第19章 エージャーの正体
闇の世界にしては随分と明るいところだな。もしここが地獄だったとしたら、意外と寂しい思いをしなくて済む――ジェードはそんなことを思った。
それでも次第に明るさに目が慣れていき、そこがエクスディア城の医務室であることが分かると、過程はどうあれ、体の痛みや渦巻く感情よりも、ほっとする気持ちが優先された。
しかしベッドの横に立つファルナの姿を見たとき、身構えずにはいられなかった。黒い影の正体であり、俺を殺そうとした人物。
どうして? どうしてなんだファルナ? 理由を聞かせてくれ。
「目を覚ましたか? ジェード・エクスディア」
トーンや音階――声そのものはファルナだったが、口調は今までに聞いたことのないものだった。少なくとも、ジェードの知るファルナではなかった。
「――お前は、一体誰なんだ?」
「ふむ、やはりそう来たか。ちょうど何から話せば都合がよいか、思案に暮れていたところだ。その体には少々刺激が強いかも知れんが、落ち着いて聞くがよい」
ファルナの姿をした人物は、ジェードの包帯まみれの姿に目を移し、一呼吸置いた。そして続けた。
「わしは、守護天使だ。国によっては守護霊と呼ぶところもある。ただの人間とは違う。平たく言えば、ヌシらエクスディア王家を守る役目をしている。さかのぼること、ざっと数百年はやっておるかの」
「えっ? 守護天使って……守り神みたいなもの? じゃあ、敵じゃないのか?」半信半疑で聞く。
「そうだ、まずは安心せい。そうだな……最近ではお前の母親、サラ・エクスディアの守護天使を務めていた。それから、お前の父親のバリアン・エクスディアの手伝いを少々な。と言っても、バリアンの決戦でちと手助けしただけじゃが」
「おやじの手助けね。って、ちょっと待ってくれ。聞きたいことは山ほどあるんだが、順番に整理させてくれないか。まず、あんた……いや、守護天使らしいけど……そのあんたは、どうしてファルナそっくりなんだ? まさか、本人じゃないんだろ?」
「ほう、ヌシにはそう見えるのか。何、簡単な話さ。我ら守護天使は神の一種だからな、実体を持たないんじゃ。信仰と一緒で、常に心に思い描いている人物の姿に見える。ほう、そうか。そなたにはあの侍女に見えるか。何せヌシにどう見えてるか、こちらには……さっぱりだからな」
「へ、へえ。そういう仕組みなんだ」本物のファルナが、ここにいないことに少しほっとした。ファルナが常に心にいるなんて知られたら、さすがに気恥ずかしい。
「そ、そうだ! 肝腎のファルナはどうした。あんたじゃなくて本物の!」
「心配しなくていい。あやつも無事じゃ。エージャーのチャムとやらもだ。ただ、大分衝撃を受けたのも事実だから、今は休んでおる。それでも、軽い脳震とうで済みおった。丈夫なだけでなく、強運にも恵まれておるようじゃ。特に目立った外傷もないから、安心せい。右腕に銃弾を受けた傷があったが、あれとて傷跡ひとつ残さず直してくれるじゃろう。ここの医療は大陸でも最高水準じゃ」
守護天使がそう言い終えると同時に、ジェードは医務室の周りを確認した。人は誰もいなかった。恐らくこの守護天使が、何らかの人払いの魔法をかけているのだろう。
そして守護天使は、瓦れきの山の上からジェードたちを連れて、エクスディア城まで運んだことを伝えた。どうやら風魔法も堪能らしい。
「俺を刺したヤツは、誰だったんだ? まさか守護天使のあんたじゃないだろうな」
「ああ、あれか。あのバグドラゴの末えい……トムソンとか言うヤツのヤリだ。あの自動追尾型の魔法ヤリがまだ残っていたのじゃ。最後の一本が後ろから襲った。正に執念だな。わしはその間に立ちはだかる格好で、その衝撃を和らげた。闇の魔法だから、まともに食らったらおだぶつじゃ。わしの光の防御魔法『アルテ=ブレイク(聖なる法壁)』で、それを緩和したわけだ」守護天使は、ファルナの顔で言う。
悪意のないつぶらな瞳を見ると、なぜか無性に腹が立った。きっと一瞬でもファルナを疑った自分に、腹が立つのだろう。決まりが悪いので話をそらした。
「でもさ、守護天使なら何でそのことを教えてくれなかったんだよ。兄貴が襲われた日に、俺の前に現れた。あの医務室で見た黒い影は、あんただったんだろ」
守護天使は口ごもった。
