第18章 失われし者
ジェードは何も言わず、自分の元へ帰ってきたファルナを抱きすくめた。覚悟は決まっている。最初からそのつもりだ。あいつは……兄のかたきは俺が討つ。
ジェードはそっとファルナを地面へ座らせた。そして、自分のシャツの袖をエージャーソードで素早く切り取り、ファルナの右腕に巻いた。これで一応は、止血できたように見える。ファルナのそばで、チャムが暖の炎をつけた。
「さあて、最終決戦といこうか」エージャーソードを腰から抜き、ヒュンとひと振りする。
トムソンは侍女のタンクルビーが敗北したことに、驚きを隠せないようだった。しかし、すぐにまた不気味な笑いを浮かべた。まるで全てが狂騒に支配されているように。
「貴様……、聞くところによると、魔法が使えないそうじゃないか。それで私に戦いを挑むというのか。バグドラゴの誇りを、どこまで傷つければ気が済むのだ。虫にも劣る下等民族風情が」トムソンは黒い左手を、天に振りかざした。
「ディグ=ヴァニッシュ(異次元への消失)!」
トムソンが放った魔法は、これまでに見たことがないものだった。ジェードもファルナも、そしてエージャーのチャムでさえも。
闇よりも更に黒い空間がぽっかりと現れたかと思うと、その円い空間から異形の者の手が突如として現れ、タンクルビーの体に襲いかかった。
「トムソン様、お許しください。私は、あなた様のおそばにいつまでも……」
タンクルビーの悲痛な叫びは、その手に踏みにじられた。異形の手は飛行艇よりも大きく、指は片手に十本あった。それぞれにヘルタイガーの牙のような爪が、長く生えていた。水泡のような膨れが手の表面に幾つもあり、不気味さを際立たせていた。
タンクルビーが引きずり込まれ、空間が完全に閉じ切る前に、ファルナは目をそむけた。
「何だ、今のは……」
「おや、闇の魔法は初めてのようだな? ならば、せいぜい恐怖におののくがいい!」
男は全身から死の香りを漂わせていた。「死ねぃ! ディグ=ミュズリム(沈黙の死霧)!」
トムソンの詠唱とともに、紫色の霧が辺りに立ち込める。屋上の風がどれほど強く吹きつけても、霧は少しも晴れる見込みがなかった。
「ジェード、この霧はまずい! ラーゼ王女が言ってた、死の霧よ!」
瞬間、ジェードの脳裏に過去の恐怖がオーバーラップした。小さい頃の湖での思い出や、森での鬼グモの死闘。魔獣魚に食いつかれそうになったこと。そしてプリストンを失った雷雨の光景が、ひび割れた画面となって展開される。
この霧は、心の中の恐怖や畏怖、おののきの類を増幅させる仕組みだった。そしてジェードは、なすすべもなく捕らわれてしまった。尻を地面にぺたんと着くと、立ち上がることもできなかった。ファルナは虫が全身をはいずり回る幻覚を見た。声を上げることもできない。
まずい! これは勇気が必要とか……そういう次元じゃない。霧が心に入り込み、全ての思考を恐怖で浸食する代物だ。ひたすら絶望が襲ってくる。これは人間があらがって、どうにかなるもんじゃない……。
「フハハハッ! どうだ、バリアン・エクスディアの息子よ! バグドラゴの恐ろしさを思い知ったか!」
トムソンの姿は霧に包まれて見えなかった。その霧の中に、聞き覚えのある声がふっと湧いて出た。
「ジェ、ジェンドとハンナ。お、おでに任せるんだな」
その声は! ジェードたちが声のする方に首を向けると、何とも不格好に大男が立っていた。その手には虹の水晶が握られている。
「イルファン!」ジェードとファルナ、そしてチャムが同時に言った。
満足げな表情を浮かべるイルファン。彼が掲げる虹の水晶に、死の霧がみるみる吸い込まれていった。やがて、清浄な空気を取り戻していく――。
「ええっ! 虹の水晶に、そんな力があったの……。イルファーン」ファルナが体を立ち上げ、手を振る。
「イルファン、来てくれるとは思わなかったぜ。それはそうと、ちょっと見ないうちに俺たちの名前を忘れちまったか?」せき込みながら、精一杯の冗談を言う。
