高梨 春之介
白い空間に立っていた。
四方を白い壁で囲まれているというよりかは、無限に広がる白いだけの空間といった感じだ。
目を凝らしたり、近くを見たりしてみると、遠近感覚がおかしくなってきて、目を閉じた。
その状態のまま立っていると、私の左側でバリバリという紙の破けるような音が響いた。目を開きそちらを見ると、白い空間の一部が誰かに破られたかのように裂けていた。裂け目からは光が漏れている。
これが新しい人生への入り口だろうか。
私は裂け目の前まで行き、手だけを光の中に入れてみる。
水のような感覚だ。暖かい日光を浴びている水。光の中は、そんな感覚だった。
唾をゴクリと呑み込む。
勢いをつけて…私は体をいっきに入れた。
光のせいで目が見えない…。体の感覚もなくなった。
大丈夫だろうか。消えゆく意識の中で私は今見ているものが夢ではないと確信を持ち始めていた。
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しばらく待っていると、目の自由が利くようになってきた。
手を開いたり閉じたりしてみると、体の感覚も戻っていることがわかった。
私は椅子に座っていた。白くて大きな椅子で、座り心地がとてもいい。素材はプラスチックのように見えるが私の知識が足りないだけで違う素材なのかもしれない。
周りを見渡すと、ベットが見えて、ランプが見えて、絵画もあった。
ベットもランプも見た目が金持ちっぽい。自分の知識と語彙力のなさに辟易する。
絵画は見たこともない作品だ。風の吹く青々とした平原に一人の女性が麦わら帽子を風に飛ばされないように手で押さえながら立っている。
一旦、起き上がろうか。足にはカーペットの感触がする。とても、滑らかで気持ちいい。
「痛…!」
痛い痛い痛い痛い…。頭が…割れる。
頭が割れるかと思うほどの頭痛がする。
沢山の情報が一気に頭に流れ込んでくる。幼少期から青年期をかけて成長していく、ある人の人生…。いや、これは俺の人生だ。
大企業を一人で立ち上げた父親と、日本一の美人と謳われた女優の母親を持った多才な美男子。
俺の…人生? 違う、私はリストラされた、しがないサラリーマンだ。
これは私が着た服の持ち主の人生。シュンノスケの人生だ。
完璧にレールに乗った人生だ。英才教育を受け、幼いころからピアノとバイオリンを習い、中学生のころには英語と中国語を話せるようになっている。それから経済について父親から直々に習いながらも勉学に精を出していく。
高校生になった頃にはスペイン語も話せるようになっており、励んだ勉学は実を結び名門大学を首席で入学。一度も順位を落とすこともなく主席卒業し、その一年後、アメリカに留学する。
日本に戻ってからは父の企業で働き、社員の気持ちを理解するところから始まり、会社員の悩み相談をしたり、会社の改善点を積極的に聞き入れ自分の糧にしていった。
そして、今日。ついに彼が父の企業を受け継ぐ日がきていた。
控えめに扉がノックされる。
「シュン様。そろそろお時間です。お入りしてもよろしいでしょうか」
「ああ」
部屋に入ってきたのは専属メイドのマールだ。日本人とフィリピン人のハーフで見目のとてもいい女性だ。普段は部屋の掃除を任せていて、朝、起こしてくれるのも彼女だ。
「今日はおめでたい日ですので料理長さんが張り切っております。発表会見の後、おいしく召し上がってくださいね」
「ありがとう。では、任せた」
太くて逞しい声。自信に満ちた声音。そのどちらも前の自分では出すことができなかったものだ。
部屋を出た俺は、玄関に向かう。広い玄関に到着して、少し待つと父が現れた。
「行くぞ」
短く言って父は家の外に出た。家の前には白いリムジンが待っている。
父は車に気を遣う。人を見るときも車のセンスだ。俺には理解できないが、車のセンスで幹部を決め、企業を立ち上げた後に大成功を収めた。
専属運転手は俺たちが乗り込んだのを確認して車を走らせた。運転手の腕は信じられるもので、揺れというものを感じさせない。
父がカップに入ったコーヒーを啜りながら俺を見た。
「緊張してるか」
「いえ、お父さん。心の準備はずいぶん前からさせられてきましたから」
父、タカナシ ソウマは鼻で笑う。
「言外に皮肉を言えるぐらいだ。会見で恥ずかしい姿を晒したりはしないと信じるぞ」
「はい、お父さん」
父の口癖は、信じるぞ、だ。上から目線の物言いに聞こえるが実際に上にいる人間なのだから言われた人は喜びはすれど嫌な感情を抱くことはない。父はそれをわかっていて、その言葉を使っている。
沈黙が降りた。父は目を瞑り腕を組んでいる。もう話すことはないという意思表示だ。
俺も考え事でもしようと目を瞑る。
あれ、おかしい。自我に私がいるというのに、体は勝手に俺の行動をする。
どちらが本当の自分なのかわからなくなってきた。
いや、わかる。元々の私は冴えない人間だ。
だが、見てみろ。今の俺は輝かしい人生を送る人間だ。
