第9章 水の神殿クラウス
早朝の天気は、二人の門出を祝福しているようだった。うーん、と伸びをしながらファルナのつむじを見る。
「よし、ここからどこに行くかについてだけど、聞いて驚くな。向かう先は……クラウス城だ」
「えっ、あのクラウス城?」彼女の言葉の響きには、微妙なニュアンスが含まれていた。
「そう、あのクラウス城さ」
エクスディア王国と最も近い存在であるクラウス王国は、交易のやり取りも盛んで通貨も同じグレーデだ。民族的な意味合いでも近しい存在で基本的には、友好的と言っていいだろう。
だが遠い過去には領土問題のせめぎ合いがあり、そういうもろい部分においては一触即発になる危険もはらんでいる。と言ってもバリアン王の代になってからは、王様同士でよく酒を酌み交わす仲だと聞いている。ジェードも小さい頃によく城に連れて行かれたものだ、一応は公務と言うらしい。
――そんなクラウス城でも、エクスディア城の朝の風物詩と似た光景が繰り広げられていた。
「わらわの召し物がないぞ。どうした? いつものあれじゃ」
眉毛の下に切りそろえた前髪のせいで、眉をひそめているところは見えない。しかし、他のパーツの動きから不機嫌であることが見てとれる。口を横に曲げたその少女は二の句を継いだ。
「何をしておる。トムソンはおらんか、トムソンは」王族の寝巻き姿で寝ぼけ眼をこすり、気だるそうに言う。王族の寝巻きとはいえ、子供用のそれだ。素材が最高級ビロードであること以外は、デザイン的にも一般のものと変わり映えしない。少女の寝巻きには、水を尊ぶクラウスの紋章――イルカを形どった大きな刺しゅう(丸い目をしたかわいらしいデザイン)が施されていた。
「お呼びでございますか、ラーゼ様」
長身の男が優雅な所作で、少女の寝室に滑り込んできた。形式ばったお辞儀を済ませると、手にしたガウンを中腰で手渡す。
「違う、これではない、あのモコモコが付いたヤツの方じゃ!」
厚手のオーバーガウンを払いのけると、ぷいと後ろを向いた。男はさほど動じることなく、七つほど並べられたクローゼットの右端へ向かうとそこから一着を取り出した。
薄手のレース生地で、首回りにだけゴールドフォックスのファーが付いている。ほとんど一枚の布きれ同然に見える。子供は薄着が好きだと言わんばかりだ。ラーゼ・クラウスはそのチュニックを両手で受け取り、ファーの部分にほおずりをしてから、これこれと言った。にっこりうなずいて見せ、さっと頭にかぶる。しかしうまく袖が通らず、男が後ろから手直しをする。
身長や見た目はエクスディア王国三男の侍女――ミュウとさして変わらないが、態度は実に堂々としている。身支度を済ませると、執事の男が言った。
「王女、それでは朝食に参りましょう。少し急がねば間に合わない頃合いかと」
「ふん、捨て置け。わらわが行かねば何も始まらないだろう。ときに今日のメニューは何だと思う、トムソン?」
「そうですね、山豚のロースト=ライモン添えとパオサラダ。ボウボウ鳥のボイルドエッグ。天ラン豆のスープと、デザートは……ルビーショコラのガトーと言ったところでしょうか」
「その口ぶり、さてはお主……知っておるな、こんだてを」
「それはもちろん、私は料理監督も兼任させていただいてますから」
「ふむ、料理も分かる執事とな。ふだん、メイドたちが放っておかないだろう。どうなのじゃその辺は」
「さて、どうでしょうかね。そのあたりは王女の御想像にお任せいたします。私は無用な交流は好みませんゆえ」
丁寧なのか感情を込めていないのか。いずれにせよ、ラーゼ王女の質問ははぐらかされた格好になった。
「それでは、お食事に参りましょう。お気に入りのチュニックは召しましたね」
「食えぬ男よ」
幼い見た目に似つかわしくない言葉が飛び出す。年の頃はジェードのすぐ下で、十代半ばのはずだ。年齢と語彙のアンバランスは、クラウス国の王女という重責からくるものだろうか。
二人が廊下に出ると、直立の姿勢で移動が始まった。スピードスなどの風魔法ではない。足元には水面が広がっており、連続した巨大水槽という表現が近い。深い水の底には水草が生え、カラフルな魚の姿も見え隠れする。
クラウス城の別名は「水の神殿」で、主要な柱を除くと多くの部分が水魔法による細工でできている。ちなみにエクスディアの飾りには火と風のモチーフがよく用いられ、そこは対称的な感じだ。廊下の水は、さざ波を立てながら自動回廊として機能する。ラーゼとトムソンは、ほどなくして大広間の食堂へその身を運ばれた。
食堂の飾りつけにも、水のモチーフが多く取り入れられている。例えばしょく台の代わりに、水がめを持った女神が飾られている、といった具合だ。正門の手前に飾られた流麗なカスケード――階段状に水が流れる庭園――は一般市民にも開放されており、若者の待ち合わせ場所としてもよく知られる。
メイドの数は(趣味の問題だろうが)エクスディアと比べて多くはない。だが、全体の人数は遜色がないだろう。両者とも大国と呼べる規模ではないが、どちらかが小さいということはなく均衡が保たれていた。
ラーゼは執事のトムソンが言った通りの朝食メニューをたいらげ、食後のティータイムをのんびりと味わった。するとトムソンのそばに門兵の男が近寄ってきて、大仰にひざまずいた。そして小声で耳打ちをする。トムソンは、鼻で笑って言い捨てた。
「放っておけ、どこの馬の骨とも分からん。いちいち、その程度をことづけにくるな」
「はっ、誠に申し訳ございません。ですがその男、いえ男女の二人連れはラーゼ王女を存じていると申しておりまして」
「そんなたわごと、どこぞの旅芸人でも口にする。しっかりしろ、何のための門番だ。ちゃんと吟味してから私に報告しろ。それで、その――おかしなやからは何と名乗っておるのだ」
ここでラーゼは、ピョコンと聞き耳を立てた。聞こえない振りをして、紅茶をすすり続けるのもなかなか退屈なのだ。熱めのミルクライモンティーをふうふうと冷ます動作をしながら、慎重に小耳をそばだてる。
「はっ、それが……エクスディア国の王子、ジェード殿と名乗っております。誠に不届き者であります。いっそのこと、切り捨ててしまいましょうか」
ラーゼはまだ熱い紅茶を、その小さな口から吹き出してしまった。
「ま、待て、お主ら。あ、あやつが来てるだと」別に舌をやけどしたのではないが、うまく口が回らない。
「王女、どこの狂言師か分からないのですよ。分かりました、私が行ってこの目で確認して参りましょう。エクスディア家には、一応見識がありますゆえ。特に第一王子のプリストン殿であれば見間違えようがありません。ああ、今回は第二王子と申しているお方でしたか」彫金が施された純白の椅子から立ち上がり、ナプキンを椅子に置き直して言った。
「待たぬか、トムソン。それならわらわも相当なものじゃ、うん。ジェードならば見間違えるはずはない、わらわが直接行こう」
「何を慌ててらっしゃるのですか、ラーゼ様らしくない。いいでしょう、それでは私も御同伴の上、向かうことにしましょう。――それで、どこに来ていると言うのだ」
「はっ、入り口でありますが。その……既に玄関ホールまでお入りになられてるかと」
トムソンは憎らしげに門兵をにらみつけると、足早に向かった。ラーゼも負けじとそれに続いた。