「お、おでも飛んできたんだな。ジェードたちに会いたくなってさ。シルヴァにはおでの似たヤツを渡してきたんだ。賢いでしょ」
「ああ、天才だ。虹の水晶の謎を解くなんてな。あの詩の三番目か」
「う、うん。おで、昔に子守唄でも似たヤツを聞いた感じがしててな、これはきっと『怖いものを消し去る虹の石』のことだなって。バ、バグドラゴでも、子守唄ぐらいはあるんだど」
イルファンはすごい勢いで、ごしごしと自分の頭をかいた。チャムがイルファンを褒めるかのように、その肩にちょこんと止まった。
「これはこれは、とんだ御登場だな、バカ兄貴よう」霧が晴れた中から、トムソンが声を上げた。イルファンは声の主に体を向けた。
「ト、トムソン。この人たちは悪くないんだな。もう、争いはやめるんだな」イルファンは震えながら言った。よほどトムソンのことが怖いと見えた。
「何を言ってる! 忘れたかイルファン・バグドラゴ! こいつらは俺たちのおやじを殺して、国を滅ぼした悪党だぞ」
「そでは知ってる。ジェードはエクスディアの王子だ。おでも、そんなにバカじゃない。洞窟にこもった最初の五年間は、おでもずっと同じことを考えて……いろいろ調べたから。でも、今なら分かる! バグドラゴがやってきたことは、決していいことじゃなかった。みんなを幸せにすることじゃなかった。自分たちだけがよくて、自分たちに従わない者をみんな殺しちまう。それはよくないことだ」
「寝ぼけたことを言ってるな、バカ兄貴よう」うつろな目で言う。
「ジェードたちをお前に殺させるわけにはいかねんだ。おでもお前も、もうバグドラゴと同じ過ちを犯しちゃいけねえ!」
「生ぬるいことを言うなら、貴様も殺すまでだ」
「やでるものなら、やってみろ! まだ弟に負けるわけにはいかない!」
「風の魔法ごときで、俺を倒す気でいるのか、めでたいヤツだ。俺はこの機会を何十年も待ち続けた。国を屈服させる力が持てないのなら、少しずつその内部を食い破ってやろうとな」
「だから、駄目なんだよトムソン! おでは頑張って戦争の歴史を調べた。元々はバグドラゴによる侵略が原因だったって。それで、戦争に負けた。それだけだ。おでたちが、彼らに復しゅうしても今度は、彼らの子孫が復しゅうをすることになる。その繰り返しから抜け出さなくちゃならないんだ。おで、魔法の力を悪いことには使ってほしくねえんだ」
「そんなことか。そんなことはとうに知ってる! まだ分からないのか? この闇魔法の使いみちだ。これはな、世界を征服し服従させるための魔法だ。それを正しく行使しないでどうする? それがバグドラゴに課せられた宿命なんだよ」
額に蛇のような血管を浮き上がらせながら、トムソンは宣言した。
「駄目だ! おでがそんなことさせねえ」
「そうか、ならば先に死ね! ディグ=バグスロー(死虫の投てき)!」
トムソンの体の後ろに、幾千もの虫が現れた。一匹一匹は羽虫のようなものだろう。それらが重なり合うように形を形成し、やがて長いヤリの形になった。それが無数の点となって、矛先をイルファンに向ける。
「こ、これは無理……逃げて、イルファン!」唯一の弱点と言っていい、苦手な虫の大群を前に、ファルナは顔色を失った。
「ファルナ、おで大丈夫だ。結構、虫は得意なんだな。テンペ=トルネイド(暴風の竜巻)!」
イルファンは風の竜巻魔法を詠唱した。ブワッと二つの竜巻が、心優しき大男の両手からほとばしる。ファルナは目を細めて言った。
「うまい……水ではなく、風のところがいい。水だとそれぞれの虫が水分で余計に絡みついて、ヤリがかえって硬質化しちゃう。でも風なら……そうはいかない。バラバラにして、こっちの防御をしながらも、竜巻攻撃につなげているんだわ」
ファルナの読み通り、イルファンが巻き起こした竜巻は、トムソンを直撃した。荷引き用の馬にはねられたように、トムソンが勢いよく後方にはじけ飛ぶ。
「いよっし!」ジェードは思わず拳に力を込めた。
