第4章 魔獣襲来
静寂は突如として切り裂かれた。
「キャアアアアア!」
暗夜につんざく女性の悲鳴。夜には城を基本的には閉鎖しているが、出窓を介した中庭など、外へ開放されている部分も多い。ジェードのいる病室までは長い廊下が続き、その途中に外へつながるベランダがしつらえられている。そのため城内の声は外に逃げやすく、あの声量がきちんと届くということはすなわち、とてつもない絶叫ということになる。
ふだんは安穏とした生活をしているとはいえ、王宮暮らしの身だ。常に不心得者に急襲される可能性があることは重々承知している。深夜だったがジェードはその声だけで、完全に目が覚めた。手元の読書用ランプに素早く火をともした。
暗闇に人影が浮かび上がった――ファルナだ。ジェードが寝た後も付きっきりで、いてくれたのだろう。侍女の鏡と言える彼女は、既に臨戦態勢に入っているように見えた。黒い人影は扉の前に構え、腰のあたりに手を伸ばしていた。
「ファルナ?」小さく声をかける。返事はなかった。
薄あかりに少し目が慣れてきた。ジェードは目を疑った。ファルナだと思っていた人影は、ただの真っ黒い塊だった。いや、さっきは確かに人影だったはずだ。慌てて部屋全体の明かりに手を伸ばした。若草色のランプシェードに光がいき渡るのと同時に、室内に何者かが飛び込んできた!
「ジェード! 大丈夫!? ごめん、向こうの警備に行ってた!」髪を振り乱し飛び込んできたのは、ファルナだった。
先刻の黒い影は跡形もなく消えていた。そのことについて彼女にうまく説明することはできなかった。それ以上に今は、現状を正しく把握しなくてはならない。
「誰か襲われたのか? 侵入者がいるのか?」
「ベランダのところで衛兵さんが……今、こっちに運んでるところだけど、多分もう……。他の主要箇所も警備が破られてると思う。すぐに避難しなきゃ、動ける?」
「ああ。で、誰なんだ? 盗賊か? それとも紛れ込んだ魔獣の類か?」
ファルナが答える前に、天地をひっくり返す音声が城内に響き渡った。
「伝令! 伝令! エクスディア城に侵入者あり! 衛兵その他は直ちに警備に向かってください! 繰り返す、侵入者あり。直ちに周辺の警備に当たってください」
城内全域に、アリーザの澄んだ声が金管拡声器越しに響き渡った。言葉の端々に特別な緊張感を含んでいた。
医務棟から弧を描いて続く一本道の廊下を、小走りで駆け抜ける。城内の照明は全て落とされていて、ファルナが持つランタンの照明だけが頼りだ。薄暗闇がゆえ、スピードスによる高速移動は使えそうもなかった。ベランダを通り抜け、中二階の中庭付近に到着した。昼間に魔法の稽古を行った場所だ。なぜかそのことが、遠い昔のように思えた。
それは突如現れた。まるで子供の背中のように無防備なジェードの前に。それは全身から筒のような突起物を無数に生やした、巨大な化け物だった。
両手と両足、それにバランスは悪いながらも頭部を有していることから、人型の魔獣であることが分かった。傲然とした姿で、体長はゆうに十メートルはあった。体全体が逆三角形のような形で、頭部や胸筋が最も大きく、それに比べて脚部はそれを支えているのが不思議なぐらい細かった。釣り鐘に似た頭部が今にでも落ちてきそうなバランスで、それが余計に不気味さを引き立てていた。上半身はコケで埋め尽くされたような緑色で、ナメクジの粘膜のようにぬれていることを、月明かりが教えた。
何だ、これ。――こんな魔獣は見たことがない。そもそも日常、魔獣という存在にそう頻繁に出くわすことはなく、深い森に出かけていってようやく野生のイノシシ型魔獣に一度出会うかどうかの確率だ。
