第17章 絶望の空中戦
扉の奥には、月明かりが差し込んでいた。すっかり日は落ちている。一条の光が照らす先に水たまりがあった。もしかしたら、プリストンが襲撃された日に降った豪雨の残りかもしれない。その水たまりから、斜め上方にすうっと階段が伸びていた。どうやら屋上へ通じているようだ。ジェードとファルナは階段を上った。不思議と恐怖はなかった。
屋上は予想以上に広かった。遠くにリザ宮殿の明かりが見える。コケが生えた床一面に、大破した飛行艇が散在していた。これはジェードたちの仕業だ。しかし思いの外、その惨状は気にならなかった。より二人の興味を引くものが、そのよどんだ場所にあったからだ。
大きな石碑が建てられていた。ゆっくりと近づき、刻まれた文字を読む。
「インゼクト皇帝、ここに眠る」バグドラゴのくさび文字で、そう記されていた。
月明かりを受けながら一人の男が降りてきた。ゆっくり、ゆっくりと。すぐには誰かは分からなかった。黒い――ただひたすらに黒い人間の塊。やや細身で長身の男。
ようやくジェードの頭の中で、一人の人物と一致した。
それは、水の神殿クラウスで見た執事の男だった。
「よく来たな、ジェード王子。まんまとエクスディア城から誘い出されたことに、自分で気づいているかな?」
心の闇まで見透かすような、よく通る声だった。クラウス城で見た、ラーゼに対する礼節を重んじていた態度はみじんも感じられない。
「あんた、確かトムソンって言ったな。こんなところで何をしてるんだい? まさか満月をさかなに夕涼みしてる、ってわけじゃないだろう」
「ほう、私の名前を覚えていたのか、それは光栄だな。では名乗らせてもらおうか。私の名は、トムソン……バグドラゴ」
空気が凍りついた。そのスペルを聞くだけで。
「なるほどね。で、ラーゼは知っているのか? お前がバグドラゴの末えいだってことを」
男の正体より、それを知ったときのラーゼを気遣った。あのあまのじゃくな彼女と曲がりなりにも、うまくやっているように見えたからだ。彼女が失望する姿は見たくない。ジェードの質問にトムソンは拍子抜けしたように驚き、全身をぐにゃりとさせると気味が悪いほど笑い転げた。
「クハハッ! 何だってこんないいときに、あの小娘を思い出させる? 私はこの日を二十年も待ち焦がれてきたんだぞ。貴様が生まれる前から、貴様たちに復しゅうするこの日を」羅針盤の針が大きく揺れ動くかのように、トムソンの声は大きく震えた。
「復しゅう? それじゃあ、お前が兄貴を殺したのか。で、次は俺の番ってわけか」ジェードはトムソンとは反対に、一定のトーンでしゃべった。そうしないと、心の平静を保つことができないからだ。戦闘においては、いっときの激情が不利に働く。
「そうだ! あれは実に楽しかった。クラウスに貴様の兄が訪れた瞬間。正に歓迎の食事を用意するときだ。私は死の儀式に酔いしれた。最高さ、バグドラゴのかたきがのん気に懐に飛び込んでくるなんてな。私は復しゅうの機会をうかがい数年を費やし、クラウスの特別な執事に上り詰めた! 遅行性の闇魔法を仕込むチャンスが、十分に与えられる立場にな。残念ながら、貴様は引っかからなかったがね。まあ、いい。あれは、魔法の達人である貴様の兄だから取った手段だ。念には念を入れてな。お前からは骨のきしむ音を、こちらのデザートとして聞かせてもらおうか! それでこその復しゅう劇だ」
「あの強力な闇魔法の謎はそれだったのね! 食事に、魔法を混入させる……そんな卑きょうな手でプリストンさんを手にかけた! 絶対に許さない」ファルナが怒りをにじませる。
「この塔の有様を見ると、エクスディアに真っ向から戦争を仕掛けるほどには、力を蓄えていないんだろ? だからこそ、中途半端な手を使わなければならなかった。そうだろ? バグドラゴの末えいさん」ジェードは鼻をフンと鳴らした。
「ほう、そこまでお見通しか」
「別に俺を襲いたければ、それは構わない。俺のおやじがお前のおやじ――すなわちバグドラゴ皇帝を殺した。つまりその復しゅうだな。いいさ、それならそれで。だが、それもここで終わらせよう」ジェードは前を見据え、少し笑って見せた。「俺は正式な王位継承者だ。ここで俺を打ち倒したら、エクスディアは好きにしていい」
「何だと!」トムソンは不意を突かれたのか、意外な反応を示した。
「ちょっと、大丈夫なの? そんな勝手なこと言って。負けちゃった、はい冗談でしたじゃ済まないわよ」