「そもそも守護している者に正体や、守護していることについては教えないのじゃ。これは、我々の共通の定めだ。守られてると知ったら、必ずむちゃするだろうからな。それと……他にも重要な理由がある。これは、後で話そう。ただ、今回のヌシの場合は、わしの姿をあからさまに見られたからな。こうやって説明するのは、不可抗力――つまり、仕方なくだ」
「そうなんだ。さっき我々って言ったけど、他に何人もいるのかい?」
「それはそうじゃ、わし以外にもこの世界に何人かおる。つまり、守護されている者が何人かおるということだ。もちろん、いない者の方が多いがな」
「そっか、じゃあ俺は意外と運がいい方なんだ。感謝しなきゃな」
「そういうことだ。更に言うと、守護天使とて万能じゃないし、完全にヌシたちを守ることはできない。例えば今ここで魔法を出そうとしても、ほれ、この通り。なぜか出せんのじゃ」
守護天使は、手を閉じたり開いたりして見せた。
「不思議なことに、守るべき者、すなわちヌシらが極限状況に置かれたときのみ、我々の能力が解除される。それでも……全てを救えるわけじゃない」
「ああ、分かってるよ。兄貴のときも助けようとしたんだろう。それで、俺の周りにエクスディア家の守護者として姿を現した」
「そうじゃ、すまぬ。わしの力不足だ。プリストンを守るつもりが力が及ばなかった。既に全身を闇の魔法にむしばまれておった。仮にエージャーを召喚しても、守り切れんかっただろう」
「しょうがないよ、それは。それと……病気の人間を助けるのも無理なんだろ?」
「そういうことだ。お前の母のサラ・エクスディアを引き合いに出すまでもなくな」
二人は自然と押し黙った。
「さっきも言ってたけど、おやじのことも守ってたんだよな?」
「ああ、たまにな。まあ、ヤツは生粋のエクスディア家の人間ではなく、婿養子だからな。守ってやるかどうかも、気分次第だ」
守護天使の冗談に、ジェードは笑った。バリアンの決戦を制してサラと結ばれ、一介の騎士から国王になったことはまだ国民の記憶に新しい。
「んんっ! もしかしてトムソンへの最後の攻撃は、あんたの仕業か?」
「うむ、わしの光魔法『アルテ=エクストリム』じゃ。ヌシのおやじさんのときも、わしがそれで助けた。守護天使の役目じゃからのう」守護天使は、サラリと言う。
「何だ、そういうことか。俺もおかしいと思ってたんだよな。ハハッ」ジェードは力なく肩を落とした。
「いや、あの功績はヌシの力だ、安心せい。わしの光魔法は飽くまでも手助けしただけに過ぎぬ。剣技にせよ闘志にせよ、ヌシ自身のものだ。というより、エージャーが引き出した本来の力と言ってよい。少し話が複雑になるが、どうする? まだ続きを聞くか?」守護天使は、ジェードの体を心配して言った。
「ああ、続けてくれ。ここまで聞いて、寝込むわけにはいかないからな。おっと、その前に、あんたのこと呼びにくいから……テンって呼んでいいかい。守護天使のテン」
「構わぬ、好きに呼ぶがいい」テンはファルナの姿で言った。
「さて、ジェード。ヌシはエージャーについてどこまで知っておる?」
「どこまでって、エージャーメダルを放り投げてキャッチすると、強力な味方が召喚できるってことぐらいか。チャムのこと見ただろ。あの妖精の子さ」
「ふむ、間違ってはおらんが、それだけでは足りぬ。エージャーは生き物の姿のときもあれば、物質の場合もある。あのファルナと空中戦を演じた、タンクルビーというヤツを覚えておるか?」
「ああ、空を飛び回ってた女戦士だろ。多分ファルナの、学生時代の教官だ」
「そう、そやつの両手に握られていた二丁の短銃も間違いなく、代理で戦闘を行う――つまりエージャーだ」
「あれもそうだったのか」
「エージャーとは、戦闘代理者(Agent)が転じてエージャー(Ager)と呼ばれる。そこは聞き及んでおるな」
「まあ、何となく」
「エージャーは、いろいろな形で召喚者の手助けをする。特に昨今の進化したエージャーは、様々な能力を召喚者にもたらす。しかし、その起源をさかのぼると――つまり世界最初のオリジンエージャーは、もっと奥深い能力を持っていた」
「ど、どんな?」ジェードは、少年得意の好奇心を抑えきれなかった。
