現④
「なんで…………」
ああ。いつぶりだろうか目から涙が出るなんて。あの時枯れ果てるくらい泣いたのに。いつまでも尽きない物なんだな。これは。
「ごめん。…………ごめんな。美穂、奏」
いくら塞き止めようと試みても、その悲しき涙は流れ続ける。高山が助手に来てからずっと我慢してたもんな。
――――美穂というのは、私が以前婚約していたジャーナリストだ。出会ったのは中東の戦場。私はフリーランスで活動していたが、彼女は事務所に所属していた。
私と彼女は偶然にも、海兵隊第四二師団に同行していた。そして、米国の軍人に囲まれながら戦場を駆ける彼女に、私は一目惚れしていた。
ある日の夜、非戦闘地帯の一角に建つ、民間ホテルの寂れたラウンジで、私は美穂に声をかけた。あの夜は、砂漠から流れてくる風が、やけに肌寒く感じた。
「こんばんは」
美穂は女性ということもあり、髪は夏空を思わせるかのように短く、服装も私と同じような男物の衣服を身にまとっていた。
「どうも」
「こ、こんばんは。今夜は寒いですね」
ベタな切り出し方だったが、平和ボケした国内でもあるまいし、ましてや高級ホテルのラウンジでもないので、これくらいがベストだろうと思っていた。
「そうですね。昼はあんなに暑いのに」
「そうですよね」
私への興味を感じられない言葉に、私はただただ頷いた。しかし会話を途切らせたくなかったので、緊張で委縮した脳内から、必死に話題を漁った。
「……あの、どうして貴女は、戦場で取材を試みようと思ったんですか?」
その時やっとで、彼女が私の目を見据えた。私は初めて彼女を目と鼻の先に置き、咄嗟に目を逸らしてしまった事を今でも覚えている。
髪が短くとも、男物の服を着ていようと、彼女の顔つきはまさしく女性だった。だがその目に光は宿っていない。
「そういう君は、何でここへ?」
彼女はグラスを手に持ちながら、口角を少しだけ吊り上げた。
その時の私には、なぜ戦場ジャーナリストになったのか明確な理由があった。しかし、この時は何を答えようと、彼女が満足するような返答は出来なかっただろう。
そしてどう答えようか私が口を籠らせていると、彼女は笑ったのだ。
「――――よかった」
「え?」
「いや、ごめんなさい何でもないです」
美穂は一息つくと、グラスを空にしてタバコを銜た。そして次は、彼女の方から話を切り出してきた。
「出身は?」
美穂が私に対し、少し興味を持ってくれたと、この時の私は密かに舞い上がっていた。今思うと本当に馬鹿らしい。
「岐阜です。あ、日高っていいます」
「日高くんか。あたしは{高奈。出身は兵庫県です」
私と美穂は軽く頭を下げて挨拶を交わした。ふと頭を上げると彼女と目が合ったが、私は直ぐに目をそらした。するとなぜか、喉から笑いが込み上げてきた。けれどそれは彼女も同じだった。
「あぁ、日本人だなあ、やっぱりあたし達は」
「そうですね。ここ最近外国人としか話してないから。こんな挨拶久しぶりですよ」
そう言ってまた二人で笑った。
「――――お酒、飲まないの?」
美穂は酒を勧めてきたが、この時の私はまだ、現場の空気に慣れておらず、そういうものを嗜む余裕などなかった。むしろ兵士よりも兵士らしく馴染む彼女に、私は尊敬の念すら覚えていた気がする。
「いや、今夜は遠慮します」
「いいの? 明日死ぬかもしれないんだよ」
「その時、酒のせいにしたくないんで」
私は音をたてながらグラスの中に入った氷を転がした。氷は寂しそうに酒を欲しがっていたのに、私は断ったのだ。
「っふふ。そっかそっか。それが君ならそのままでいいと思うよ」
美穂はボトルに残った僅かな酒を、名残惜しそうにグラスに注いだ。そのとき既に、彼女の顔は紅色で淡く染められていたが、特に気にせず私は聞いた。
