弦
「先生、疲れていますか?」
「いや、すまない。考え事をしていただけだ。報告を続けてくれ」
俺の気持ちを表すかのように会社の業績は著しく低下していっていた。
「先生は父様の遺品をご覧になりましたか」
「まだ見ていない。心の準備ができないんだ」
遺品は父の部屋にそのまま残されている。俺は父が亡くなってから一ヶ月間、父の部屋に一度も入っていなかった。母の一存で俺が入るまでは誰も入れないようにしているらしく、まだ誰も父の部屋には入っていないはずだ。
「先生、私も昔に父を亡くしました。その後、母は嫌がる私を無理矢理に父の部屋に入れたのです。誰も心の準備なんてできないんですよ。いつ入るか、今でしょ、です」
「そのネタは古い」
「そうですね。私も言いながら思いました」
くしゃりと歯を見せて笑う顔を見ると俺も心が楽になった。
その夜、俺は母のいる実家に向かった。今行かなければ一生入れない気がしたので夜遅い時間だったが連絡を入れて行くと伝えた。
家につくと一ヶ月で格段に老けた母が出迎えてくれた。母は穏やかな笑みで父の部屋まで案内してくれた。
重々しい扉の前で立ち止まる。ここに来るのは幼少期以来だろうか、正確には覚えていない。
「ここで待っててあげるから、ゆっくり見てきて。いくら時間がかかってもいいからね」
母の声は昔も今も優しかった。
思えば俺は昔から父に付いて歩き、母に甘えることがない。今夜だけでも甘えさせてもらおうかな
「ありがとう、お母さん」
扉を開ける。部屋には、本の匂いと埃の匂いが充満していた。
息を吸って吐く。微かに父の匂いを感じた。
机の上に乗せられた封筒があった。近づくと表に『高梨 春之介へ』と書いてある。俺の知っている父の硬くて綺麗な字だった。
高梨 春之介へ
春、お前には一度も名前の意味を教えてなかった。それを今伝えようと思う。
お前自らの意思で積極的に物事を進めてほしいと願った。春という字にしたのは物の間にはさまる。間に入ってとりもつという意味を込めた。そのように人のそばに付き添って助ける人間になってくれと願ったのだ。
名前というのは不思議だな。お前は私の願った名の通りの息子になってくれた。本当に誇りに思っている。
これを読んでいるのは私がいなくなってから随分と時間が経ってからなのだろうな。お前のことだ周りの人間に心配をかけているだろう。思い悩むなお前の道を生きろ。
私は善として生きることを全うできなかった。お前は気づいているのだろう。私が会社を大きくするためにしていたことを知ったのだろう。それでも正しく生きようとしてくれた。本当に感謝している。
私が直接話しているわけではないが、お前はこの手紙の内容も一言一句忘れずに読み取ってくれるだろうか。
愛している。
高梨 壮馬
父の手紙を閉じ、綺麗に封筒に入れ直す。俺はもう泣かなかった。
父は完璧な善人になれなかった。俺が代わりに善人にならなければいけなかった。だが、もう遅い。
俺はもう善人ではない。
一人暮らしになる前の自分の部屋に行った。
ここも何も変わっていなかった。
その時、控えめなノックが聞こえた。
「先生、私です。ゲンです」
「ゲンだと? どうしてここにいる?」
「先生のことが心配できたのです。入ってもよろしいですか」
俺の動悸が激しくなる。
そういうことか。駄目だ。駄目だ。入ってきては駄目だ。
「先生、大丈夫ですか? 失礼しますよ?」
俺は扉に飛びつき、鍵を締めた。息を潜めて椅子の方へ向かう。部屋に置かれた白い椅子は背もたれが大きくなっており、大人であっても隠れることができる。そこに蹲り、俺は子供のように怯えていた。
部屋の外からドアノブを回す音が聞こえてくる。
ガチリ。
「あれ? おかしいなあ。先生! 中にいるんですよね。私ですってば」
ガチリ。がチリ。ガチャガチャガチャガチャ!!
駄目だ。来るな来るな。
ドンドンドンドン!
「先生! 先生! いるんですよね!?」
「来るなーーー!」
恐怖のせいで思わず声が出てしまった。
自分の声が部屋に溶けて消えると、静寂が訪れた。
ゲンの声も聞こえない。なんだ、幻聴か。怖がらせてくれる。
そっと立ち上がろうとしたとき、銃声が響き渡った。
ゴトリと何かが落ちる音がした。椅子の横から覗くとドアノブが落ちているのが目に入った。そして、扉が開いている。では、あいつはどこに!?
「先生。もう遅いですよ? 私は死にませんから安心してください」
ゲンが後ろに立っていた。銃口が俺の額に向かっている。ゲンの目は冷徹に俺を向いていた。
「いつから知っていた」
俺が聞くと、ゲンは笑顔になる。いつもの顔をくしゃりとさせて歯を見せる笑い方ではない。汚くニヤリと笑っている。蔑むような目で。
「最初からです。でも隙がないものですから時間がかかりました」
「殺せ、俺は正しく生きれなかった。お前以外の多くの人に対しても命では贖えないことをしていたのだ」
「ええ、そうです」
「だが、これだけは聞いてくれ。何年も前から俺の中になんとも言えないものが住んでいた。そいつがお前に牙を向いたのかもしれないと」
「そんなことはどうでもいいです。私は私の弦を引きます。では、さようなら」
ゲンの目がニヤリと細められ、明らかな殺意が宿った。
来るとわかった。だが、目は瞑らなかった。今までの自分からは目を逸らさない。それが報いになるかは、わからなかったが。
「あれ? おかしいなあ。ふっ! あれ? おかしい」
ゲンは何かに抑えられているかのように動けないようだった。どういうことだろう。
「よし」
短く言うと。銃を降ろした。
「店員さん。今が帰るタイミングです。十秒後にシュンノスケさんは死んでしまいます。最初に人生が始まった場所で、元の人生に戻ります、と言ってください」
ゲンは何を言っているのだろう。何が言いたいのだろう。
ゲンが前のようにくしゃりと歯を見せて笑った。その瞬間に気づくことができた。
私は元の場所に戻らないといけない。
死んではいけない。
私は白い椅子に飛びついた。そして、叫ぶ。
「元の人生に戻ります!」
気がつくと白い空間に立っていた。