第3章 医務棟の記憶
「大丈夫だと思います、のぼせちゃっただけ……みたいですから」
言葉の響き具合で、そこが城の医務室であることはすぐに分かった。ジェードはこのベッドの厄介になることが多いからだ。ふかふかで上等な布団は、起きようとする者の気力をそぐことで有名だ。専属の医師が常勤しており、医療技術も十分に高い。城で働く多くの人々がここのお世話になる。
ファルナは次から次に押し寄せる人波へ大わらわで対応していた。左官職人やワイン工、神職風の人に伝書ばとの飼育師と、バラエティーに富んだ訪問者がドレープの入ったカーテンの隙間から見えた。
ファルナの声は少しかすれて聞こえた。それほどの数の対応に追われていたのだ。まあ、城の人たちがそれっぽい理由をこしらえて、のぞきにきても不思議ではない――これでも一応は第二王子なのだから。ジェードは天井を見上げ、鼻の詰め物についた少量の血を眺めたりしながら、しばらくの間ぼうっとしていた。すると、不意にやりきれない気分が全身を襲った。
魔法なんて何の役にも立たないし、もう、どうでもいっか――魔法を心の底では信じていない自分がいた。心のどこかで眉唾ものとして遠ざけている。魔法を第一に考えるこの世界にうんざりした。体の中にカエルの石の置物を勝手に置いていかれたような気分だ。投げやりな気分になったのは、魔法に対する不満だけではなかった。この懐かしいベッドは、あの日のぬくもりを今の自分には伝えてくれない。そのことに対して嫌気が差したのだ。魔法が優れた万能なものであるならば、あの日の母を助けられたはずだ――。
五年前――医務棟の最奥にあるベッドに少年が顔を突っ伏している。
病室には五十名ほどの人間が詰め掛け、神妙な面持ちを浮かべていた。さすがにこれ以上の人数をここに収容することはできなかった。多くの民衆は、城の外で彼女の無事を祈った。国王は王妃の手を取り、慎重に言葉を選んだ。果たして励ましの声は届いているのだろうか。
少年は母親が伏せるベッドの羽毛にひたすら顔を沈め、少しも上げようとしなかった。少年の兄は気丈にも歯を食いしばり、父親の横に立ち続けている。少年の弟は、侍女のアリーザに抱え上げられ大人しくしている。まだ事情は分からない年齢だった。不意に少年は何かを感じ取り、顔を上げた。
「嫌だ! 行かないで、どこにも行かないでよ、母さん。俺、頑張るから、もっと色んなこと頑張るから、苦手な魔法だって覚えて、それで……それで母さんの病気も治すから。きっとだよ、絶対だよ! だって約束したじゃないか。どこにも行かないって……」しゃくり上げながら、背中を大きく震わせながら、ジェード少年は言う。言葉にならない思いは、その場に居合わせた親戚、親族、全ての人の涙を誘った。
「ウソは嫌だよ! 何でもするから、本当だよ。お願い……だから」そして直接、母の体に顔をうずめた。すると奇跡が起こった。生死をさまよい、既に意識を失っているはずの彼女がそっと手を動かしたのだ。
医者は目を丸くし、よもやと思った。彼女の病は、とうに最終段階に入っていた。しゃべることはおろか、指一本動かす機能さえ失われている状態だった。少年のグレーの短髪をそっとなでると、彼女は言った。
「ご、めんね……もっと遊んであげればよかった。お父さんやお兄ちゃん、ラックとも仲よくしてあげてね。みんなのこと大好きだったわ。ジェード、そばにいてあげられなくて、ごめんね。お母さんを許して……ね」
「嫌だ! そんなこと言わないでよ! ウソでもいいから、ずっといるって言ってよ……」少年は顔を上げて母を見据えた。そして最後にスッとこと切れる母を見届けた。
彼女は生前、比肩亡き魔力をうたわれる伝説の魔導士だった。最後の最後でその魔力を振り絞って息子に答えたのだ。
外ではつり上げられた大鐘が高らかに鳴らされた。一回、二回、三回と。永遠のときを告げるように、王妃が失われたことを民衆に知らせた。街は悲しみの涙に包まれた。
そのときに感じたぬくもりを、少年は今でも忘れない。と同時に、それらが全て拭い去られてしまったこの空間にむしずが走ったのだ。
「ジェード、気がついた? 今日は安静にしておいた方がいいって。でも、ただの貧血みたいだからそんなに心配することもないってさ。あ、何か欲しいものあったら言ってね。すぐに持ってくるから」ジェードは返事をしなかった。ファルナもそれ以上は話しかけてこなかった。
そして、そのまま日が暮れた。