「高奈さんはお酒強いんですね」
「いいや、下戸だよ。コレは今日死んだ兵士に」
何とも言えなかった。人が殺し合っている。それがそこでの日常なのだと、その時私は実感した。
――――そうして無言でうつむく私を見て、彼女が口を開く。
「日高くん。まだ人が死ぬとこ見てないでしょ?」
「……はい。何で分かったんですか?」
「なんとなくだよ。そうじゃなかったら、一杯付き合ってくれるしね」
「なるほど……」
またしばらく無言が続く。気まずいからではない。多分、あれは死んだ人への黙祷だ。そしてその沈黙の間、私の中で抱いていた物が熱くなる瞬間を感じた。
「今でも人が死んでる。その事実を日本国内に伝える。そうして日々の有難みを感じてもらいたい。それが俺の理由です」
理由を話すのには勇気が必要だった。それで彼女に鼻で笑われるかもしれないし、綺麗ごとだってあしらわれる事が怖かった。しかし私は話した。
「そっか。あの頃のあたしと同じだね」
彼女も同じ理由を持っていた事実を知り、内心ほっとした事を今でも覚えている。けれど今思えば、そんな綺麗ごとばかりではやっていけないことを、もっと早く気付くべきだったのだ。
「今は違うんですか?」
「ん? そうかもね」
美穂は大きく背伸びをして、手に持っていたグラスを空けた。灰皿の横、寂しそうに置かれたタバコの箱は、誰の物かも分からない血をつけて。
「日本人に限らずさ、人間ってのは大多数が実際に経験しないと分からない生き物なんだよね」
彼女の指に挟まる吸いかけのタバコは、線香のように煙を吹き出している。
「意外と静かな戦場、花火とは違う強い火薬の臭さ。さっきまで話していた人が死ぬ瞬間。どれも普通に生きてれば経験することの無い事実」
酔っぱらっていたのか、彼女の舌はうまく回っていないようにも感じた。そう感じていたのは、ただの言い訳づくりかもしれない。
「――――でも、それを経験しないってのは幸せな事なんだよね」
美穂は大きな溜め息を吐いて机に伏せ、こう言う。
「一体何なんだろうねえ。現実ってのは」
日本でも紛争地帯の映像は流れる。人が死ぬ瞬間などはカットされて。
そして人は結果を知りたがる。どっちが勝ってどっちが負けたのか。そして世界がこれからどう変わっていくのか。
戦争さえ1つのエンターテイメントと化しているこの世界で、人は自分の生活をする。昨日見たニュースの内容などとうに忘れて。
――――私は一体、何を伝えたかったのだろうか。
「高奈さんは、いつまでこの仕事をするつもりですか?」
しかし返答はない。代わりに返ってくるのは彼女の寝息。
「高奈さん?」
眠った彼女をそこに放置しておくのは危険だと思い、私は酔いつぶれた美穂を背負って、彼女の部屋まで運ぶことにした。
しかし私は嬉しかった。日本でもない、ましてや戦争中の国の中で、彼女は私に寝顔を見せたのだ。まだ出会って数十分だと言うのに、私を信用してくれたのだと。
「高奈さん。何号室ですか?」
背中から伝わる彼女の温もり。耳にかかる酒臭い吐息。抱きしめるように回された少し筋肉質な細い腕。もう少しこのままでいたいと私は願う。
「424」
しかし無情にも、424号室は直ぐ目の前にあった。
「着きましたよ。入りますね。あとで何も言わないでくださいよ」
この期に及んで、まだ彼女の事を女性として扱っている自分に嫌気がさした。
――――そしてゆっくりと美穂をベッドに下ろし、そっと布団を掛けてあげた。そのあと少しだけ彼女の寝顔を眺めたが、そのまま起こさないようにその場を離れることにした。
だが、そんな私を彼女の腕が止めた。
「来て」
明日死ぬかもしれない。彼女の言った言葉が私の背中を押した。
生きている実感というのはどこで感じるのだろう?