じりじりと塔の端にトムソンは追いやられていく。とてつもなく大きな扇風に押し込まれ、足はたたらを踏んで宙を泳ぐ。トムソンの細身の体が塔の終端に差しかかると、イルファンは魔法の力を弱めた。
「トムソン、降参するなら今だ。今ならまだやり直せる。二人できれいな石を売るっていうのはどうだ? 一緒に店を持つことだって、できるぞ。そこにいるジェードが教えてくれた。どうだ、いいだろう?」
イルファンは風の威力を加減し、大声で問いかける。しかし、トムソンの体はイルファンの視界からスッと消えた。塔の端から落ちてしまったのだ。
「あああああ、トムソン! 落ちちゃった、落ちちゃった!」イルファンはその鈍重な体で塔の端まで全力で走った。下をのぞき込むと、そこには黒い海がうっすらと見えるだけだった。
ジェードも近くまで駆け寄ったが、下をのぞき込むまでの位置には行かなかった。ジェードが立ち止まって目を凝らすと、上空に黒い塊が見えた。
「イルファン! 上だっ!」
イルファンが反応するよりも先に、上空から無数のヤリが降り注いだ。ちょうどチャムのつらら魔法のような陣形だった――とがった武器が相手を見据えるという点において。しかしそれはチャムのよりもはるかに凶悪で、死に満ちあふれていた。
スローモーションでときが流れた。漆黒のヤリがイルファンの体を貫くとき、ジェードもファルナもチャムも、一歩も動けなかった。はかない声が鳴り響いたのは、イルファンの全身が何本ものヤリで串刺しにされた後だった。
「イヤアアアッ! イルファン!」ファルナは叫んだ。
イルファンはジェードたちと同じ真紅の血を流し、そして倒れた。トムソンは上空からゆっくり舞い降りると、満足げな表情を浮かべながら口を開いた。
「何でこの俺様が、風の魔法を使えないと思ったんだ? 忘れたか? 俺に風魔法を教えたのは貴様だろうが、えっ? イルファンよぅ! 俺はこんな使えねえ、弱っちい魔法なんざ別に覚えたくもなかったけどな。まあ、思いがけずこんなところで役に立ったか」
ジェードは仁王立ちで、トムソンをにらみつけた。トムソンはジェードを無視してイルファンを一べつすると、吐き捨てるように言った。
「心底、バカなヤツだ。こんな低能で忘れやすいヤツなのに、よく俺のことを覚えていたもんだ。三歩歩けば、何もかも忘れちまう、薄らバカのくせに」
「忘れるわけないでしょ!」ファルナはさっきまでは動けなかった体を奮い立たせ、イルファンの元へ駆け寄った。
「イルファンが洞窟で、何て自分のこと名乗ってたか知ってるの! 私も最初はファントムなんて名前、見過ごしてたけど。それって、イルファンとトムソンをくっつけたって……そういうことでしょ! 子供がよくやるように。いつか、あんたと一緒に何かをしようと思ってた! そんな彼が、忘れるわけないのよ……」
ファルナは串刺しのまま棒立ちになったイルファンの巨体に近づき、無骨な手を握った。もう、その大きな手には、握り返す力は残っていなかった。それでもイルファンは、大きな体を小さく震わせながら答えた。
「ファルナ、ありがとう。でもいいんだ。さっき、間違って弟を殺しちまったかと思って、そっちの方がずっと怖かったんだ。だから……これでよかった。名前のことも、ばれたちゃってたか。かっこよかったか? ほんと、ファルナはおでと違って頭がいいな」
「あなたの行動は、とっても、かっこよかったわよ、ファントムさん」ファルナは、今にもあふれそうな涙をこらえ、右目でウインクした。
チャムがそっと、イルファンの肩に降り立った。
「チャムたん。ありがとうな。おで、何かチャムたんのこと好きになっちゃってたよ。かわいいものが好きみたいなんだな。でも、ごめんよ……。もう追いかけっこは、できそうもねえ」
漆黒のヤリがシューシューと音を立て、イルファンの貫通した腹部を溶かし始めていた。闇の魔法には、こうした浸食作用が伴う。ファルナたちに浄化するすべはない。ジェードはトムソンを注意深くにらみながら、イルファンに近寄った。片手にエージャーソードを構えたまま、イルファンのもう一方の手を握った。悲しき大男が、最後の言葉を投げかける。