「それもそうだな……ちょっと待ってくれ」右手でトムソンを制する。
その言葉に、ファルナとチャムがうんうんと大きくうなずいた。
「どうした、臆したか。こちらはその条件を受けてやるぞ」
「いや、ちょっと付け足しさせてもらおうと思ってな。俺とファルナを打ち倒したら、だ!」
「あっきれた! でも気に入ったわ、その冗談」ファルナは笑った。
「ほう、その小娘も戦闘の心得ありか。よかろう! では、小娘の相手はこやつが承ろうぞ」
トムソンがそう言うと、大破した飛行艇の影から一人の女性がゆらりと姿を現した。まるで暗闇の影から、のそりと出てくる怪物のように。
ジェードはその女性に心当たりが全くなかった。しかし、ファルナはすぐに分かった。短髪で左目に眼帯をして――教官の制服はさすがに着用していなかった。向こうから先に口を開いた。
「ほう、エアハートか。少しは腕を上げたんだろうな! せっかくだ、楽しませてもらうぞ」
「ん? 知り合いなのか、ファルナ?」
「ええ、ちょっとね」
まさか侍女養成学校の鬼教官、タンクルビーもバグドラゴの残党だったとは。それならあのしごきの理由も納得できる。きっと闇の世界に毒されていたんだわ。
「どうした、エアハート? 顔色が悪いぞ、ん?」
「あちらさんにも侍女がいたとはね……」ファルナは両手を下げ、肩をすくめた。
「ん? どうした? トムソン様へ侍女がいることがおかしいのか? クラウス国の執事など結局、トムソン様の仮の姿。バグドラゴ帝国復活までの時間稼ぎだ。私がCМSで教官などという、世を忍ぶ仮の姿をしていたようにな!」
ファルナが身構えるより早く、タンクルビーは天高く舞い上がった。教官時代の切れは衰えていないどころか、恐ろしいほどに磨かれていた。自在に天を駆け巡る様は、神出鬼没の妖精のようで、立ったままの肉眼ではとても追いつけそうになかった。
それでも、その速度以上の風魔法を見たことがあるのがファルナの救いだった。それは風使いの異名を持つ、プリストンの魔法だ。
「テンペ=フルウィング!」ファルナも負けじと、高速空中移動の風魔法を詠唱する。屋上から天に舞い上がると恐怖が全身をわしづかみにした。
何て高さなの! 塔の高さ自体が、天にも突き刺さるほどの代物だ。それに加えて上空に浮かび上がるのだから、そこに広がる光景は常軌を逸している。幾ら首席卒業の彼女とはいえ、目がくらむほど高い場所は、ただひたすら怖かった。
「フハハハハハ!」タンクルビーは狂ったように笑い、弾丸のように突っ込んできた。それはもう人間ではなく、神話に登場するメデゥーサのようだった。
「教わってないわよ、対人での空中戦なんて、もう!」両手を胸の前で交差し、体を時計回りに回転させた。
――エクスディアの冬には、スケルリングというスポーツが楽しまれる。スケルリングには、氷の上でジャンプし、きれいに三回転したのちに着氷する動きがある。ちょうど、その動きをファルナは空中で実践した。
回転をトレースしながら、タンクルビーの突進を華麗にかわす。ジェードは地上から、その空中戦を見上げた。左に四十五度、そして右に六十度。自在に角度を変えて旋回しながら、タンクルビーの直線的な攻撃をかわしていく。しかしそれだけでは勝てないことは、地上にいるジェードの目にも明らかだった。
何か反撃の魔法をぶち当てなきゃ――ファルナは思った。得意の雷魔法で迎え撃つのがセオリーだが、厄介なのはあの速度だ。ピンポイントで当てるのは困難をきわめた。
ファルナは頭にひとつの魔法を思い描いていた。当時は習得できていない「ハルド=クロスライド」だ。雷撃を交差させるこの魔法は、距離は狭いが範囲攻撃を得意とする。つまり至近距離であれば当てずっぽうに放っても、目標物へ雷が追尾するのだ。これは偶然にも、同じ風使いのプリストン魔獣に放った魔法だった。
まだよ、まだ……ファルナはチャンスを待つ。気づかないうちに足元は漆黒の闇に覆い尽くされていた。つまり、地上の光が届かないほどの上空にきていることを示す。空気も薄くなってきた。息苦しい。
来た! 点のような塊が一瞬見えたかと思うと、すぐに視界から消えた。
何、今の? タンクルビーの両手に何か握られていた。確かに早かったが、ファルナの動体視力も文字通り、目を見張るものがある――あれは魔法銃だ。タンクルビーの両手に握られていた、品のない宝石があしらわれたその武器は、銃口から魔法を帯びた弾を出す凶悪なものだ。
