骨①
「まったく。一体どうなってるんだ? 今日って日は」
【私】たちは下がり切った気分をぶら下げながら退店し、更にそれが、足枷にでもなっているかのような足取りで駅へと向かった。
「気分下がりましたね」
まるで【俺】たちの心を表しているかのような曇り空だ。高山も、あれだけ子供の様に燥いで楽しみにしていたホットケーキを残していた。
「よかったのか? ホットケーキ残ってただろ」
――――とは言っても、半分以上は既に食べていたか。
「あれじゃ食欲も無くなりますって。あとパンケーキですから」
先ほどコンビニで買った抹茶ラテを飲みながら高山は言った。もはや気にも留めてない様子だ。まあメンタルが弱かったらジャーナリストは愚か、社会にも羽ばたけないからな。
「それにしても、なーんか最近多いですよね。駅で叫んでるような人」
その例えはどうかと思うが、確かにアレは他に例えようがない。強いて他に例を挙げるとしたら、寄生虫に頭をやられたカタツムリだ。
「暑いからなあ」
「あとあれだ、6Gが普及し始めた頃からですよね。ああいう人が増えたのって」
丁度その頃は、先ほどのパンケーキ屋で起きたような事例がニュースでよく取り上げられていた。だが、【私】も彼女も実際に見るのは初めてで、その時はどうにも頭の整理が追い付いていなかった。
――――もちろん6Gの普及などは関係ない。そう。微塵も関係ないのだ。あれはもっと異質であり、私の想像など遥か及ばない次元に存在する。
「……それも記事にしてみるか? 6G脳を溶かすって?」
地下鉄のエスカレーターに身を任せながら、私たちはその日あった出来事について、真剣になりすぎず、且つ考えすぎず適当に話をしていた。何か話していないと気持ちが悪かったからだ。
「そう言っていつも記事にしないじゃないですか。日高さん」
ばかめ。世の中には没ネタって物があるんだよ。記者は自分の書いた記事に責任を持たなくてはならない。そんな記事を公開して、もし6Gが無害だったら積み上げてきたキャリアもおじゃんだ。
「フリーランスなんてそんなもんさ。あーあ、世界の終わりでもくりゃあ、ネタにも困らないんだけどな」
「そうなれば記者も廃業ですって」
ごもっとも。
――――その日は平日の昼間ということもあり、白シャツを着たサラリーマンがホームにたくさんいた。7月の地下鉄は涼しく、電車の通過する音が耳によく響く。
「なんか、今年は嫌なニュースばかりですね」
「ああ。自殺者が増えるのも納得だ」
電車を待ちながら高山と話す。前も後ろも人だらけ。本当に少子高齢化なのか疑いたくなるほど人間で溢れている。ここまでくると、地球が本当に心配だ。
「こうも不安が続くと、漠然とした将来の不安も大きくなりますね」
若さゆえの悩みだな。10代のガキは現在に、20代のガキは将来に対し、言いようのない不安に襲われる時がある。まさに夜も眠れないといった様な。
「そんなもん、アラサーになれば消えるさ」
そう。30代になって不安になるのは、家でビールが冷えてるか否か。それだけだ。
「――――通してください」
【3番線に電車が参ります】
駅のアナウンスが女性だ。最近では珍しくもないが、久しぶりに聞いた気がする。駅の隅々まで行き届くような綺麗な音色。声というのは人間の想像力を豊かにしてくれる。
「それって日高さんだけじゃないですか? マトモな人なら、一生消えない悩みですよ」
「しばくぞ」
本当に生意気な奴だ。言いたいことをはっきり言いやがって。それが社会に出て通用すると思ったら大間違いだぞ。…………ここは俺が気付かせるべきか?