「召喚者の潜在能力を最大限に引き出す力だ。そして、そのオリジンエージャーは……身に覚えがあるだろう。そこの剣のツバにはまってる黒いメダルだ」
ジェードはベッドの横の机に置かれた、長尺のエージャーソードに目をやった。ツバに、黒いエージャーメダルがはまっていた。
「ヌシがその剣を空中でキャッチしたとき、エージャーが召喚されて効果が発揮された。だからこそ、ヌシ自身の力だったと言える。トムソンと勝利したことについてはな」
「オリジンエージャーの力。それは、自分自身の力を引き出す。つまり、俺自身の力ってことか」ジェードは自分の両手を眺めた。あのとき全身にみなぎった力と高揚感は、とても言い表せないものだった。
「エージャーは強力だ。強力過ぎるほどだ。進化した一形態の妖精を見ても分かるだろう、その強さが。だからときとして、強過ぎる者は『エージャー使い』と非難される時代もあった。戦いにおいては最強だからの。そして面白いもので、言葉は広まっていくと同時に、別の意味へと転化していく」テンは少し顔をほころばせた。
「最強の者、すなわちエージャー。やがてエージャ、エイジャと略され、最終的には英者となった。エクスディアは英者の都と呼ばれておるじゃろ」
「英者! 英者の語源はエージャーだったのか!」
「ヌシの場合はさしずめ、己の力を引き出したわけだから……英者はヌシ自身ということになるな。のう、英者の次男坊」
その言葉に、胸を貫かれた。ジェードとファルナの間で取り決めたルールについて、テンが理解を示してくれていたことが、とてもうれしかった。そう、プリストンを永遠の長男として忘れないことを。
「そうじゃ。そろそろ、わしがかけた時空結界を解いて侍女の顔でも見に行くか? 一応付け加えておくと、わしの姿はヌシにしか見えないからな。守護される対象者にしか見ることはできないのじゃ」
「そうなんだ、俺だけか。それじゃあ注意しないと、独り言の変なヤツになっちゃうな。それとさ、どうにかならないかな? ファルナが二人もいたんじゃ、こっちが混乱しそうでさ」
ジェードの言葉に、テンは首をかしげた。
「ほう、面白いことを申すな。まあ、希望があるならやってみよう。代わりに別の誰かの姿を強く思い浮かべてみるがいい。そいつの姿に変わって見せようぞ。どうじゃ? クラウスのラーゼか? それともリザのシルヴァか?」
「……テン。どこまで俺の情報を知ってるんだ。参ったな」
誰を思い浮かべるにせよ、現存する人物だと面倒なことになりそうだった。かと言って、母親を思い浮かべるとなると……さすがに、ねえ。
そこで、ジェードに妙案がひらめいた。全身打撲の体を少しずらして、腰にいつも下げている革のナイフシースを探した。これは小物入れも兼ねていて、いつも重宝している。机の上のエージャーソードの横にあるのを見つけた。
「テン、その中に古い似顔絵が入ってないかな」あごでしゃくった。テンはジェードやファルナを、ここまで連れてきてくれた張本人だ。他人に姿は見えないとはいえ、ものは動かせるに違いない。
「これのことかの?」テンは一枚の似顔絵を取り出した。
フミラさんの若きサーカス時代の、配布用肖像画だ。ジェードが押し付けられたもので、小物入れに入ったままだった。その姿を網膜に焼き付けるように凝視し、残像を定着させる。
「ふむ、なるほど。悪くない」守護天使のテンが言うや否や、その見た目が変わった。
姿を変えたテンは、挑発的な瞳と金色の長い巻き髪。さらに、世の女性が歯ぎしりするほどの肉感的なスタイルを備えていた。ファルナやラーゼ、シルヴァとは根本的な年齢が違うので比較しようもないが(十は年上に見えた)。
「ジェードよ。せっかく、姿を変えたのはいいが、ひとつ重大な話があるのを忘れておった。最初に言いかけた、なぜ守護天使の正体を明かさなかったかについてだ」
「ああ、そのことか」ジェードは、テンの美しい容姿に気もそぞろだった。もう少し刺激が弱い人にしておけばよかった、と後悔した。
「簡単に言うと、わしら守護天使がヌシら生身の人間に近づくと、死期を早めてしまうのだ。だから、ヌシに会うのもこれが最後じゃ」
ジェードの緩んでいた表情が、一気に引き締まった。
「それは、母さんのときを言っているのか? 死期が早まるとか何とか」