巨大な頭部に落ちくぼんだ灰色の点が二つ見えた――目だ。逃げるという行為を見透かしているようなその目で、魔獣はジェードをねめつけた。水生植物の口のような無数の突起物からは空気が漏れているらしく、「ヒュルル」という不気味な音が繰り返されている。ジェードには、呼吸音に聞こえた。とてつもない圧迫感が、突起物から吐き出される空気とともに、わっと押し寄せてくる。月明かりに照らされて伸びたジェードの影が、魔獣の足元に触れる距離にまで近づいた。
スッと何の前触れもなく、ファルナがジェードの前に進み出た。これも侍女の勤めよ、と言わんばかりに。彼を魔獣から隠すように立ちはだかると、張りつめた声で詠唱を始めた。
「フレア=マキシマス(火炎の飛燕)!」
両手からこぼれんばかりの火球がほとばしった。今までこんな膨大な炎は見たことがない。ここまでの魔力をファルナが隠し持っていたことにまず驚き、魔法が持つ底なしの可能性にある種の恐れを抱いた。しかし何よりジェードを驚かせたのは、ファルナとその魔法ではなかった。
自分の巨体を包み込むほどの炎の円舞を、魔獣は左手のひと振りにより一瞬で吹き飛ばしたのだ。全くの無傷。ヌメヌメとした粘膜も熱波で干からびることなく、液が滴り落ちていた。まるで全身の崩壊と再生を、繰り返すかのように。
「ジェード、聞いて! 結構やばいかも。私の魔法は残念だけど、こいつには全く効かないみたい。すきがあったら私に構わず逃げて。いい、分かった?」
逃げられるわけないだろ、そう思った――震える心の中で。だが本当に自分の想像を超える出来事に出くわすと、思考が停止してしまう。そう、ジェードは言葉を失ったのだ。
こちらの状況を察知したのだろう。ファルナはジェードに向かって両手を向けると、朝の魔法を吹きかけた――「テンペ=スピードス」だ。体勢が整っていないため、滑るのではなく風圧で、ただ吹き飛ばされた。もんどり打って転げるさまに魔獣は首をかしげ、落ちくぼんだ二つの点がそれを追った。
緊迫したエリアから十メートルほど遠ざかった地点で、ジェードは何とか体勢を整えることができた。風が包み込むように吹き飛ばしてくれたので、見た目以上に外傷はなかった。こわばっていた全身の力がスッと抜けた。声も出せる。
「ファルナ、無理するな! 今応援を呼んでくる!」力の限り叫んだ。ファルナの意図に反して、魔獣の注意が自分に向いてしまった。魔法を使えないただの少年が魔獣と渡り合う術は何もなかった。それでも、どうにかしなくては――同じ年の少女が戦ってくれているのだから。
「分かった! 何とかしのぐから、ジェードは逃げて!」
そのセリフを聞いたとき、ジェードの中で何かが小さくはじけた。侍女とはいえ、女の子が言う言葉じゃない。本来はジェードが彼女を守らなくては――そう母に教わった。
しかし、どうやって? ジェードが考えるより早く、ファルナは次の行動にうって出た。両手を天高く突き上げ、交差する。そして詠唱を始めた。
「ハルド=クロスライド!(交差する雷撃)」暗闇の中に刹那の雷光が走る。
雷系魔法は周囲の人を巻き込む可能性が十分にあるので、先ほどの突き飛ばしからここまでを一連の流れとして捉えると、見事な立ち回りというよりなかった。
雷雲などを一切必要とせず、無から「雷撃の鉄つい」を生み出す。攻撃力は炎系のそれを全般的に上回る。四系統の魔法の中で、最も対物理攻撃の威力が高いのが雷なのだ。ただし「通常の人体に対する攻撃の中では」という注釈がつく。