「ジェード……、おで、シルヴァにお願いしてきたんだ。ヘルタイガーの子供が生まれたら、おでにくれないかって。洞窟で寂しいから、一緒に暮らそうと思ってさ。でも、それもかないそうにねえ。代わりにもらって、かわいがってくれないか……頼ん……だ」
「イルファン!」ジェード、ファルナ、チャム、それぞれが言った。
イルファン・バグドラゴは息絶えた。ファルナが大粒の涙を流すと、チャムも彼の巨体の上で四枚の羽を震わせた。ジェードは決然とした表情を見せ、涙は見せなかった。
「トムソンとか言ったな! 俺はイルファンと違って甘くないぞ。覚悟しろ」
「ほう、ちょうどこっちも茶番はたくさんだと思ってたところだ。さあ、決着をつけようじゃないか! ディグ=ヴァニッシュ!」
消失魔法が詠唱され、異次元空間にイルファンが吸い込まれていった。ファルナとチャムは身を翻してかわした。
「許せねえ。俺にも兄貴がいた……お前は理解できない」
ジェードは構えた。闇の霧はすっかり晴れている。ファルナがイルファンから受け取った虹の水晶がある限り、あの霧が再び立ち込めることはないだろう。
ジェードは心の底から怒りを感じた。そして今回だけは、その感情を抑えようとしなかった。
「ウォオオオオ!」感情に任せるままに手を突き出した。すると今まで一度も出たことのない炎が、ジェードの周囲に出現した。
「何だっ!? この燃えるような感情は……これが、ファルナの言ってた魔法の発現か!」ジェードは怒りの感情に身を委ねた。
辺り一面に火柱が上がる。これほどまでの業炎はファルナも見たことがなかった。しかし、トムソンがパンと両手を合わせると、瞬時に立ち消えた。魔法の腕はやはり向こうの方が何枚も上手だった。
「へえ、それならそれで構わないさ。俺もまさか魔法で勝とうなんて、甘いことは考えてないんでね」
ジェードは腰の剣に手を伸ばした――エージャーソードだ。
「ウオッリャアアアッ!」トムソンへ向かって突進し、ソードを真一文字に振り切った。剣先が触れたら、どんな生き物でも真っ二つになる勢いだ。
「ほう、妙な剣を持ってるな。そして、なかなかの腕前。だが、その程度では私にかすり傷すらつけられん!」
「俺は魔法は苦手だが、剣は別に苦手じゃない。これだけは兄貴に引けを取らないぐらいだ。お前の辞書には、そこまで載ってなかったか? よく思い出すんだな、俺のおやじのバリアンも、魔法が苦手だったんだぜ」ジェードは不敵な笑みを浮かべた。
トムソンの詠唱で、空間に異次元の輪が出現する。そこに引きずり込まれたら一巻の終わりだ。ジェードはスピードスを駆使して、その攻撃を次々とかわしていく。
「ジェード! 後ろ!」ファルナが叫ぶ。
トムソンはイルファンを殺した漆黒のヤリを、ジェードの後ろに追走させていた。ジェードは高速で疾走しながら、後方を確認する。
自動で追尾するヤリの攻撃、そして行く先々で異空間がぽっかりと口を開けて待ち構える。波状攻撃がジェードを圧倒し、攻撃のすきを与えなかった。そのうち幾つかの攻撃が被弾し、ジェードの息も切れてきた。
ジェードは敵の攻撃をかわしては、高速移動の勢いを利用してすきの少ない右拳を繰り出す。全身で飛び込んでいき、流れるように左の拳へスイッチ、そして蹴りも繰り出す。しかしトムソンは、顔面攻撃を首の動きだけでクイとかわし、腹部への攻撃はあざ笑うかのように、片手で受け止めて見せた。
ズザアァァッ! ジェードの体が地面を転げ、瓦れきの山に激突する。つうっ。骨の一本や二本はいかれたか。口の中はとっくに何度も切れていて、鉄の味がした。痛い。動くたびに体のそれぞれ違う箇所が、何度も悲鳴を上げた。体がよろめき、水平に保つこともままならない。
しかし、ここで諦めるわけにはいかない。何としても、だ。俺はエクスディアの次男坊だ。諦めるな、まだやれる――走るだけなら、何とかなる。