「――――離してッ!」
さっきから声が聞こえる。かなり離れた列の方からだが、もめてるのか? しかしまあこの暑さだ。蒸すような空気にイライラも溜まるよな。
「今日は日高さんの家でブログ書くんで、パソコン貸してください」
騒ぎの方を見ようと背伸びをした時、彼女がそう言って【私】の袖を引っ張った。だからその時私も、特に気にも留めず彼女との会話に戻った。
「それなら、ついでに夕飯を作ってもらえると助かるんだけど」
【俺】が何気なくそう言うと、高山の目がみるみる輝きだす。
いかんいかん。落ち着け俺。あくまでもコイツは助手だ。それ以上の存在にはするな。
【まもなく電車が参ります。黄色い線の内側までお下がりください。通過電車です】
「――――おいやめろ!」
「離してください! 僕は今なんですッ!」
アナウンスが聞こえる。もうそろそろ電車が来るな。だが相も変わらず揉めている声も聞こえるが、喧嘩してるのか? こんな所でよく、そんな目立つことを出来たものだ。
「なら、あたしも食べて行っていいですか?」
それはダメ。
「それはだ――――」
バコンッ!
あの音と電車の急ブレーキ音。そしてあの騒めきは今でも鮮明に覚えている。そのとき筆者は初めて、人間の身体が弾ける音を聞いたのだ。あれは、例えるなら自殺だ。
そして小数点以下の僅かな静寂。それは一瞬にして悲鳴へと成り代わった。
この時点で数名がその場を離れたが、大半は何が起きたのかも分からず混乱していた。【私】も何とか冷静さを保っていられたが、彼女は違った。
「何ですかっ? 何が起きたんですか!」
耳を塞ぎたくなるほどの騒めきに彼女は怯え、私の腕をただひたすら握りしめていた。
――――よかった。高山はこの人込みで見えていない。
不幸中の幸いか、彼女はあの惨状を目の当たりにすることはなかった。決して身長が低い訳ではないが、辺りでどよめく人達がいい壁になってくれたのだ。
「日高さんッ、何が起きたんですか? 結構大きい音しましたけど」
恐怖。この2文字が彼女の眼差しから伝わって来た。耳を畳んだ動物を想わせる様な顔だ。
「大丈夫だ。何もない」
何もなくはないだろ。いま目の前で人が死んだんだぞ。戦場で兵士が死ぬのとは訳が違う。これは、自殺だ。……だが高山が見る必要はない。俺だけで十分だ。大丈夫、大丈夫さ。慣れているだろ?
「来い、タクシーで帰るぞ」
その事故を記事にしようかと思ったが、知らず知らずのうちに彼女の手を握り、【私】は引きずるように駅の出口を目指していた。その途中、きっと彼女は私に色々聞いていたのだろうが、その時の私には何も聞こえていなかった。
「――――え、ちょっと! まさかさっきのって」
クソッ。タクシーが捕まらない。みんな同じこと考えてるからだ。
辺りにはスーツ姿の人間が同じようにタクシーを待っている。目の前で人が死んだとしても、自分の生活というのは大切だ。
「ちょっと、説明してくださいよ!」
タクシー乗り場で俺が手を挙げていると、高山が斜め下から声を張り上げる。状況が分からず混乱するのは分かるが、少し静かにして欲しいものだ。
「うるさい」
なんでいつも俺なんだ。あの時もそうだった。まるで俺を邪魔するかのように。
…………ああ、イライラする。これが嫌だからゴシップにまわったって言うのに。とことん嫌われているんだな俺は。
「みんな浮かれてるだけだ。お前が気にすることじゃない」
「――――えぇ?」
高山からの視線を感じるが、【俺】は目を合わせようとしなかった。握った冷え性の手が震えてたが。きっと冷え性だからだ。…………ああ。やっとでタクシーが捕まった。
【私】は半ば無理やり彼女をタクシーに乗せ、運転手に家の住所を伝えた。そしてタクシーのドアが閉まると、先ほどまでの出来事が嘘だったかの様に静かになったのだった。