第2章 魔法の特訓
さあて、まだ絶賛春休み中だ。存分に楽しもうではないか、まずは読みかけの冒険小説をっと……あれっ、首根っこと言うか襟首を強大な力で捕まれている。サイクロプスのような剛腕、もといファルナのかわいらしいお手に導かれてジェードは回廊へ引っ張り出された。食事を終えたメイドたちや城の来賓者の多くが、第二王子へ会釈をして通り過ぎていく。
「ジェード、今日はちゃんと稽古してもらいますからね。苦手な魔法を春休みの間に多少なりとも克服してもらわないと! うん、私を信じて。これでも侍女検定特級なんだから!」
何が「うん、私を信じて」だよと嘆息も出そうになったが、その意気込みに気押された。確かに自分の苦手意識のせいで、彼女の華麗な経歴に傷をつけてしまっては申し訳ない。
侍女検定はこの国において最難関に位置する資格で、テーブルマナーや侍女としての品行方正な心構えに加え、筆記と実技試験の両方が課せられている。魔法や格技を広義に含む戦闘術全般。王家の者と同行することが定められているが故の、サバイバル技術。あるじが苦境に陥った際には、その能力がいかんなく発揮される。
遠く離れた異国の辞書で読んだことがあるが、エクスディア国の侍女が担う役割は、秘書とボディガードを兼ねた家庭教師に相当する。困難な職種であるにもかかわらず、毎年数千人の女子がこの資格を目指して華々しく火花を散らして競い合う。侍女養成学校なる施設も存在する。ファルナもその卒業生と聞いた。
王家に採用されるのは干し草の針を見つけるような確率だが、この資格に対する人気は常に高い。本職の侍女にならなくとも、民間の職探しにおいて優遇されるからだ。難関の国家資格というのはだてじゃない。料理の腕は抜群でスポーツも万能。主人や周囲への気配りも行き届いている。暴漢に襲われる心配も常人より少なくて済む。確かにこんな触れこみの女性であれば雇ってみたくなるだろう。
長男侍女のアリーザと三男侍女のミュウは、代々侍女の家系の出身と聞いたことがある。しかし、ファルナは間違いなくたたき上げだ。その驚異的な成績が認められ、一般的な家柄のエアハート家から大抜てきされた。国内最年少の記録付きで特級の資格を取得し、ジェードの侍女になったことは記憶に新しい。
これはひいては、彼女の能力がいかに優れているかの証左に他ならない。同い年でありながら、魔法にしろ戦闘術にしろジェードより明らかに優れているのは……すご過ぎて悔しさはとっくに通り過ぎている。そんな彼女でも、主人であるジェードの成績がいまいちであればその責任を取らされかねない。そんなわけで、ジェードも責任を感じつつ渋々であるがこの特訓に応じた。
中庭の周囲には濃紺で大ぶりのグラデーション・ラベンダーが咲き誇り、すがすがしい春の香りで辺りを満たす。この花は日光の当たり具合によって数分単位で色を変化させるという、不思議なメカニズムを持っている。
「そう、集中して……心に炎を描いて。森羅万象大気のことわりから力を拝借し、自らの肉体の一部を媒介として、それを顕在させる……ってほら、集中して!」
「そうは言ってもさぁ。手から火が出ることについて全然リアリティが湧かないんだよ……ほら、現実味のない構図に対してはさ」炎のかけらが出る素振りもない。どだい人体から物質を出現させることなど不可能だ。
ふん、何が魔法だ? 何が英者だ? ちっとも俺には理解できない。ジェードは分かりやすく、ふてくされて見せた。
「しょうがないなあ、落ち着いて、炎を身近に感じて……それなら、何か別のもので表現してみよっか」そっとファルナがジェードに近づく。春風に、そのサンゴ色の髪がフワリと揺れる。彼女は彼の左手を優しく取り、手の平の柔らかい部分を太陽へ向ける。
「別のものってどういうこと?」ジェードの素朴な疑問に対し、ファルナが答える。
「直接的な火だと、どこかで怖さや違和感が邪魔をして連想できないんだと思うの。コツは、想像したものを直接大気中に表現する力。創造力を物理運動に転換して伝える力。成功する直前のイメージを無理やりたとえるなら、そうね……くしゃみが出る直前が近いかな」
「はいっ? くしゃみが出る直前って……どういうこと?」
「くしゃみが出そうなときって、一瞬頭の中が無になるでしょ。そのくしゃみを成功させるためだけに集中する、みたいな。でも、途中でなんかの邪魔が入っちゃうと失敗して、いつまでもムズムズしちゃう」