ジェードは直進し、両手で握ったエージャーソードを横にも縦にも振りかざした。しかし、トムソンのまとった黒い布きれに、スルリと身をかわされてしまう。全ての攻撃が紙一重でかわされた。これほど屈辱的なことはなかった。圧倒的な力の差がなければ、こうはいかない。
どのぐらいの時間がたったのだろうか。これほどまでに差がつくとは。ファルナとチャムはぼう然と立ち尽くし、言葉はなかった。そしてまた、タンクルビー戦で死力を尽くした二人にも、ここまで邪悪な闇の男を打ち倒せるはずがなかった。
時間の概念は既に意味を失っていた。やむことのない暴風雨のような攻撃を、小さな傘で耐え忍ぶだけの状況。闇に黒、そしてまた黒が舞う。小柄な少年はただ逃げまどい、攻撃の機会すら次第に奪われていった。
やがて体力が削り取られ、ついに捕まった。
攻撃手段に対する攻撃――右手に構えたエージャーソードが、トムソンのヤリで宙にはじき飛ばされた。エージャーソードはクルクルと回転しながら宙を舞った。ジェードは残り少ない体力も顧みずに飛び上がると、パシッとソードをつかんだ。
そのとき、異変が起きた。ジェードは着地と同時に、月の高さまで届くほどに飛び上がった。既にそれは、人間の動きではなかった。
トムソンの波状攻撃を全てかわし、ジェードは立ち止まった。月明かりがその姿を照らした。魔獣――それとも獣人か。しかし、プリストンの身に起こった魔獣化では決してなかった。ジェードは人間の姿のまま、月に向かってほえた。目は赤く、血の色に染め上げられていた。
ジェードはニヤリと笑った。ファルナはその表情を見た瞬間、自分の目を疑った。まるで別人の表情だった。
「ほう、面白い。そんな能力を隠し持っていたのか。うわさに聞く、最初の……オリジンエージャーの能力。潜在能力の目覚め、といったところか」
「何あれ……あんなのジェードじゃない!」
たけり狂う雄たけび。全身から闘争本能が噴き出すような、筋肉の躍動。それを誇示するようにジェードの口元は緩み、狂気の渦中にいた。
「こい、七面倒くさい戦いはごめんだ。真っ向から切りつけてこい」
トムソンは、クイと手招きした。自分の前に「ディグ=ヴァニッシュ」による空間を召喚する。そこからは異次元の鬼のような手が伸び出し、哀れな訪問者を待ち受けている。
「駄目っ! ジェード!」
ジェードはまるで暴走する魔鏡列車のように、その空間へ突進した。
「愚か者め! 闇魔法は、そんな剣ごときじゃ打ち破れんのだ。闇を倒したければ、光を持ってこい、光を」トムソンが高らかに笑う。
ジェードはおもむろに、異空間とその後ろにいる男へ剣を走らせた。
「だから、効かんと言っている。単純な物理攻撃で、闇魔法が打ち破れるはずは、ない……ま……さ、か……」
「そうか? お前、きれいに切れてないか? 悪いな、加減できなかったよ。イルファンがお前に手加減したようにはな」ジェードはいつもの口ぶりで言った。
エージャーソードから伸びた一条の光が、空気中にいつまでも残っている。その光をつかむことすら、できそうだった。鏡が切断されて斜めにずれるように、ずるりとトムソンの体が分断された。黒い異空間も大きく裁断された。
「こんな……バカな。貴様ごときがなぜ、光魔法を使える。『アルテ=エクストリム(極光の斬撃)』……我が皇帝をほふったのと同じ魔法を」
「よく分からねえけど……決まったみたいだな」ジェードは呼吸を整えながら言う。
「ジェード……すごい……」
「お父様、すごいですぅ」
「もっと続けたいところだが、全ての力を使い切っちまったもんでね。もう指一本動かす力も残ってねえや」
すると、ジェードに裂かれて広がった異空間のはざ間から、異形の手の主がぬうっと姿を現した。ざっと身の丈……城の高さほどあった。プリストン魔獣と比べようもないほどの、超巨大魔獣だった。
背中には黒い羽を生やし、雄ヤギのような角が頭部と、不気味な二本の足から左右に伸びていた。皮膚はまだらで、赤の極彩色をしていた。人はこれを古くから悪魔と呼び習わしてきた。
「何……あれ……」
「おかしいチャム、チャムゥ……」
