旅立ちの花
職場に来るのは始業の十分前。無駄に早く来るのは嫌だし、遅刻は論外だ。十分前に机に付き、朝のコーヒーを淹れたりメールをチェックしたりして、少しずつ体と頭を仕事モードに切り変えていく。特にコーヒーは欠かせない。朝はクリープを入れて。昼の休み時間後にこそ、ブラックコーヒーで。午後は眠くなるから。
……無駄に早く来るのは私の信条に反しているが、今日ばかりは少し早く来たかった。普段は裏門から車を走らせるのだが、今日は正門から入る。本来ならば今日、正門には黒い字で「第30回 卒業式」と書かれた看板が立つはずだった。
駐車場に車を停めると、フロントガラスにひとかけらの雪が降ってくる。正しくは、雪のように軽いもの。ソメイヨシノは花弁だけだと、ほとんど色がないように見える。集合体になると、途端に色づきがわかるようになる。……今年の桜は、例年よりも20日以上早かった。だから、関東南部でも三月中旬でもう満開になっている。皮肉なことに。
地域によって、桜は卒業シーズンにかぶるところもあれば、入学のシーズンにかぶるところもある。本当はどっちの花なんだろう。よく卒業ソングの季語として桜は使われる。
門出日和だ。雲一つない青。淡い桃色の花弁。今日は春日和で温暖な気候が続くでしょうと、マスクをつけたアナウンサーが渋谷から伝えていた。私がいるのは日野市だから、同じ都内でも微妙に遠い。今日着るはずだった春物のスーツの出番がなくなってしまった。今日はいつもの、仕事用の紺のスカートと黒のブラウス。ユニクロのカーディガン。黒タイツに、黒のヒールのないストラップシューズ。
卒業式はない。あるかどうかわからない入学式の頃には、もう散ってしまっているだろう。駐車場から就職課と学生課のある学生会館に向かいながら、一枝折ってみた。おられてもなお、桜はたおやかに咲いている。いま世の中で起こっていることなんて知りませんという、美しい顔で。
*
……窓口の一輪挿しに気が付いたのは、総務部の物部さんだった。昼休みに入る前に郵便を届けに来た彼女は、桜の花を見て口を緩ませた。
「きれいに活けてあるじゃない。どうしたの?」
折りましたとも言えないので、自宅から持ってきましたと伝えた。今朝折った桜の一枝である。給湯室にちょうどいい一輪挿しの花瓶があったから、これは勝手に借りた。
「見る人はまぁ、身内だけなんですけど。少しは華やかになるじゃないですか」
うんうんと物部さんは頷いた。
「本当に残念よね。こんな事態になるなんて」
身内は教職員を指す。学生はいない。在学生の登学は控えてもらっている。サークル活動も禁止。しかし職員は休みにはならない。むしろ、新年度に向けての準備に追われることになる。今年度の後始末も。
だからと言って一つ大きなイベントがなくなって、寂しくないわけではない。
――我が私立白鳥学園大学の卒業式が中止と決まったのは、三月に入ってからのことだった。一月末から跋扈する新型のウィルスが原因だ。中国を起点に世界で蔓延し始め、2月の終わりには日本でも、すべての都道府県の公立学校の休校が要請された。大学は要請の範疇にならないが、情勢を鑑みて、学生の不必要な登学や大人数で集まるイベントを避けるよう、サイトと通じて連絡を出した。
卒業式は学位記を渡すのがメインなのだが、それも手渡しをせずに、学生の住所あてに郵送することにした。どの学生にも今日届くように設定したから、今頃は開けているはずだ。修了したことを示す証書。単位をとれたことを示す証書。……10年前、私も郵送で受け取ったものだ。式典がなくなったから。
「まぁでも、せっかくなので学生が来たらあげようかと思います。先着一名様ですけど」
「くるかしら?」
「こないかもしれませんし、くるかもしれません。忘れ物を取りに来た、とか。ロッカーの鍵を返しに来た、とか」
それもそうだね、と言いながら物部さんは総務部に戻っていった。誰も来ない確率のほうが高い。明日になってもそのままだったら、財務部の皆月にでもあげようか。彼女とは同期だ。今頃は年度末決算に追われていることだろう。花でも見れば、多少は気分転換にもなるかもしれない。
昼休み後も粛々と仕事をつづけた。
夕方になって窓口業務終了の時間を気にしだしたころ。
「すみません! 学生課の窓口って今日空いてますか!?」
学生が一人、慌てて学生課の窓口にやってきた。春色のトレンチコートに薄く化粧をした女の子。いかにも「女子大生」という風情の。茶色い髪が少し乱れている。そんな彼女は、使い捨てのマスクをちゃんとつけていた。
「まだ空いてますよ」
今は4時半を回っている。窓口は5時まで。それ以後は何があっても窓口は受け付けない。時間を守り、守らせるのも仕事の一つだ。
「ごめんなさい! 落とし物していたんですが、引っ越しの準備とかに追われていてなかなかこれなかったんです。あの、まだ残っていますか?」
「落としたのはいつ頃ですか?」
3週間前です、といきなり来た彼女は言った。2月末ぐらいか。落とし物の保管期間は半年だから、まだあるはずだ。何を落としたのか聞くと、USBと彼女は答えた。3週間前というと、学生の入校の規制をかける前か。貴重品の落とし物が入った引き出しを開ける。鍵やらパスケースやらが顔をだしてきた。この辺りのものもそろそろ捨てなくてはならないと考えると、気が滅入る。後からありますかとか聞いてくる例はざらにあるから。
彼女のUSBは黒紐のシンプルなストラップがついていた。落とし物のUSBは2個あったのだが、そのうちの一つを確認して、これですと目を輝かせた。