「サラ・エクスディアの場合も、多少の影響はあったかもしれない。ただ、彼女は自分の命が限られていることを悟った後に、わしをそばに呼んだのじゃ。そして、わしに幾つかの相談をした。エクスディア国のこと、バリアンがたまに息子を怒鳴りつけてしまう気性のこと。長男にかかる重圧や三男の将来について。そして一番多かったのが――」
「――俺のことか」ジェードは、複雑な感情がこみ上げた。
「バカな子ほどかわいいとはよく言ったもんだ。ヌシの将来を案じながらも、最後にはヌシのことを信じておった。わしはサラの命を気遣いながら、よき話し相手になったつもりだ。国政で多忙をきわめた、バリアンの姿になってな」
その光景を思い浮かべ、ジェードはほほ笑んだ。きっと、幸せな時間を過ごしたに違いない。
「わしが近くにいることで、どのぐらい命に影響があったかは分からん。あるいは、全くなかったのかも知れん。ただ、わしの本能にその教えが深く刻み込まれておる。わしが神に造られたときに、そう教わったのだろう。本来は遠くから見守るのが基本で、ヌシの母が例外だったのじゃ。それゆえ、ヌシともそう会うことはないだろう。どうしても、という危機にのみ駆けつけようぞ。よいか、絶体絶命のときにしか現れないから、そのつもりでな。存在すら忘れるぐらいでちょうどいい」
「ああ、分かった。今回助けてもらっただけで十分だ。ありがとうよ。テン、またな」ジェードは笑顔で見送った。
テンがふっと消えた後、フミラの似顔絵を出した小物入れがポンと床に落ちた。中からキラリと何かが光った。それは兄貴から受け取った、形見のペンダントだった。円形をしていて、改めて見るとエージャーメダルに見えた。ジェードはトムソンとの決戦で思い至らなかったことを、少し後悔した。兄貴のエージャーだったら、さぞかし強力だったろうに――少し甘えた次男坊特有の気持ちは、そう簡単に直りそうになかった。しかし、エージャーメダルと決めつけたジェードの思わくとは裏腹に、中には手紙が入ってるだけだった。
何だよ、と拍子抜けしながらも、久しぶりの兄貴との対面に心が躍った。そこにはそのままの、大好きだった兄貴がいた。
「親愛なる弟へ
いよう、ジェード。元気か?
この手紙を見てるってことは……俺に何かあったわけだから、特別元気なわけはないか。すまん、すまん。何だい、そんなしょげた顔をするなよ。大丈夫、お前ならやれるさ。俺の誇らしい弟であり、愛すべき次男坊なんだからさ。
さて、幾つかお前に打ち明け話をして、そしてお別れをしなければならない。きっとこの手紙を読む頃には、俺はいないだろうから。
俺が言うのも何だが、王の家系っていうのは心底嫌なもんだな。うん、お前ぐらいの頃には、毎日そう思ってた。何が嫌かって、そりゃあ自由がないところだよ。好きな仕事を選べなければ、結婚相手も選べやしない。
俺、本当は絵描きになりたかったんだぜ。練習もろくにできないから、おやじとペンギン、お袋とフクロウの区別もつかないような腕前だったけどさ。えっ、それぐらいは幾ら何でも書き分けろって? 手厳しいな、おい。
それと、お前も分かってるとは思うけど、王子と侍女はくっついちゃ駄目っていうあの決まりな。ああ、くだらない。アリーザと俺がどれだけうまく、やってることか。ちっとも納得がいかない。
そっか……もういなくなっちまうのか、俺は。これを読み終えたら、アリーザにもよろしく言っておいてほしい。彼女がいて本当に助かった、楽しい人生だったって。お前が口にするのはきっと照れくさいと思って、彼女向けの手紙も別に用意してある。
……さては今、ほっとしたな。彼女のお気に入りの鏡に隠してある、そう言えば分かるはずだ。おっと、その中身はまだお前には刺激が強過ぎるだろうから、決して見るんじゃないぞ。
話がそれてしまったな、すまん。まあ、王子としての英才教育は案外嫌いじゃなかったけどな。でも、どんだけ懸命に学んでも、民衆の期待や国を背負うってことがどうもピンと来なかったんだ。分かるか? 俺は俺自身のために生きたかったんだ。
でも俺は演じた。優等生の息子を。賢明で自信に満ちあふれて、人当たりもよく、それでいて謙虚で……。はあ、一体俺は幾つの足かせをはめればいいんだ? そんなことを毎日考えた。体中に幾つもの期待をぶら下げて身動きができなくなったとき、ついに俺は爆発した。