シュン! 空気を切り裂く音が遅れて聞こえ、ファルナの右腕は弾丸で貫かれた! 血しぶきが闇に舞う。
通常の魔法であれば、ある程度の軌道予測は可能だ。弾丸のような速度で飛んでくるにせよ、その動きは水が低きに流れるように秩序があるからだ。実際にファルナは、タンクルビーの足元からにわかに巻き起こる風の動きを読み取って、そこからの軌道を予測していた。しかし、短銃という人工物から発射されるものについては、自然現象を手掛かりとした予測が立てられない。撃たれた右腕が、だらりと垂れ下がる。
まずい……出血で目がかすんできた。高度を上げなきゃ……このままだと、地面にたたきつけられちゃう。ファルナは必死の思いで、体勢を立て直した。
また来た! しかし、今度はすきを見せなかった。
「ハルド=クロスライド!」雷ていが降臨する。
しかし、雷はあらぬ方向へ落下した。タンクルビーではなく、より速い弾丸の方に反応してしまう。すなわち、弾丸に対して雷が着弾しているのだ。
「ウソ……あの攻撃が、避雷針になってるって言うの?」ファルナは絶句した。
一方タンクルビーは、そこまで計算してるのかどうかは不明だが、高らかに笑い声を上げた。
「エアハート、残念だったな。自慢の雷魔法がそれじゃ、勝負あったな。いつまでもかわし続けることはできない――往生しろ!」
そこからタンクルビーは喜々として、肉弾戦に突入した。鬼教官は両手に銃を持ったまま、昔の生徒へ拳撃を繰り出す。右拳、左肘、右膝、そして頭突きと上段への回し蹴り。
ファルナも格闘戦は得意中の得意だ。CMSでも格闘大会三連覇という、前人未到の記録を打ち立てた。しかし今は空中戦で、利き腕も使えない。肘や膝などの堅い部分でガードするのが精一杯だった。
ドスンンッ……。ついに、ファルナの腹部に一撃が入った。そして両手に持ったグリップで、頭部をたたきつけられた。ファルナは意識が途切れた。そして真っ逆さまに、地上へ向かって落下を始めた。
「フハハ、決まったか! どれ、死に顔を拝ませてみろ!」タンクルビーは落ちていくファルナを、ホーク型魔獣のように急降下して追った。
ファルナは薄れいく意識の中で、母親の顔を思い浮かべていた。
〈ごめん、ママ。私じゃ駄目だった。せっかく頑張って、努力して……侍女になれたっていうのに、私じゃ力不足だった。ごめんね、ジェード。全然歯が立たなかった……ほんとごめん〉
落ちていく重力の中で、胸ポケットからエージャーメダルがこぼれ、フワリと宙に浮いた。ファルナは半ば無意識に、それに手を伸ばした。捕まえた瞬間、まばゆいばかりの光を放ち桃色の妖精が召喚された。
「じゃじゃーん! チャムを忘れていまチャムかー。ファルナたんが空中でメダルをキャッチ、これが本当のエアキャッチです!」
能天気な声に、ファルナは笑った。そして、全身に力がみなぎるのを感じた。
涙が出るほどうれしかった。私は一人じゃない!
「ファルナたん、ここはチャムが、大技を仕掛けチャムます。びっくりしないでね!」
「オッケー! チャムに合わせるわ!」
「トゥララ=ブリザリオン(氷柱の組曲)!」
チャムの雪魔法に、天が反応した。吹雪と何千本というつららが上空から降り注ぎ、ファルナより上にいるタンクルビーの背中に突き刺さった。獣のような雄たけびを上げ、タンクルビーがきりもみしながら墜落する。
「テンペ=フルウィング!」ファルナは最後の力を振り絞り、力強く詠唱した。
これによりファルナは滝を登るように、上空へ逆流していく。昇り竜のような弧を描き、下から突き上げるように、ファルナの全身がタンクルビーと交錯する。そして、
「ハルド=コンシェレイト! もちろん、雷ていのクルミ付きね!」倍撃の雷神は、タンクルビーを見逃さなかった。
「グハァッ!」鬼教官は血へどを吐いた。そして、ファルナとすれ違うように落下し、屋上にごう音とともにたたきつけられた。
ファルナはチャムと一緒に着地し、タンクルビーを見た。鬼教官は血まみれの体をはいつくばらせながら、ファルナを見上げた。
「どうした……、私のことを殺して見せろ! これしきじゃ私は死なんぞ、早くとどめを刺せ!」
「ふう、残念ね。殺してやりたいのは山々だけど」
「だけど……どうした?」
「その方法はまだ教わってないわ、タンクルビー教官」ファルナはくるりと背を向けた。