「確かに途中で止まると、ちょっと気持ち悪いかな」
「うまくくしゃみの意識を肉体に伝えてコントロールできると、あの爆発的なエネルギーを生み出すことができる。魔法もそれと同じ。火のような何かが出かかって、きちんと動力に伝えてあげれば、それを具現化できる」
「つまり、あのむずがゆい感触がそれに近いってわけか」
「厳密にはその部分は人それぞれなの。私の場合、火には暖炉の暖かくてほっこりしたイメージがあるから、結構簡単に結び付けられるんだけどね。ピョコンと出す感じ」ファルナは舌をピョコンと出した。
「俺の場合は、何だろうな……まずはそれを突き止めなきゃいけないんだな。火に近い感情ってことか。それをくしゃみの直前のように、意識下で制御しながら素早く具現化する」
「うん! そんな感じで……」
出た! 確かに火が。だがそれはジェードの手の中からではなく、ファルナの白く柔らかな手の平からだった。かわいらしい炎に、ちょっと触れてみようかなとジェードが手を伸ばした瞬間……。
ボゥオッ! 肉料理のフランベを三本まとめたような火柱が、ジェードを襲う。
「うぉい! あちちっ!」一瞬、火だるまなった自分を想像しながら、地面にへたりこんでしまう。それを見て笑いをこらえるファルナ――ちょっとしたいたずらか。悪ふざけをせき払いでごまかすとともに、ジェードに手を差し伸べる。ちきしょう。
「ね? やればできるでしょ。慣れてくるとこーんな大きな火も扱えるんだから」両手で大きな火を表現した彼女は、さっきの悪ふざけを帳消しにするほどかわいかった。魔法の達人とはいえ、まだあどけない少女なのだ……だから意地悪なんだ、ジェードはそう解釈して自分をなだめた。
理屈が分かって身構えてみても、一向に火のことわりが姿を見せる気配はない。目をつぶり黙想する。春の風がほほをくすぐって実に心地いい。そして鼻先も……。っておい、お前さん! 目をつぶったのをいいことに、ポニーテールを前に回してジェードの鼻先をくすぐる彼女に、そうツッコミを入れた。どう考えても再度のいたずらを楽しんだファルナは、そのちゃめっけを隠すように、ジェードの鼻先に指を突き立てた。
「ちなみに、私が一番得意なのは雷系の魔法よ。あれはイラッとする感情が近いわね」
「六元素魔法の、上級に位置する雷ですか……はは」火よりも難易度が高い魔法について語られて、ジェードは目が泳いだ。
この世界の魔法は六つの元素に分類され、その威力や難易度もまちまちだ。大きくは「風、水、火、雷、闇、光」の六系統に分類される。闇と光の二系統については、最上位魔法であり、一般的な魔法使いでは習得できないと言われている。また、使う機会もおよそないだろう。
「風、水、火、雷」の四系統については、その名が示す通りその元素を扱う。その恐るべき破壊力について雷が知れ渡っているが、実際には序列をつけにくい。いずれにしても、それぞれの魔法をきわめし者の威力については、城に所蔵される巻物に多く知られている。
――風の大魔導は、大気の精霊を従え万物へその圧倒的な力を誇示するであろう。幾重にも渦を巻く巨大な竜巻を起こし、家や城までを吹き上げてたたき潰すことができる。真空の刃は生けとし生きるものの首を、れいりに刈り取ることを成す。
――水の呪破皇は、海の魔物すら恐れるほどだ。海面を真っ二つに割る能力を操り、幾千年前の沈没船ですら引き上げることができる。罪深いものを深海に沈め、永遠の沈黙を与えることも可能とする。
――火の魔武功は、地獄の業火のごとく全てを焼き尽くす。たけり狂うように上がる火柱は幾万年も消えることなく燃え続け、その後には髪の毛一本残すことすらない。
――雷の天法輪は、空を割り世界に鉄ついを下す力を持つ。ゆめゆめその雷神を敬うことを忘れてはならない。身の毛のよだつ幾億匹の魔物も、その一撃にひれ伏すこととなる。
闇と光の魔法については、その中身はほとんど知られていない。
――闇の覇魔王は、全てを闇霧と化し死の道へと誘う。絶望と奈落の世界の所業は、決して現世に開かれることはない。しかるに門外不出の魔として、語り継ぐことすら不可能とされる。
――光の英者は、一条の光を持って、全てを一瞬で切り裂くであろう。何人も痛みを感じず昇華する瞬間は、悪鬼であってもその刹那、この世の楽園を体現できると聞く。
