第5章 湖に潜む七色の魚
昨夜の雷雨がウソのように晴れ渡っていた。のん気で陽気な春の訪れを感じさせたが、エクスディア城は慌ただしい緊迫した空気に包まれていた。ジェードは耳鳴りを覚えた。この地方名産のワインを飲んだことはまだ一度もないが、二日酔いとは恐らくこういうものだと思った。
ジェードに目立った外傷はなかったが、けが人として扱われ、昨日の夜半から続く戦略会議への参加は免除されていた。そのことは医務室のベッドから体を起こした際に、ファルナが教えてくれた。
彼女はいつも、ジェードより遅く寝て早く起きる。それが侍女の定めと言えばそれまでだが、到底彼にはまねできないし、いつも感謝の気持ちでいっぱいだった。もし彼女が眠りこけていたとしたら、ジェードは肩に毛布をかけてやるだろう。いや、実際にはポニーテールの毛先でいたずらする……かもしれないが。
昨日のことは、誰か夢だと言ってくれ――なあ、ファルナ。
ゆっくりと体を起こすと鉛のように重い足取りで、国王の待つ会議室へ向かった。エクスディアの歴史を見守る、サラマンダーの紋章が刻まれた門扉に手をかけた。きしみながら開く扉に合わせるかのように、中にいた全員のときが止まった。伝統的な円卓を取り囲んだ二十人ほどが、一斉にジェードを注視した。一歩足を踏み入れただけで荘厳な空気が伝わってきた。一国の戦略を担う場は重々しい緊迫に包まれていた。
三男のラックと侍女のミュウが座っている姿が左前方に見えた。とてもその年代の子供の顔には見えない。二人とも口を真一文字に引き結んでいる。プリストンの侍女であるアリーザの姿はなかった。
「ジェード、来たか。今我が国が直面している困難な状況について、分かっておるな」
バリアン国王は目の動きで、ジェードの進むべき場所を示した。その先にぽつんと用意された二脚の椅子は、いつもの彼が座る定位置ではない。ふだんはもっと離れた位置にいた。それでよかった。決して目立つ場所ではなかった。その空白の場所は――いつも兄貴とアリーザが座る席だった。
見事なあごひげに手を当て、国王は思案に暮れていた。ジェードの背中にファルナが続いた。しかしジェードは、促された椅子には座らなかった。椅子の前でぼう然と突っ立っている。座する王を見下ろす行為は、長きに及ぶと礼を失する。
「ジェード、どうしたの? 座ってくれなきゃ私も座れないよ」不穏な空気を読み取り、ファルナが小声で言う。
「バリアン国王。俺はここには座らない。兄貴の後釜に納まるつもりもない」
王は息子をひとにらみしただけで、言葉はなかった。会議の面々がざわつく――政財界の重鎮や貴族、騎兵隊の司令官などそうそうたるメンバーだ。
「お兄ぃ」ラックが心細げにつぶやいた。
「悪ぃ、おやじ。ここで何を言われ、何を決められても俺は従えない」
「臆したか、国が困窮決まった一大事だと言うのに。お前は何を考えているんだ」
「何も考えちゃいないさ! ただ、兄貴の代わりなんて、できっこないんだよ。俺じゃ……無理だ」
ただ、受け入れたくなかった。兄貴の葬儀の話などしたくないし、今後のことも。その式典でスピーチをするなど、もってのほかだ。緊張や嫌悪を通り越して、へどが出る。兄貴の代わりになることなど考えたくもない。
俺がいつ望んだ? 王子に生まれたいなんていつ望んだ! 俺が望んだのは、母と兄弟がいる普通の生活だ。なぜ、それを俺から奪い去る。そしてなぜ、こんな理不尽な魔法をかける?
