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英者は次男坊!  作者: ゼット
◆シーズン1
5/33

第5章 湖に潜む七色の魚

 昨夜の雷雨がウソのように晴れ渡っていた。のん気で陽気な春の訪れを感じさせたが、エクスディア城は慌ただしい緊迫した空気に包まれていた。ジェードは耳鳴りを覚えた。この地方名産のワインを飲んだことはまだ一度もないが、二日酔いとは恐らくこういうものだと思った。


 ジェードに目立った外傷はなかったが、けが人として扱われ、昨日の夜半から続く戦略会議への参加は免除されていた。そのことは医務室のベッドから体を起こした際に、ファルナが教えてくれた。


 彼女はいつも、ジェードより遅く寝て早く起きる。それが侍女の定めと言えばそれまでだが、到底彼にはまねできないし、いつも感謝の気持ちでいっぱいだった。もし彼女が眠りこけていたとしたら、ジェードは肩に毛布をかけてやるだろう。いや、実際にはポニーテールの毛先でいたずらする……かもしれないが。


 昨日のことは、誰か夢だと言ってくれ――なあ、ファルナ。


 ゆっくりと体を起こすと鉛のように重い足取りで、国王の待つ会議室へ向かった。エクスディアの歴史を見守る、サラマンダーの紋章が刻まれた門扉に手をかけた。きしみながら開く扉に合わせるかのように、中にいた全員のときが止まった。伝統的な円卓を取り囲んだ二十人ほどが、一斉にジェードを注視した。一歩足を踏み入れただけで荘厳な空気が伝わってきた。一国の戦略を担う場は重々しい緊迫に包まれていた。


 三男のラックと侍女のミュウが座っている姿が左前方に見えた。とてもその年代の子供の顔には見えない。二人とも口を真一文字に引き結んでいる。プリストンの侍女であるアリーザの姿はなかった。


「ジェード、来たか。今我が国が直面している困難な状況について、分かっておるな」


 バリアン国王は目の動きで、ジェードの進むべき場所を示した。その先にぽつんと用意された二脚の椅子は、いつもの彼が座る定位置ではない。ふだんはもっと離れた位置にいた。それでよかった。決して目立つ場所ではなかった。その空白の場所は――いつも兄貴とアリーザが座る席だった。


 見事なあごひげに手を当て、国王は思案に暮れていた。ジェードの背中にファルナが続いた。しかしジェードは、促された椅子には座らなかった。椅子の前でぼう然と突っ立っている。座する王を見下ろす行為は、長きに及ぶと礼を失する。


「ジェード、どうしたの? 座ってくれなきゃ私も座れないよ」不穏な空気を読み取り、ファルナが小声で言う。


「バリアン国王。俺はここには座らない。兄貴の後釜に納まるつもりもない」


 王は息子をひとにらみしただけで、言葉はなかった。会議の面々がざわつく――政財界の重鎮や貴族、騎兵隊の司令官などそうそうたるメンバーだ。


「お兄ぃ」ラックが心細げにつぶやいた。


「悪ぃ、おやじ。ここで何を言われ、何を決められても俺は従えない」


「臆したか、国が困窮決まった一大事だと言うのに。お前は何を考えているんだ」


「何も考えちゃいないさ! ただ、兄貴の代わりなんて、できっこないんだよ。俺じゃ……無理だ」


 ただ、受け入れたくなかった。兄貴の葬儀の話などしたくないし、今後のことも。その式典でスピーチをするなど、もってのほかだ。緊張や嫌悪を通り越して、へどが出る。兄貴の代わりになることなど考えたくもない。


 俺がいつ望んだ? 王子に生まれたいなんていつ望んだ! 俺が望んだのは、母と兄弟がいる普通の生活だ。なぜ、それを俺から奪い去る。そしてなぜ、こんな理不尽な魔法をかける?