俺はお前が思うほど、天才じゃなければ強くもない。ただの人間さ。もっと言えば小心者なんだ――だからこそ勉強した。それでも怖くなってろくに寝られない日が、何日も続いた。
そんな感じで行き詰まったある日、本当に死にたくなった。そしたら、あることを思い出したんだ。母さんが永眠したあの日のことさ。お前は周りを気にせず、大声で号泣してただろ。あの姿を思い出したんだ。羨ましいな、ジェードみたいに思い切り泣けたらいいなって。
それで、ああ、俺も泣いていいんだって。泣きたいときには大声で叫んでいいんだって、気づいたんだ。俺はそれまで、声を押し殺して自分の感情を抑え付けていた。それが王子としての正しい振る舞いだと思っていたし、周りや国民を動揺させちゃいけない――そう信じてたんだな。だけど結局そのことが、俺を長い間苦しめた。
偽りの仮面を付けることは構わないが、それが皮膚までべったり貼り付いてしまったんだ、ある意味において。それにようやく気づいた後はアリーザの胸を借りて、大いに泣いた。恥ずかしながら、それ以外のときでもしょっちゅう、何かあれば彼女の胸を借りた。いや、変な意味じゃなくてさ。
で、俺は吹っ切れた。お前のよき兄でいられた。うん、これで十分だ。これだけお前に話ができればもう十分なんだ。俺は王子として生まれ、その宿命を背負って精一杯生きた。後は頼む。
そして、たまにでいいから俺のことを思い出してくれ。そうだな、天気のいい日にシーツかなんかを洗濯してるところに行って、その匂いを体全部で嗅いだときにでも思い出してくれたらいい。簡単だろ?
そのシーツが風ですうっとそよいだときに、昔なかなかの風使いがいたって、笑ってくれればいい。俺とお前の存在が、人生の上で確かに交差したあかしだ。
できれば最後にもう一度、お前と釣りに行きたかったよ。俺の足にかぶりついたヤツを、一緒に釣り上げてやりたかったな。
さあて、そろそろお別れだ。最後に俺らしいことでも言って、筆を置こう。
俺の形見が強えエージャーメダルじゃなくて残念だったな、ジェード。
じゃあな!
プリストン・エクスディア』
ジェードの涙は文面に流れ落ち、インクの染みを作った。
プリストンは、いつ命を落としてもいいように覚悟を決めて生活していた。そして、もしものときを考えて手紙をしたためていた。
「ジェード……」
声の方を振り返った。そこにはファルナがいた。服はきれいに替えられていたが、表情はやつれていた。きっと一晩中、自分のことよりジェードの心配をしていたに違いない。
「よかった……無事だったのね。私、あそこからの記憶がなくて」
ジェードは素早く涙を拭って、ファルナを見つめた。
「おっ、そのポニーテールを見るのも久しぶりだな」
「そう? 久しぶりって……戦ってるときには髪を振り乱してたって言いたいのか・し・ら?」ファルナは弱々しい声で、ふだんのように装った。
「いや、そうじゃない。よく似合ってるって言いたいんだ」
「えっ」ファルナは思いがけないセリフに、思わずほほを赤らめた。
「ありがとな。終わった、うん。これで終わったんだよ。ファルナ。ありがとう」
ファルナはジェードの胸に飛び込んだ。
「あいてててっ」
「あっ、ごめん……」
そして、二人は見つめ合った。やがてファルナはそっとまぶたを閉じた。ジェードは何が何だか分からなかった。これって、もしかして……俺も目を閉じるべきなのか?
そのとき、ファルナがパッと目を開けた。
「あの戦いのときに見た、光の残像が目に焼き付いちゃってて。まだ、まぶしく感じちゃうのよね。でもあれって、光の魔法なのかな? まさか、ジェードが使ったってことはないよね?」
「はは、いや、どうだろう」
いやー、びっくりした。下手したら今までで一番びっくりしたかもしれない。俺もやっぱり小心者だな……なあ、兄貴。
「体の痛みも、そのまぶしさも生きてるあかしさ。全部受け入れなきゃな。兄貴の痛みはこんなもんじゃ……なかったって、笑われちゃうよ」
「ん? どういうこと?」ファルナは目をパチクリさせた。
ジェードはそれから守護天使が助けてくれたことを話したが、ファルナはどうもピンと来ないようだった。そしてテンもそれっきり、ジェードの前に姿を現さなかった。