「ありがとうございます。この中に一応、論文の下書きとか本書きとかも入っているの思い出して」
そんな大事なものを落とすなと、思わずこめかみを揉んだ。
「気を付けてね。論文は個人情報にもなっちゃうんだから。その中に本名とか所属の大学とか指導教官がだれだれとかも書いてあるでしょう?」
「はい。……気を付けます」
素直でよろしい。そして、受け取った証として、リストに必要事項を書いてもらう。氏名、所属学科と学年、取りに来たもの。正しい持ち方で書かれていく字を静かに追った。—―史学科4年、相沢里菜、USB。
……論文の入ったUSB、という時点で気が付いてはいたが。
「卒業生よね?」
「はい」
「こんな時にわざわざ取りに来てくれてありがとうね。それから」
私は花瓶をから桜の枝を取り出して、USBを持つ彼女の手に押し付ける。
「卒業おめでとう」
今日、たくさんの人が言うはずで、目の前の彼女がたくさんの人から聞くはずだった言葉を私は初めて言った。
史学科の相沢さんは、呆然と手の中に咲いた桜の花を見つめている。いきなり渡されてびっくりしたのかもしれない。その中で、彼女からの若干の戸惑いも感じていた。
「受け取っていいんですか?」
「嫌じゃなければ。あなたが受け取らなかったら、仕事に追われる経理ガールのもとに行くだけよ。学生課の地味な事務員からの、ささやかな餞だと思ってくれれば」
卒業生を代表して、とかそんなことを言うつもりはない。卒業する誰かに渡せればなと、軽く思っていただけだ。そんな意図を含ませて彼女に伝えると、黒い瞳が少し光っていた。
「ありがとうございます」
「……そんな感動するものじゃないでしょ」
泣かなくてもいいでしょ、とは言わなかった。自分が泣いている、と意識すると、途端に恥ずかしくなってしまうものだ。相沢里菜はトレンチコートのポケットからハンカチを出して、目元を軽くたたいた。桃色のタオルハンカチに、アイラインの黒がうつってしまっていた。
「……だって」
そこから先は彼女の話だった。折角レンタルした袴が無駄になってしまった、とか。謝恩会もなくなってみんなと最後に話もできなくなってしまった、とか。学位記をもってみんなと写真撮りたかった、とか。何よりも、4年間頑張ってきたのに最後がこれなんて寂しすぎる、と。
「不安なんです。卒業式もなくなって、こんな不安定な状態で就職して、ちゃんとやっていけるのかなとか。これから入社までの間で内定取り消されたりされないかなとか。そのことを考えると眠れなくなって」
ぐるぐる考えているうちに、学校で落としたUSBのことを思い出したらしい。そうして最後に来て……私に花を渡された。多分今日、卒業するすべての学生が一番聞きたかった言葉とともに。
彼女の不安は彼女だけのものだ。この状況で、適当な言葉で下手に慰めたくはなかった。ここはもう、彼女の場所ではない。つらくなったら戻ってきなさいとは言えないのだ。
私から言えることなんて、本当に少ないのだ。
「つらいときは泣いていいんじゃないの?」
相沢さんは涙をぬぐう手を止めて、私を見つめ返した。
「それで泣いた分だけ、楽しい思いをしなさい。不安になったら、好きな漫画のことを考えると少しは気が紛れるわよ」
「……好きな漫画じゃないとダメなんですか?」
「じゃあ映画。『ロード・オブ・ザ・リング』の時のオーランド・ブルームとかは?」
「それ見てない。私は『キック・アス』の時の、クロエ・グレース・モレッツが好き。あんな感じになりたい。悪に立ち向かうの」
「……それをやると、ただのテロリストか人殺しになるよ。……少しは気が紛れた?」
ほんとだ、とつぶやきながら、相沢さんは少し笑った。
桜の花は花瓶に活けていた時よりも、一層きれいになっていた。しかるべき人間のもとにわたったからだろうか。相沢さんはもう一度私に感謝を述べてから、学生課の窓口に背を向けた。気が付けば5時になっていた。
*
給湯室で自分のカップと花瓶を片付けて、棚の中に戻す。無駄な残業はしたくないので、定時の6時でパソコンの電源を落とし、学生課の鍵を閉めた。屋外に出ると、半月が顔を出していた。日が長くなってきたとはいえ、午後の6時の空は闇色だ。鞄の持ち手をしっかりと握って、閉める間際にやってきた相沢里菜を思った。最後がこれなんて寂しすぎる。彼女は、卒業式という儀式に出たかったのだ。4年間頑張ってきた自分のために。これから社会に出なくてはいけない、自分のために。
……まったく他人事ではない。彼女に花を渡したのは、昔の私のためだったのかもしれない。あの時、私もちゃんと、晴れやかな儀式をして社会に出たかった。あの時も今回も、仕方がないといえば仕方がないのかもしれないけど。今回は世界的パンデミック。私の時は3.11。
――冷たい春の風が吹いた。足を止め、突然の風に驚いて空を見上げる。
桜の花弁が薄闇に散っていた。花は闇色に溶けずに、みずから光を放っているように見えた。呆然とそれを眺めた。世界がどうしようもなくても、たまに宝石みたいに美しいものも混ざっている。
届け。
この光が、今日旅立つすべての人たちに。
……桜の花はしばし空を舞った後、音もなくすべて地面に落ちた。それを確認して、私は足を動かし始めた。桜の花を踏まないように気を使う。闇には、淡い光を持つ月だけが取り残さていた。
九藤朋様より「桜」をテーマにお題をいただきました。ありがとうございました。