時にゆっくりと下ってきたかと思うと、人々のいる地上まで落ちてくる前に雲散霧消してしまったのでした。ただそよ風のように暖かい熱気が人々の上から吹き込んできただけで、賢者は立派に人々を守り切ってみせたのです。
寄り集まって不安に打ち震えていた人々も、大難を無事にやり過ごすことが出来たと知るや、誰彼となく歓喜の声をあげ始めるのでした。彼方の空が少しずつ白んでこようという中、上空にはもはや禍々しい妖魔の影も何一つ無く、地上には焼け出された魔物どもの死骸がそこかしこに転がっているばかりで、それ以上人間に危害を及ぼそうというものがうごめいている事はありませんでした。人間の版図を脅かしていた外敵は、すっかりと退けられたのでした。
それを果たして勝利と捉えるべきか、何かしら大きな天災のたぐいをやり過ごしたのだと捉えるべきか……ひとつその名残と言えるのは、あの炎のせいでしょうか、立派だった石造りの大橋が煤で汚れてすっかり真っ黒になってしまっていた事でしょうか。対岸でもまだ煙がくすぶっているそんな光景に、人々は自分たちを見舞った災禍の大きさを知って、あらためて恐れおののいたのでした。
「賢者さま。……ルッソさま、しっかり」
「ああ、リテル。すまないな」
賢者は、小さなリテルの肩を借りてようやっとというありさまでよろよろと立ち上がりました。二人は黙りこくったまま、やがて朝日が昇ろうかという彼方の空をじっと見やるのでした。
「ルッソさま。バラクロア……じゃなかった、あの魔人さまは一体どこへ行ってしまったんでしょう?」
「さて。魔王バラクロアの方も、気配をまったく感じ取れなくなってしまった。消え失せてしまったか、ここではないどこかへと行方をくらませたか、私ごときには感じることが出来ぬほどに、弱り切ってしまったのか……」
「それは魔王のこと?」
「魔人の方もだ。少なくとも、ここからは去った。私に言えるのはそれだけだ」
ルッソはいささかぶっきらぼうな口調でそのように語りました。人々を守ったのは彼自身であるにしても、肝心の魔王を退けたのが結局自分ではなかったというのが、彼にしてみれば複雑な思いなのでしょう。言葉少なくなるのもやむを得ないのかも知れませんでした。
リテルは辺りを見回してみました。遠くでは、人々が互いの無事を確かめ合いながら、災厄が去ったことで大きな歓声をあげているのが見えました。
けれど、どこにもあの魔人の姿はありませんでした。
またいつものように急にリテルの隣に現れるかも知れない、とも思いましたが、結局いつまでたっても魔人が彼女の前に姿を現すことはなかったのでした。
(エピローグにつづく)