「到着しました」
運転手が言いながら車のドアを開ける。考え込んでいる間に随分と時間がたったようだった。
外に出ると記者たちのフラッシュが瞬く。
会見は無事に終わった。これで俺は父の企業を継ぐことになるのだ。
重荷を感じていないわけではないが、今までの自分の人生、つまりシュンノスケの今までの人生がどうにかしてくれると思うと気楽になる。
家に帰ると、豪勢な料理が準備されていた。
父が中心に座り、右手前に俺、父の正面に母が座る。
しばらくの間、料理に舌鼓を打っていた父は俺のほうを見る。また、あの話をするのだろう。幼いころからずっと聞かされている。
「シュン。善と悪について、お前の中で考えは出たか」
「お父さんの話される内容は、覚えていますよ。求めるな、ですよね」
父は、はあ、とため息をつく。
「まあ、いい。いつかは明確に自分の考えを持つことができるようになるだろう。兎に角、私がいつも言っている話をするが、もう一度自分の新しくなった立場に当てはめて考えながら聞いてくれ」
「わかりました」
父はうんと一つ頷くと話を始めた。
善と悪だ。
この二つに明確な定義はない。そうだろう? どこからが悪になるのか、どこの線を越えれば善になるのか。それを私が質問して、答えられたものはいないよ。
口をそろえて頭のいい奴は集団の客観性において、その行動が望ましいかどうか、などといった曖昧な答えを返してくる。そんなものは誰でも考えられる。
私が言いたいのは具体的に何をすればいいのかだ。だが、残念なことに私の中にも善と悪の定義というものは明確に存在していない。
お前が一生の中で、それを見つけ出せたとしたら、お前は偉人になれるだろうな。歴史の中にも見つけ出した人間がいるかも入れない。
シュン、お前には今まで私が探して見つけ出すことの出来た内容を伝える。そこからお前が何を見出すのか。それはお前の人生次第なのだ。
人間には本能というものがある。自分の、どの本能にも勝る最上位の本能は生存本能だ。それは、何に対しても本能の中では最上位になる。三大欲求と言われる三つの欲も生存本能に関係しているしな。
無人島に一人、漂着したと考えたとき、お前ならどうする? まずは生きようと思う。その次には食料を求めるだろう。そして、住居。それは、つまり安定や安全を意味する。
毎日が同じことの繰り返しになるだろう。罠にかかった獲物を食べて住居に戻る。ただそれだけの生活だ。だが、人間はここで満足できない。繰り返しを嫌うからだ。だから、不安定を求める。
新しい場所に踏み入ってみたり、大きな獣と戦ったりといった行動をとるかもしれない。
そうやって過ごすうちに、人が求めるものは話し相手だ。自分がこんなことをした。それを誰かに話したいと思うだろう。見せたいと思うだろう。誰かに出会って、そして、誰かに愛されたいと思うだろう。
不安定の次に人が求めるものは認められること、愛されることなのかもしれない。
1生存
2安定、安全
3不安定、変化
4認められたい
5愛されたい
では、人はこの全てを追って行ったとき、本当に幸せがそこにあるのだろうか。その人生は本当に善なるものなのだろうか。
実はここに隠された秘密がある。人は、2番目から5番目までを追い求める度に不幸になっていくのだ。
安定を望めば変化がなく、認めてほしいと主張すれば傲慢になる。愛されようとすれば人は遠ざかっていくものだ。
では、どのように生きれば幸せになれて、善になるのか。
それは私の中でも判然としていない。
私は最初に幸せになろうと考えた。そのためには金が必要だと若かった私は考えたのだ。そして今の企業が立ち上がった。だが、金で得る幸せは微々たるものだった。
次に家庭を持った。家族と過ごす時間は宝物になった。それが幸せだった。だが、善には繋がらなかった。
もう一つ大事な話がある。どの本能にも勝ると言った生存という本能に勝てるものが一つあるということを忘れてはいけない。
それは本能ではない。アイデンティティだ。
自分が何者であるか。どのような者なのか。それが時に生存本能に勝る。
例えば、父親母親としてのアイデンティティだ。それは、災害が起こったとき自分よりも息子や娘を生かそうとする。
だから、お前がこれから持つべきアイデンティティが何か、じっくり考えるといい。
そして、本当の善を実行するために日々、自分の行動が善なのか考えて生きてほしい。
「はい、お父さん。お父さんの言葉を一言一句忘れずに会社の社長としてのアイデンティティを持って生きていきます」
父は眉をしかめた。
「お前のアイデンティティは…小さいな。まあ、いい。これから少しづつ広げていけ。それがお前の課題だ」
正直わからない。父が何を言いたいのか。それは、これからの人生でも探したところで見つかる気もしない途方もないものだということはわかった。
久しぶりに長い時間話したからか、父は苦しそうに咳をした。本当に苦しそうな、激しい咳だった。