ごう音とともに雷撃が天空より落下し、そこに現れた獣の姿を再び映し出したとき、ジェードとファルナは震えを覚えた。
「ウォオオオオン!」ウェアウルフをほうふつさせる叫びが、魔獣から発された。
緑色の皮膚は焼けただれ、ところどころから発火している。古木が焼けたようなくすぶった匂いが辺りに漂った。天空の雷撃に呼び寄せられたのか天候が急変し、雨雲が上空を埋め尽くす。突発的な豪雨が二人と魔獣に降り注いだ。
魔獣はファルナの雷撃で少なからず痛手を負ったように見えた。苦しげな叫びは、痛みの証明になるだろうか。魔獣はそのバカでかいハンマーのような拳を高々と鼓舞するように突き上げると、垂直に振り降ろした。フワリと軽い身のこなしでかわすファルナ。しかし無理によけなくてもその位置関係から見て、そもそも当たらないように見えた。威嚇攻撃なのか。魔獣の拳が再び地面にたたきつけられた。庭の花へ水を引くための小さな用水路があり、その上はカシの木で覆われていた。それを粉砕する音が爆撃のようにとどろいた。
ジェードはその戦いから目が離せなかった。ここから脱出して予定通り応援を呼びに行くか、それとも何らかの援護に回るか。今更ながら、魔法の訓練を怠った日々を恨んだ。
魔獣は再び拳を大きく振り上げた。ファルナも同じくフワリと浮き、魔獣の動きを注視しながら回避モーションに入る。しかし移動の足跡は、たたき割られた用水路の側溝へ吸い寄せられた。ファルナは偶然にもそのわなにはまり、足が抜けなくなってしまった。魔獣の両の目がファルナを上から見据えた。
ジェードはそれを見て即座に決断した。迷いはなかった。無我夢中でファルナの元へ走る。土砂降りの中でわけも分からず、頭の中は真っ白だった。そして大量の雨を吸った泥土で、大きく足を滑らせた。足を引き抜こうと泥土に座り込んだファルナが、横滑りするジェードを見つめた。
万事休す――。そう思った瞬間、全てが予期せぬ展開を見せた。魔獣は自分の首を両手で締め上げたかと思うと、前のめりにゆっくりと倒れ込んだ。ジェードは足がもつれたおかげで、その巨体そのものに踏みつぶされないで済んだ。豪雨が全ての音をかき消す中、ジェードは叫んだ。「ファルナ、大丈夫か!」
彼女は答えなかった。彼女は目の前で繰り広げられる光景に目を奪われていた。魔法が解けるかのように、魔獣はその分厚い皮膚や突起物を消滅させ始めている。腐った生肉が焼けるような異臭を放ったのち、魔獣の伏せていた場所に何かが形を残した。ゆっくりと頭の中でその姿、そして形を照らし合わせる。人間のそれだと気がついたとき、ファルナが先に口を開いた。「プリストンさん!」
初めは聞き間違いかと思った。それでも、その聞き慣れた名前に吸い寄せられるかのように、ファルナの元へ――そして彼女が兄貴と指し示す塊の元へふらふらと歩み寄った。
「いよう……、お二人さん……」病人のように体をむせび、言葉を振り絞ったその人の塊は確かに兄貴だった。
「どういうことだよ、兄貴……」
「ちょっとばかし、しくじっちまってな、すまない」
「何がだよ、説明しろよ。さっきの姿は何だよ!」
ジェードは声を荒らげながら、その決して受け入れられない結末を頭の片隅から追いやろうとしていた。兄の出血量が尋常ではないことはすぐに分かった。大雨に流されても、すぐに地面に血だまりができるほどだ。顔色も全くなかった。
「ごめんなさい、私知らなくて……どうしよう、私の魔法で……」ファルナは、両手で顔を覆った。
ジェードはプリストンの背中に自然と手を回して、全身が泥につからないように抱えていた。兄弟げんかでよく取っ組み合いしたっけ。何で今はこんなに軽いんだよ、兄貴。プリストンが弱々しくファルナに答えた。