どれもジェードに縁はないのかもしれない。それでも一人の少年として、このフレーズにときめかないと言えばウソになった。
長男のプリストンは、風の魔法を得意としていた。もっとも彼の場合は「風、水、火、雷」の四系統全てにおいて最高レベルの腕前だ。三男のラックはまだ水しか扱えないとジェードは聞いているが、その実力は相当なものらしい。ジェードより四つも年下なのにだ。才能だけで言えば、プリストンのそれを超えているとか何とか。景気のいいことで。
弟が水を得意としている関係からか、ファルナはそれより少し難易度が高い火属性の魔法をジェードに勧めた。確かにこれを先にきわめてしまえば、ジェードの顔も立つ。彼女には本当に頭が下がる。
ただ、何回彼女がつぶらな瞳をパチクリさせても、ジェードの手の平からは一向に赤い物質は影も形も見せなかった。ちょっと休憩、と言いかけた直後……。火が出ない代わりに、長男が中庭に顔をのぞかせた。
「いよっ! ジェード、やってるな。ファルナちゃん、おはよう、今日もいい天気だね」二人同時に話かけるという器用な離れ業を、服飾雑誌の表紙でも飾りそうな笑顔を振りまきながらやってのける。一陣の爽やかな春風が通り抜けたようだ――さすがは風使い。
「おはようございます、プリストンさん。あっ、アリーザさんもおはようございます」ファルナが構えを解き、深々とお辞儀をする。ポニーテールがその勢いで目の前に垂れ下がるほどだ。その理由をジェードは知っている。通常のごく一般的な女子であれば、プリストンの登場によって舞い上がった上の所作だ。しかし、それはないことを知っていた。
そうではなく、ファルナにとって憧れの存在は兄の横にいるアリーザの方だ。長男付きの侍女が、単純に次男付きより格上であるからとか、年齢が上だからということではない。その立ち居振る舞いや魔法技術、ひいては侍女としてのスキル全般が、ファルナにとっての憧れであり理想形だった。前にアリーザのすばらしさについて、熱を帯びてジェードに語ったことがある。
確かにあの衆目を引くプリストンの横に立っていながら、視線を横取りできる美しい顔立ちとスタイルは反則に近い。グレー髪のプリストンに対し、コントラストのあるバイオレットのロングストレート。つややかで薄い唇にすらりと通った鼻筋。そこにやや不釣り合いなたれ目が加わって、中年衛兵たちの心をくすぐる。若い彫刻家が欲望の赴くままに造形したような肉感的なくびれも有している。そして、そのスタイルが強調されたドレス風のコスチュームは、品のある自然なエロスを醸し出していた。また、そのハニーフェイスに隠した戦闘の腕前は、相当なものであると聞いた。
眼鏡をかけたスポーツ万能の色男。包容力全開のセクシーお姉さん。そんな二人に見つめられたまま、お稽古ですか。ジェードは悪態をついた。あれ、何か気持ち悪くなってきた。応答してくれ俺の体……こいつは緊急事態だ。そそくさと切り上げる言い訳を探すさなか、ファルナが助け舟を出した。
「今、火魔法の練習中なんです! 何かいい方法があれば教えてくださーい」エクスディア城の中二階に造園されたこの中庭は、意外と広い。ファルナは子供が公園で円盤遊具を取ってもらうときのように、大声を出した。
なるほど、会話で休憩の流れを作ってくれているのか、さすが侍女検定特級。あるじの心情の変化を読み取り、ストレスを与えないこと――こんな感じで要綱が作られているのだろう。
「感心、感心。ジェードもようやく魔法に取り組もうという気になったか。絶対お前はセンスがあるんだから、本気でやればチョチョイのチョイだ。ときにアリーザ、何かコツはあるんだっけ? 俺は気づいたら自然にできてた口だから、どうも教えるのは要領を得ないんだ、ハッハッハ」
ハッハッハ、は声に出して言うな。爽やか過ぎる兄に対する、心のツッコミ。
「そうね、お料理と一緒かしら。お芋さんをむくときの感じと、じっくりコトコト具材を煮込むところ。そして何より、あめ色の玉ねぎを根気よくいためるときのあの感じ」
ううむ、愛情がポイントって言いたいのか――絶対この二人、本気で教える気ないだろ。
