他人の人生
ほかの人の人生を代わりに生きる…。
自信満々に言われると出来そうな気がしてくるのは、疲れて思考力が落ちているためだろうか。
「簡単に言えば、の話ですよ」
「じゃあ、どうやって人の人生を生きるんですか? というか、それでバイトとは、どういうことをすればいいんでしょう」
ヨシタカは、うんうん、と頷く。
「いきなりこんなことを言われると困るでしょう。わかります。でも、少し落ち着いて聞いてくださいね。さあ、深呼吸。吸ってー、吐いてー。そうです、そうです」
私は言われるがままに深呼吸をする。すると、不思議と頭の中が整理されていく。まあ、落ち着くことができた。
「話の続きをお願いします」
「ええ、させていただきます。『人生バイト』。この名前を見て、こんな内容だろうなあって、いろいろ考えたでしょう?」
「まあ」
私が考えたのは、バイト三昧の人生とかだったが。
「あれ、何を言おうとしていたのか忘れてしまいました。まあ、いいでしょう。ここでは、人の人生を代わりに生きるんですよ。それがバイトの内容なんですよ」
「それは、どういう原理で可能になっているのでしょうか。例えば夢の中とか?」
「夢…、確かに近いかもしれません…。試しに誰かの人生を生きてみますか? 百聞は一見に如かずでうsから、直接見たほうがいいと思うのですが」
そんなに簡単にできてしまうものなのだろうか。
待てよ、私は今タクシーの中にいるのではないか? 変な夢を見ているのではないのだろうか。
これがいわゆる明晰夢というやつかもしれない。初めてだから分からないが、きっとそうだ。
ならば、何をしてもよいではないか。
そうだ、やってしまおう。
「直接…見てみます」
ヨシタカは、これ以上ないくらいニッコリと笑う。彼の笑顔は特徴的だ。顔をしわくちゃにさせながら綺麗な白い歯を見せて笑う。正直、その顔をされると嫌な気分になれない。
「いいですねえ! 即決、ということで。では、誰の人生から生きてみますか」
「その前に一つ質問です」
気になることがいくつかある。いくら夢でも細かい設定ぐらいはちゃんとさせてあげた方が矛盾が減るだろう。
「その人の人生を一生生きなければならないのですか?」
「いえ、辞めたくなれば辞めればいいのです」
ほう。
「もう一つ。その人の人生では何をしてもいいのですか」
「ええ、なんでもです。その人のことを気遣う必要はありません」
ほう、ほう。
「では、大金持ちの人生を生きることはできますか?」
「可能ですよ。では、金持ちの人生を生きるということでよろしいですか、店員さん」
「よろしくお願いします」
我ながら強欲だと思う。自分の中にこんなことを考える自分がいるんだと思い知らされたような。
まあ、夢だから。そう、夢だから強欲になっているのかもしれない。
「金持ちの方の人生を準備させていただきます」
「時間がかかるんですか?」
ヨシタカは考えるそぶりをした。
「まあ、それほどかかりません。少々待っていてください」
言うや否や店の裏のほうに行ってしまった。
さて、手持ち無沙汰になってしまった。ヨシタカの言う少々がどのくらいの時間を指すのかわからないが、待つことになるのは変わらない。
来るまでの間、店の見学でもしていよう。
店にはハンガーにかけられた服が所狭しと並んでいる。店自体も狭いのに、服の量が尋常じゃない。
そのうちの一つを手に取る。洗濯のせいか、長く着たせいか色が薄くなっている黒色のスーツだ。誰かが着た後のような感じに見える。
もしかして、古着を売っている店なのか。そんな店が繁盛するのだろうか。まあ、私には関係のないことだ。
値段を見ようとスーツにタグが付いていないか探した。途中で古着だからタグがあるはずないと思いいたったとき、ハンガーに糸で吊るされた紙を見つけた。
そこには手書きで字が書いてある。
人の名前、歳、性別が書いてあった。持ち主の名前かもしれない。古着屋じゃなくて、服を預かっているお店か? いや、そんな店は見たことがない。
答えが出ないまま、ほかの服を眺めていると、やけに目に付く服が合った。
それは、一見他の服と同じだか質感が違うように見えた。手に取ってみる。
『タカナシ シュンノスケ 35歳 男』
ただのワイシャツだが、生地が今まで見たこともないぐらい滑らかで着心地がよさそうだ。
少しぐらい、いいかもしれない。
魔が差したというか、普段は滅多にしないようなことをしてしまった。
自分のワイシャツを脱ぎ、タカナシさんのワイシャツにそでを通してみる。
質感は肌を撫でるように滑らかだ。生地をよおく見ると使われている糸の太さが私のワイシャツよりも細い気がする。安物と高級な物とこんなにも差が出るものだとは思わなかった。
「あれ!? 店員さん! 服は着ちゃダメです!」
前のボタンを留め終わったとき、ヨシタカの慌てたような切羽詰まったような声が聞こえた。
振り返ると、一着の服を持ったヨシタカが私のほうを見て立っている。
服は、黒いワイシャツに鼠色のジャケットが掛かったラフなものだった。
「す、すいません」
突然の大声に驚いた私は反射的に謝った。
「いえ、大丈夫ですよ。時間がどのくらい残されているのかわからないので、早口に言わせてもらいます。
ここでは、人生を服の状態にして保管しているんです。店員さんが今、来ている服も誰かの人生の一つです。運のいいことに店員さんが着た服は、大企業の御曹司の人生です。ですが、その方は35歳に不慮の事故で亡くなってしまうんですよ。
他の人の人生を生きながら死んでしまった場合は元の人生に戻れなくなってしまうので気を付けて下さい」
ヨシタカがそこまで言ったとき、私は自分の手が薄くなり始めたことに気が付いた。
今着ているワイシャツのせいだろうか。薄気味悪くなって、ボタンをはずそうとしたが、びくともしない。
「一度、着てしまえばその人の人生に移行することになっているんです。もう無理ですよ」
「人の人生を生きながら、そこで死ぬと今の私も死んでしまうんですよね」
「はい、なので死ぬ日の前には帰ってきてくださいね」
ヨシタカはおろおろとしている。相当焦っているようだった。
「帰ってくる方法は?」
私の体はもう見えなくなっていた。もう少しで完全に消えるのではないだろうか。
「そうでした! 一番重要なことですね! 戻ってくる方法は、人生が始まったとき最初にいた場所で――――」
いきなりヨシタカの声が聞こえないくなった。
周りを見渡す。
私はなぜか白い空間に立っていた。