「……違う、待ってくれ。さっきの雷撃なら大丈夫だ。あれが直接的な原因じゃない。そこそこ効いたかもしれないが、それもあの分厚い皮膚のおかげでほとんどブロックされたんだ」
ファルナは少しほっとした表情を見せた。
「俺は、自分で自分の首を絞めてあの呪縛から逃れた。ただ、あの魔法の恐ろしいところは、その続きがあったことだ。化け物から戻った今の……俺の体は、ぐちゃぐちゃだ。あの変身は一方通行なんだろう。とんでもない魔法を食らっちまった」
ジェードとファルナは、プリストンの振り絞るような言葉のひとつひとつを待った。既に手遅れだということが、嫌でも分かる形で突き付けられている。彼の肉体はもう、冷たく硬くなってきていた。
「いいか、よく聞いてくれ、頼む。俺はこのまま死ぬ……。俺はいつ、どんな魔法を食らったかすらよく分からない。ただ、さっき近くで黒い影を見た。人の形をしていた、気をつけろ、まだ近くにいるかも知れん」
「分かった、分かったから」抱える両手に力がこもる。
「ジェード、この国を頼む。今までお前は余り考えてこなかったかも、知れないが……今ならそれぐらい分かるだろう、次男なんだから。いや、これからは長男になるのか」
「笑えない冗談はやめろよ! 兄貴」プリストンの体からは、ほとんど力を感じられなかった。
「それと、倒れていた衛兵は俺があやめたんだ。すまない、心から弔ってやってくれ。この姿になって、暴走を止めることができなかった。さっき自分を傷つけなかったら、もっと被害が出ていたはずだ」
「何だよ、分かんないよ、嫌だよ! 俺、兄貴を目標にしてたんだぜ。何でだよ、何でいなくなっちゃうんだよ、兄貴は完璧だろ、こんなことで負けるような人間じゃないだろ。頼むよ……俺の前を走り続けてくれよ。それで、たまに立ち止まって追いつけそうに見せてくれよ。やる気を出させてくれよ……お願いだ、俺を置いてかないでくれよ!」
ファルナも泣いていた。暗闇の雨の中で。
「参ったな……そんなに持ち上げないでくれ。さっきの化け物、お前も見ただろ。あれは恐らく俺の本当の姿を映したものだ。笑っちまうだろ。頭でっかちで、タフに見せかけても足元は実はグラついてるところなんて、俺にそっくりだよ。どこまでも見透かされているようだった。変な管からは風の魔法が漏れてて、あれはため息そのものだった。いつも英者を気取らなきゃならないのは、大変だったってことだな。まあ、内緒にしておいてくれ、俺のイメージに傷がつく……」兄の精一杯の冗談だった。
「ああ……でもそんな兄貴も悪くなかったぜ」そう言うと、ジェードはプリストンの手を握った。
「そうだ、こいつをお前に託す。いつか役に立つはずだ。何かに迷ったときには、これを俺だと思って頼れ」
そう言うと、胸に下げた王家の紋章入りペンダントを示した。懐中時計のような大きさで、丸い円形をしていた。プリストンはそれを外す力も残っていないようだった。そっと首の後ろに手を回し、ジェードが外した。「兄貴、もういい。少し休め。まだ死なせるわけには、いかないからな」
弟の言葉に、口元だけ緩ませて応じた。
「ジェード! 救護の人が来たわ!」白衣の医師たちの姿が見えると、ファルナが手招きした。「こっちです、お願いします!」
長尺の二本の棒に帆布地を渡した救護用タンカ。プリストンをそこに横たえたとき、死に神が風をほほに吹きつけた。
「じゃあな、ジェード」プリストンはそれっきり呼吸をしなかった。
「兄貴……何でだよ、何でだよ!」
闇の中にジェードの声がゆっくりと吸い込まれていった。