死ぬ直前。またはそれを回避した時。子供が出来た時。家に帰った時。それは人によってまちまちかもしれないが、少なくとも彼女は、私と出会ったその時も。もっとそれよりもずっと前から感じていたのだろう。
飲み干した酒。吸いかけの煙草。私との会話。私の背中。共に過ごした夜。明日死ぬかもしれないという現実。来るかもわからない朝。彼女は誰よりも、自分の“生”を大切にしていた。
――――後日、私は現地取材8日目にして、人が死ぬところを目の当たりにした。だがカメラには納めなかった。その瞬間が金に代わることを恐れたのだ。
いや、それは建前だ。正直私は、誰かが死ぬ場面を心の何処かで待ち続け、欲していたのだ。その写真を撮り、世界に現実を突きつけてやろうと息巻いていたのだ。
しかし違った。現実というのは、人から人へ伝えられる程かわいい物ではない。
美穂とは帰国してから結婚した。それからは、発展途上国や難民を専門にするようになり、彼女も国内を中心に活動した。守るものが出来るということは素晴らしくも残酷である。
「――――明日からまた海外に行くよ」
ある日の朝、私は美穂にそう告げた。
「そう、気を付けてね。あなたは私たちの自慢のお父さんよ」
私の肩に手を置きながら美穂は言った。
結婚してから美穂の髪は伸びた。もう男の格好をする必要はなかったからだ。本当に美しかった。しかし同時に、学校を卒業するような切なさと寂しさも感じた。
「パパまた遠く行っちゃうの?」
奏。私と美穂の宝だ。まだ小学校に上がったばかりで、一人で靴紐も結べない。小さな体に、小さな心音。それを聞いた時、私は自分の中に生を感じた。
「そうだよお。パパはママと奏を幸せにするために頑張ってくるんだよ」
「やだ。カナデはパパがいないと幸せじゃないもん」
小さいながらに、頑張って感情を訴えるその顔と、輪ゴムの様に小さな口から出てくるその言葉に、私と美穂は顔を見合わせ笑った。
「ええ? ママじゃダメなのお?」
美穂は奏のおでこに自分のおでこを合わせると、ぐりぐりとしながら意地悪くそう言った。
「ママも好きだよ。でもパパもいないとイヤ」
その言葉には私の全てが詰まっていた。これまでの人生や夢が、奏と美穂という、目に見える姿となり、私に幸せを運んでくれた気がした。私は世界の誰よりも幸福だった。
――――それでも私は翌朝、彼女たちを置き去りにした。もし過去に戻れるとしたら、何もかも忘れてそのまま死にたい。その時はそう思った。
今思えば、3人で過ごした日々ですら夢だったのかもしれない。
美穂と奏は、無免許で運転していた未成年に殺された。その連絡が入ったのは、私の乗った飛行機が離陸した後だった。
それから日本に戻るまでの事はあまりよく覚えていない。
加害者とその家族からは、ただひたすらに謝罪された。だがどうでもよかった。
顔も見たくない。出来れば一家で心中してほしかった。地獄に落ちて欲しかった。2人のお墓には来ないで欲しかった。2人の名前を口にしないで欲しかった。
――――添えられた花束を、私は投げ返した。
「そんなに許してほしいなら、今すぐ死んでください」
私は裁判でそう言い放った。裁判長からは注意をされた。
連日載り続ける新聞やニュースに吐き気がした。今も2人の事故が誰かの金になっていると。そしてどんどん小さくなり、遂には消えてしまうのだ。
私がやってきた事も同じだ。食べるために誰かの不幸を探しに行く。世の中を変えるなんて綺麗ごとを吐きながら。
――――自殺は何度も考えた。だが誰よりも生を大切にする美穂が、今度は小さな手と共に、いつまでも私の腕を握っている。
「明日死ぬかもしれない」に何度希望を抱いたことだろうか。いつになっても来ない明日。2人に会える明日に。
だから私は約束した。自分の魂に…………。
「もうあんな思いはさせない」と。




