ある使用人
僕はとても恵まれている。
裕福な家庭に生まれ、欲しいものは欲しいと思う前に与えられた。
願いや希望はただひとことポツリと漏らしただけで、瞬く間に叶えられた。世の中のたいていの人はそうじゃない生活で、だから多分僕は幸福な子供なんだろう。
と、思い込む努力をしていた。
新しい使用人が入る時はまず自分に挨拶に来る。その日もそうだった。
「本日よりこの屋敷に勤めさせていただきますリイザと申します。不慣れなところもありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「ああ、よろしく」
読みかけの書物を閉じることなくお座なりな返事をした僕だったが、ふと視線をあげたとき、リイザと眼があった。
なんてことのない女。
顔の造作は整っているが、白い頬に散らばった薄いそばかすと、下がった目尻は美人というより愛嬌のあるとか、可愛い、とかそういった形容のほうが似合っていた。
目が合うと、下がった目尻をさらに下げて、満面の笑みを浮かべた。
それからも屋敷内でたまにリイザを見かけることがあった。目が合うと、最初と同じように目尻を下げて笑みを浮かべて挨拶してきた。
その笑顔が何となく頭から離れない。
僕には母親がいない。
正確に言うといることはいる。ちゃんと血のつながった母親が。ただかかわりはひどく薄く、あの人が母親であるという実感はない。
客観的に見て、母であるエミリアは美しい人だ。自分を産んだとは思えんくらいほっそりとした体に繊細で整った顔立ち。でも彼女の美しさは母親のそれではない。母親の美しさというのは、乳母であるアリアやローサにこそあったと僕は思う。包容力に溢れた、慈愛の微笑み。
そのアリアとローサも僕が6歳になると乳母をやめ、屋敷を出て行った。ローサは遠くの街に引っ越して言ったが、アリアは屋敷の近くに居を構え、前まではちょくちょくと遊びに行っていた。
アリアの夫、ルークスも毎日のように顔を出す僕を快く迎えてくれ、子供のいなかったアリアの家は、僕の疑似的な家族で、とても大事な場所だった。しかし唯一の僕の逃げ場は父ウリウスの一言で逃げ場ではなくなった。
父はちょくちょく屋敷を抜け出して朝から晩まで入り浸っているその状況をよしとせず、使用人を使って僕に警告を出してきた。
あまり一般家庭に入り浸るようならアリアたちに町から出て行ってもらうことも考えなくては、と。婉曲な言葉でそれは僕に伝えられ、その日を境に僕はアリアの家に行くのをやめた。
父のことは嫌いではなかったし、むしろ尊敬していた。家族を作ることには失敗していたけれど、仕事の面ではこれ以上ない成功を収めていたし、自分も大きくなったら父の後を継ぎ、父に恥じない立派な商人になることを目標ともしていた。
そう、父のように、立派な、商人に、なる。
社会的地位もあり、貴族すらもこびへつらう、そんな立派な父の後を継ぐ。
それが、僕のーー……。
じっと手を見る。
まだ小さく、父とは比べようもない、子供の掌。
何かをつかみたいけれど、それがなんなのかすらわからない。
季節は冬がすぐそこまで来ていた。
アギトとの稽古が終わり歩いていると、リイザに呼び止められる。
「シオン様、そんな恰好ではお風邪をひかれてしまいます」
稽古で汗をかいた僕は薄着のまま庭を目的もなくぶらぶらと散策していた。
汗をかいた身体に冷たい外気は心地が良かった。
リイザは自分が掛けていたストールをふわりと僕にかけてくれる。ストールはリイザの体温で温かく、そこで初めて自分の身体が思っていたより冷えていたことを知る。
「大丈夫だ」
僕はお礼を言えない子供だった。さも迷惑なことだというように仏頂面を作る僕に、膝をついて目線を合わせていたリイザはまたあの笑みを浮かべ、僕の手をとる。
「いいえ、御手もこんなに冷えてしまって」
両手で僕の手を包むと、口元に持って行き、温かい息を吐きかけられ、手をこすられた。
「どうぞお部屋にお戻りください。温かいお飲物をお持ちします」
笑うと目がなくなってしまったようなその笑顔を間近に見て、僕は自分でも驚くくらい素直に頷く。
「……分かった」
自室に戻った僕は、掛けてもらったストールを手にする。
ストールは温かく、ほのかにリイザの残り香がするような気がして、僕はそれをこっそりとベッドの中に隠した。
ほどなくしてリイザが温かい飲み物を持ってきてくれる。
「どうぞ温かいうちに」
「うん」
リイザが入れてくれたのは温めたミルクに少しだけ蜂蜜を混ぜ溶かしたもので、アリアの家に行くとよく飲ませてもらった。僕にとっては思い出の幸福の味。
それを飲んでいる間、リイザは暖炉の日の調節をしている。火のはぜる音が、静かな室内に響く。
「シオン様、寒いのでお召し変えのお手伝いをいたします」
暖炉に顔を寄せてかがんでいたリイザが不意に立ち上がる。
「いや、大丈夫だ」
ホットミルクと部屋の温かさのおかげで冷たかった身体はだいぶ温かさを取り戻している。
「いいえ、いけません。御手もまだこんなに冷たい」
リイザは僕の手を先ほどと同じように自分の手で包みこみ、じっと僕の目を覗きこむ。
僕の手はいつも冷たい、とは言わなかった。
無言のまま立ち上がり、されるがままにリイザの選んだ服に着替えさせられる。
素肌の上をリイザの指が滑る。
その感触に身震いすると、膝をついた状態のリイザが顔を上げる。リイザの茶色の瞳が、僕の反応を探るように熱のこもった視線をむける。
「シオン様…」
ため息のような吐息とともに、リイザは僕の身体ごとその胸にかき抱く。
リイザの柔らかな胸が顔に押しつけられ、息苦しさを覚えるが、僕は拒まずにされるがままになる。小さなころ、乳母たちからこうやって抱きしめられたことがあった。本当に数えるくらいのことだったけれど、身体をすっぽりと包みこんでくれるその抱擁に、僕はひどく安堵し、幸せな気分になったものだ。
その時と同じように、温かいものが心を軽くしてくれる。
ゆっくりと眼を閉じて、僕は夢想する。
この腕は母の腕。
この胸は母の胸。
僕は、かわいそうな子供じゃない。
こんなにも優しく抱擁してくれる人がいるのだから。