夢③
「あ、」
高山がピタリと歩みを止める。急に止まるなよ。
「どうした?」
「このパンケーキ屋さん。最近できたばかりなんですよ!」
「だから?」
「バイト代ってことで奢ってくださいよ」
最早怒りさえ湧き起らない…………。しかし思えば、こいつには今まで給料とか見返りをやったことがない。「助手なんだから」と言い訳ばかりしてたっけ。
「やだ」
「ええ。いいじゃないですか。あたしのスイーツブログ。最近人気出てきたんですよ。だからこれは遊びじゃなく、取材です」
つらつらつらつらと、本当にこいつは。でもまあ高山と居るのもあと少しだ。大学を卒業したら、こいつも俺の元を離れるだろう。
「分かったよ。30分だけな」
「よし! あたし席取ってきますね」
この時の彼女の笑顔は他の何にも形容し難いものだった。「会いたい」今の【私】の中には、最早この言葉だけがとぐろを巻いている。
「いらっしゃいませー」
最近できたばかりらしいので、店の中はかなり綺麗だ。客層も若い連中ばかり。30代男性は、見た感じ店にはいない。それもそうだ、平日の朝っぱらから、こんな店に来る野郎なんて俺くらいだろう。
「日高さん」
先に席を取るべく入店していた高山が、嬉しそうな顔をして、俺の方を見ながら手を挙げる。
「まあまあいい席取れましたよ」
外の忙しない風景がよく見える窓際の席。どうして若い女ってのは、こうも窓際に座りたがるのかが分からない。さっきの古い喫茶店が恋しい。
「なんか、目が痛くなるような店だな」
「ラッキーですよ。この店、昼とか休日は滅茶苦茶並ぶんですから」
「…………へえ。駅前ってだけはあるな」
知らず知らずのうちに、【私】も密かに楽しんでいたのかもしれない。なにより筆者は、誰かと飲食を共にすること自体が少なかった。
「――――お。このパンケーキが人気なんですよ」
高山は、有名な記者が書いた記事を見るかのように、目を輝かせている。それを見た時、不覚にふと笑みがこぼれる。――危ない危ない。こんな顔、こいつにだけは見られたくない。
「日高さんも何か食べますか?」
そう言う高山の視線は、色彩豊かな甘い写真に食らいついたまま。
……まるで俺に奢るような言い方だな。
「俺はコーヒーだけでいいかな」
「じゃあ、店員さん呼びますね」
後の流れは高山に任せることにして、俺はスマホを取り出して、ニュースアプリを開く。
しかし、つまらない記事ばかりだ。誰かの成功体験。最新のテクノロジー。若者に人気の芸能人やユーチューバー。――――こういった眩しい記事ばかり見ていると、世界が俺を置き去りにしている様な気分になる。
いや、こいつらは世界を知らないだけだ。俺の知ってる世界ってのは…………。
――ここで一つの記事が私の目に留まった。その記事の内容はこうだ。
【例年より増加の一途をたどる自殺者。未だ回復しない失業率が原因か?】
いつの時代も、死んだ人間はこうやって数字に代えられる。それもそうだ。ニュースというのは、膨大な量の情報をいかにコンパクトにして伝えられるかが肝となる。
問題は視聴者だ。この数字をどう捉えるかによって社会が変わる。だが大半は、この自殺者の数を見ても一時的に気分が落ち込むだけで、次の瞬間には別のものに興味が移ってる。まさにあの時の【私】のように。
「なんか、自殺者も大分増えてきたな」
「そうですね。成功する人間もいれば、首を括る理由に殺される人もいるってことですね」
「資本主義だな。あと、自殺者の殆どが、死ぬ前に妙な奇声を発してたんだと」
たった今仕入れた情報を、そうやって分かり切っているかのように振舞う【俺】の前に、香ばしい匂いを漂わせるコーヒーが運ばれてきた。
高山の前には、鮮やかで丸々と太ったイチゴや、ウェディングドレスの様なホイップクリームが、エレガントに盛り付けられたパンケーキが置かれる。
「なんか、結構美味そうだな」
俺がそんな事を呟くと、フォークとナイフでパンケーキを器用に切り分けた高山が、その一切れにクリームを塗りつけ、俺に差し出す。
「あーん」
その顔はとても意地の悪い顔だ。こうやって大人を馬鹿にしたような態度が余計ムカつく。むかつくのに、どこか憎めない……。
「お前、俺をナメてるだろ?」
「ナメるのはクリームだけにしろって?」
「なんか涼しくなってきたなぁ」
俺はそう冗談めかして、身震いをしながらコーヒーを啜る。パンケーキ専門店と銘打っているが、コーヒーもなかなか美味しい。
「可愛くな。知らないんですか? 最近はJKもJDにも、おじさんフェチが増えてきてるんですよ?」
「はいはい」
「おじさんの時代が来てるんですよ?」
30代っておじさんの分類に入ってるのか? 世間一般では一応青年の部類に入るんだが、この年頃のガキからしたら立派なおっさんなんだろうな。きっと。
「もうマッチングアプリで右スワイプする時代は終わってるんですよ?」
その言葉に俺はコーヒーを吹き出しそうになった。
「……なんで知ってるんだよ」
「分かりますよ。指動かす度に表情変わるんですから。普段は真顔でスマホ眺めるくせに」
その言葉に大きくため息を吐いた。
俺はただの人間観察としてやってるだけなんだが、そういう風に見えてるのか。でもまあ、それもそうかもな。20代のガキから見たら。
「なんで女って、顔と年収にしか興味ないんだろうなぁ」
大きく背伸びをしながら背もたれにもたれ掛かると、プラスチックの椅子が不安げな音を立ててよく軋む。
「大体、そう言うお前は――――」
そう言って俺が前のめりになった瞬間だった。
「あれッ!?」
突如店内に男の声が響き、一瞬にして静寂が産まれる。
「あれッ!?」
またしても同じ声。高山が顔をしかめた。
「何ですかね」
「あれ!? なんでっ! ここどこッ!?」
高山の声が奇声でかき消され、俺と高山は目を合わせる。
「なんかヤバくないですか?」
「さあな。夏休みで浮かれてんだろ。あまり見るな」
せっかくのコーヒーが不味くなる瞬間を味わった。それは高山も同じようだ。パクパクと口に運んでいたパンケーキが、まったく動かない様子を見るに。
「夢じゃない! 夢じゃない!」
「――――ちょっとうるさいな」
俺は声の主を一目見てやろうと、眉間にしわを寄せて上半身を返す。
「あああああああ! 終わりだッ。終わりだッ! くるぅっ。嫌! 来るう! ホネェ、骨え! 骨! ああああああああ!」
「ちょっとゆう君どうしたのッ?」
カップルで来てたらしく。叫びまくる男に女が心配そうに叫んでいた。
「お客様、どうされました!?」
店長らしき女が駆け寄る。周りの客も完全にドン引きしている。
結局、ゆう君と呼ばれた男の顔は人込みで見れないが、その声からして、相当歪な表情が想像できる。
――――なぜあの時、あのタイミングで彼は発狂したのだろうか。あの日、あの出来事がなければ、一方的に突き離していた彼女との距離を、少なくとも【私】は埋められていた筈なのだ。