ジェードは悔し涙を浮かべ、とうとうその重苦しい空間から逃げ去った。文字通り、逃げたと言っていい。ジェードの頭の中には実際に、それしかなかったのだから。
――全てなかったことに。全ての敵から逃げ出したい。懸命に走りながら、そう吐き出した。
「待って、ジェード!」ファルナが息せき切って追いかけてきた。高速移動が得意な彼女にこんなに息を弾ませるほど、ジェードは遠くまで逃げていた。確かに裏の門から矢のように飛び出し、ついには城の裏手にある湖が見えるところまで来ていたのだ。
城の敷地は広大という表現では手に余る。子供の頃のジェードは、ここが世界の全てだと信じていたほどだ。湖まではよく手入れされた植林が広がり、使用人専用の邸宅とその子供たち向けの公園があった。曲がりくねった道を抜けて湖までたどり着く頃には、大きめの砂時計の砂が落ち切るほどだった。
「ねえ、待ってよ、お願い。別に引き止めに来たわけじゃないんだから。私はあなたの侍女なの。近くにいなくちゃ、何も聞いてあげられないでしょ」
そう言って小走りになると、ジェードの肘のあたりをつかんだ。ビロードのシャツに付けられたカフスボタンが、強く引っ張られた。ちょうど目的地にたどり着いたのでジェードは歩みを止めた。「ちょっと座るか」
レンデル湖は、謎の生物のうわさが絶えない大きな湖だ。湖面は静かにないで、雄大な自然を映し出す。ここに来ると、小さい頃から妙に気持ちが落ち着いた。反対側の湖岸には、釣りをしている少年たちの姿が見えた。
「小さい頃、よく兄貴と釣りに来ていたんだ、ここ」
「そうらしいね。危ないから余り近づくなって、幾ら大人が注意しても聞かなかったそうね。ジェードの侍女に決まった日に、ちゃんと心得として教わったわ」
「誰から聞いたんだよ……ああ、さてはアリーザさんか。だってさ、兄貴はまだ小さい頃から空が飛べたんだぜ。あの風の魔法でさ。だから溺れる心配も、別になかったんだよな」ジェードは湖に小石を放り投げた。
「でしょうね」
「けどさ、不思議なもんでさ。その兄貴が一度、溺れかけたことがあるんだ」
「どういうこと? 飛ばなかったの?」
「違うんだ、実はな――」ジェードは、その日の出来事を説明し始めた。
プリストンが風の魔法で浮遊し、大きな魚影を湖面に見つけたときのことだ。空中に浮遊したとこまではよかったが、湖面に近づいてその魚影の正体を確認しようとした瞬間。
何と、その魚が――後で知ったのだが、その湖の主でどう猛な魔獣魚だった――ジャンプ一せん、プリストンの足に食いついたのだ。
いやぁ、驚いたね。七色に光るうろこと目玉は今でも忘れられないや。それで、かみついた魔獣の重みで兄貴は失速。勢いよく水中に引きずり込まれたんだ。そのときの焦り方といったら……今思い出しただけでも冷や汗が出る。俺は無我夢中で泳いだ。魔法なんて使えないからさ愚直にね。そして、気づいたら兄貴を担いで岸にたどり着いていた。で、兄貴はそいつに靴を丸のみにされちまってさ。足の中身は残ってたから不幸中の幸いだったけど――。そこでジェードは言葉に詰まった。不意に一筋の涙がほほを伝った。
「城に帰って、その出来事と靴がなくなったことを、こっぴどくおやじに怒られてさ。優等生の兄貴でさえ、それはもう怒られた。それでも、けろっとしてて。俺の部屋に来て笑って言うんだ、また行こうなってさ」
風が湖面をさざめかせるように、感情が小刻みに震えた。ファルナが横に来て座った。
「それで……そんとき、無事だった足は何だったんだよ。結局、こんなに早く死んじまったんじゃ、助かった意味ないじゃんか……」
弱々しくうつむいたジェードの頭を、ファルナが両手で優しく包み込んだ。甘く切ない春風の匂いがした。
「いいと思うよ、王位を継がなくても。そうだとしても私はジェードの味方だよ、ずっと。たとえ侍女じゃなくなったとしても」
「ん……? それって、どういうことだ? 侍女じゃないとしてもって」
「い、いや、やっぱり侍女だからってことに……しておいて。それより言いたいのは、このままじゃ駄目だから何とかしなきゃってこと。それを応援するのよ、私は。うん」
うまくはぐらかされた気がした。しかし彼女の言うことはもっともだ。ただ逃げ回るだけじゃ何も生まれない。
「まずはお城に戻ること。そして自分の進みたい道を宣言すること。それに尽きるんじゃないかな。それがお兄さんへの答え。何を言うかはジェードの自由だぞ、私はついていくだけだから。でも変わってるね。普通はこういうときって、部屋の中に引きこもるじゃない。だけどジェードは、外の思い出の場所に、こもったわけね」
ファルナは片目でウインクをした。帰りの足取りは来るときと違い、決して重くなかった。ただし、相変わらず彼女のスピードスに追いつくことはできなかった。