魔法を言葉で教えることは難しい。魔法への信心深さもさることながら、感情の高ぶりが最初の魔法のきっかけになるともよく言われる。言い換えると、感情の高ぶりを教えるのは難しいということだ。それがくしゃみであれ、何であれ。さあて、ここからはファルナがうまく流れを変えてくれるだろう。二人が見てるんじゃ、彼女もやりづらいことこの上ないはずだ。何せ、生徒の俺がマッチ一本ほどの炎も出せやしないんだから。
「じゃあ、続き始めよっか、ジェード! おおい、準備できてるかーい」
……おい、助け舟の流れじゃなかったのか。俺が出せなければ、お前も恥ずかしい思いをするんだぞ。
そのとき、予期せぬ乱入者が現れた。
「あっ、みんな何やってるの? いいな、何か楽しそう。僕も入れて入れて」
「本当だニャ、ミュウも混ぜてほしいのだ」
何やら急に騒がしくなった。三男のラック・エクスディアと侍女のミュウ・ランプリングのお出ましだ。二人はいつもこんな調子で現れる。ジェードと四つも違うため、多少の子供っぽさが残る。というより、実際に子供だ。
侍女のミュウの頭には、ふざけた形のカチューシャが乗せられていた。朝食の席では遠目で分からなかったが、さっき見えた猫耳はお前か、ミュウ。しかも侍女のくせになぜか普通のメイド服を着ていて、何とも紛らわしい。
その洋服をどういう意図で着用しているのか問い詰めたくもなったが、単に気に入ったからだろうな、きっと。確かに子猫のような丸い小顔にフリル付きのエプロン姿はうってつけで、憎らしいほど似合っている。語尾のニャについては……ジェードは聞かなかったことにした。
「ラックくーん、ミュウちゃーん。やっほー」こんなときでもファルナは陽気に手を振る。ジェードは胃がキリキリして仕方がない。
一人が二人、三人が四人と増え、いやがおうにも緊張が高まる。しかしそういうことは、ギャラリーの彼らには伝わらない。プリストンに至っては、三千人を前にしたスピーチを平気でやってのける豪胆振りだ。もしも、三男のラックだけならここまで緊張はしなかった。こう見えてジェードを陰ながら持ち上げる、読書好きのかわいい少年なのだ。
そしてひとごとの極地とも言える、無責任な声援の束が乱れ飛ぶ。
「頑張れ、ジェード。火の精霊を感じるんだ! お前ならできる!」
「何事も心の持ちようが大切ですわ。肩の力を抜いて、そうおいしいものを思い浮かべて……」
「お、お兄。何をやるのかな、すごい楽しみ、ヒャウ! かっこいいあの構え!」
「ラックたん、うんうん、何かすごそうだよね。うがぁーって感じになりそうだニャ」
既に心のロウソクが消えかかっているジェードに、ファルナから駄目押しの声が届けられた。
「魔法がそこにあると信じるのよ! そうすれば……」
「そうすれば、こーんなことも! できるようになるんだぞ、ジェード」
ファルナへ声を返したのはジェードではなく、兄の方だった。
「テンペ=スプリンクル(春風のいたずら)!」
詠唱とともに豪快なつむじ風を身にまといながら、天高く上がっていく。
「キャア!」突風の巻き上げでそれぞれ女性陣の着衣――ファルナのパレオ、アリーザのロングスカート、ミュウのミニスカートが盛大にサービスされた。
風使いのプリストン――その名に違わぬ風さばきで、三十メートルほど浮かび制止して見せる。そして二回転ほどクルクルと回った。見ている方が酔いそうな動きだ。
「ハッハッハ! 練習さえすればこんな楽しいことにも使えるんだぞ。どうだ! やってみたくなっただろう」
ラックは、ジェードと同じクリ色の目をランランと輝かせている。どこからどう見ても好奇盛んな少年のそれだ。それに引き換えジェードは戦意を喪失した。あそこまですごい魔法を見せつけられて、どうすりゃいいんだ?
ラックが得意の水魔法「ウォル=シュートス(流れる水鉄砲)」で上空の兄にちょっかいを出す。その見事な水鉄砲の軌跡が日光に乱反射し、虹が浮かび上がる。
チェッ! 兄弟そろって見せつけやがる。こうなったらやけっぱちだ。両手を前方に身構え、左の手首を右手でその後ろからつかむ。いかにもその開いた左手から、光か何かが飛び出しそうな勢いだ。
集中、集中。俺はできる。大気を集め、それを肉体に宿して一点から放出する。
いけ、行け、イケ! ふっと力が抜ける。感情が高ぶってきた! これがくしゃみの前兆の感覚か!
スゥッ! 血の気が引いてくる……いいぞ、この無心の境地。大気と精霊を感じる――。
――そしてそのまま意識を失った。