 ジェードは悔し涙を浮かべ、とうとうその重苦しい空間から逃げ去った。文字通り、逃げたと言っていい。ジェードの頭の中には実際に、それしかなかったのだから。


 ――全てなかったことに。全ての敵から逃げ出したい。懸命に走りながら、そう吐き出した。


「待って、ジェード!」ファルナが息せき切って追いかけてきた。高速移動が得意な彼女にこんなに息を弾ませるほど、ジェードは遠くまで逃げていた。確かに裏の門から矢のように飛び出し、ついには城の裏手にある湖が見えるところまで来ていたのだ。


 城の敷地は広大という表現では手に余る。子供の頃のジェードは、ここが世界の全てだと信じていたほどだ。湖まではよく手入れされた植林が広がり、使用人専用の邸宅とその子供たち向けの公園があった。曲がりくねった道を抜けて湖までたどり着く頃には、大きめの砂時計の砂が落ち切るほどだった。


「ねえ、待ってよ、お願い。別に引き止めに来たわけじゃないんだから。私はあなたの侍女なの。近くにいなくちゃ、何も聞いてあげられないでしょ」


 そう言って小走りになると、ジェードの肘のあたりをつかんだ。ビロードのシャツに付けられたカフスボタンが、強く引っ張られた。ちょうど目的地にたどり着いたのでジェードは歩みを止めた。「ちょっと座るか」


 レンデル湖は、謎の生物のうわさが絶えない大きな湖だ。湖面は静かにないで、雄大な自然を映し出す。ここに来ると、小さい頃から妙に気持ちが落ち着いた。反対側の湖岸には、釣りをしている少年たちの姿が見えた。


「小さい頃、よく兄貴と釣りに来ていたんだ、ここ」


「そうらしいね。危ないから余り近づくなって、幾ら大人が注意しても聞かなかったそうね。ジェードの侍女に決まった日に、ちゃんと心得として教わったわ」


「誰から聞いたんだよ……ああ、さてはアリーザさんか。だってさ、兄貴はまだ小さい頃から空が飛べたんだぜ。あの風の魔法でさ。だから溺れる心配も、別になかったんだよな」ジェードは湖に小石を放り投げた。


「でしょうね」


「けどさ、不思議なもんでさ。その兄貴が一度、溺れかけたことがあるんだ」


「どういうこと? 飛ばなかったの?」


「違うんだ、実はな――」ジェードは、その日の出来事を説明し始めた。


 プリストンが風の魔法で浮遊し、大きな魚影を湖面に見つけたときのことだ。空中に浮遊したとこまではよかったが、湖面に近づいてその魚影の正体を確認しようとした瞬間。


 何と、その魚が――後で知ったのだが、その湖の主でどう猛な魔獣魚だった――ジャンプ一せん、プリストンの足に食いついたのだ。


 いやぁ、驚いたね。七色に光るうろこと目玉は今でも忘れられないや。それで、かみついた魔獣の重みで兄貴は失速。勢いよく水中に引きずり込まれたんだ。そのときの焦り方といったら……今思い出しただけでも冷や汗が出る。俺は無我夢中で泳いだ。魔法なんて使えないからさ愚直にね。そして、気づいたら兄貴を担いで岸にたどり着いていた。で、兄貴はそいつに靴を丸のみにされちまってさ。足の中身は残ってたから不幸中の幸いだったけど――。そこでジェードは言葉に詰まった。不意に一筋の涙がほほを伝った。


「城に帰って、その出来事と靴がなくなったことを、こっぴどくおやじに怒られてさ。優等生の兄貴でさえ、それはもう怒られた。それでも、けろっとしてて。俺の部屋に来て笑って言うんだ、また行こうなってさ」


 風が湖面をさざめかせるように、感情が小刻みに震えた。ファルナが横に来て座った。


「それで……そんとき、無事だった足は何だったんだよ。結局、こんなに早く死んじまったんじゃ、助かった意味ないじゃんか……」


 弱々しくうつむいたジェードの頭を、ファルナが両手で優しく包み込んだ。甘く切ない春風の匂いがした。


「いいと思うよ、王位を継がなくても。そうだとしても私はジェードの味方だよ、ずっと。たとえ侍女じゃなくなったとしても」


「ん……? それって、どういうことだ? 侍女じゃないとしてもって」


「い、いや、やっぱり侍女だからってことに……しておいて。それより言いたいのは、このままじゃ駄目だから何とかしなきゃってこと。それを応援するのよ、私は。うん」


 うまくはぐらかされた気がした。しかし彼女の言うことはもっともだ。ただ逃げ回るだけじゃ何も生まれない。


「まずはお城に戻ること。そして自分の進みたい道を宣言すること。それに尽きるんじゃないかな。それがお兄さんへの答え。何を言うかはジェードの自由だぞ、私はついていくだけだから。でも変わってるね。普通はこういうときって、部屋の中に引きこもるじゃない。だけどジェードは、外の思い出の場所に、こもったわけね」


 ファルナは片目でウインクをした。帰りの足取りは来るときと違い、決して重くなかった。ただし、相変わらず彼女のスピードスに追いつくことはできなかった。

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