「――こいつは参ったな。さすがにお手上げだよ。どうすりゃいいんだ」
ズシーン! 異形の悪魔が足を踏みならすと、屋上の床の一部が下へ抜けた。
「キャアアアァァー!」ファルナが崩落した床と一緒に、下の階へ転げ落ちた。
「ファルナッ! ちきしょう!」
抜け落ちた空間をのぞき込み、ファルナの姿を探す。下は光を失っていて、まるで奈落の底そのものだった。
エージャーソードは、刀身に光を宿したまま地面に置かれていた。そのまばゆい光を目にすると、悪魔は慌てて顔を覆った。まるで、人間のような仕草だった。
悪魔は両手で、トムソン・バグドラゴの分断された上半身と下半身をそっと拾い上げると、感慨深そうにしげしげと眺めていた。その両手の中でトムソンの体はくっついたように見えた。そして、再び動いているようにも。
「何てこった……。またふりだしに戻っちまったか」
しかし、悪魔はジェードに向かってゆっくりと首を振った。そして、トムソンを両手に持ったまま、異次元空間へ姿を消した。
マジかよ……。助かった。エージャーソードのおかげか? それとも……。
ジェードは、消え去った悪魔はバグドラゴ皇帝だと直感した。息子の暴走を見かねて、闇の世界から止めに入ったのか。それとも、異空間で再生させようとでも言うのか。仮にそんなことができるなら、異空間へ落ちたイルファンを優先的にお願いしたいものだ。闇の皇帝にまだ、父子愛というものが残されているのであれば。
それもそうだが――、ファルナ! ファルナが心配だ。チャムもいない。下のフロアへたたき落とされたのだ。
屋上へ来たときと同じ階段で、下のフロアに素早く駆け降りる。こんなときに動けないでどうする? 戦よりも重要なことだ。自分の大切な人を守るということは。
「ファルナ!」暗闇に声を放り投げる。返事はなかった。
崩落した床の瓦れきで、ほこりが大量に舞い上がっている。この瓦れきに押し潰されていたら、ひとたまりもない。
「ファルナーッ!」返事がなかろうが、ありったけの力で叫ぶ。返事がないことと、彼女が失われてしまっていることは、決して同義ではない。
暗闇に目が慣れてきた。その代わりに、辛うじてまだ光を放っていたエージャーソードから、その明かりが少しずつ消えていった。戦闘の燃えかすとも言える憎悪や熱は、まだそこかしこに、はびこっていた。
ふと、何か重要な思い違いをしている感覚に捕らわれた。何だ、この違和感は。兄貴をやった犯人、バグドラゴの末えいは葬ったはずだ。そう、城で見た黒い影であり、常につきまとっていた正体。あいつがそうだった……はずだ。だが、確信はない。あいつに問いかけたわけでは、ないからだ。あの長身の執事がそうだった? 黒い感覚は確かにあったが、何か大切なことを見落としていないか? その刹那……
グサリッ。
背中に何かがめりこんだ。鋭利な凶器。冷たく、確固たる意志を持った突き立て方。殺意と言って差し支えなかった。背中に電流が走る。呼吸をするのも苦しく、このまま自分の存在がはじけ、消えてなくなると思った。これが、死ぬということなのか。その……感覚なのか。
ふとまぶたに浮かんだのは、ファルナの笑顔だった。彼女を助けなくてはならない。あるいは、彼女は既に後ろのヤツに、やられてしまったのか。そうだ、そうに違いない。瓦れきの下敷きになるなんて、彼女らしくないだろう。ひらりと身をかわしていたはずだ。
すまない、ファルナ。最後の最後で気を抜いてしまった。何とも俺らしいだろう? でも、決して後悔はしていない。恥ずかしい戦いはしなかったつもりだ。ただひとつ心残りなのは、お前を救えなかったことと……。
ジェードは背中に手を回し、薄れいく意識の中で背後にいる人物をしっかりとつかんだ。そして背中に刺さっている凶器から引き抜くように体を反転させ、ゆっくりとあお向けに倒れながら、そいつの顔を見た。
エージャーソードが燃え尽きる寸前のロウソクのように、ふっと光を放った。
そこに照らし出された顔は――、ファルナだった。