第16章 失われた帝国バグドラゴ
エルフが繁栄を享受していたとき、その森は「楽園」と呼ばれた。バグドラゴが隆盛を誇ったときには「地獄の園」と呼ばれた。やがてバグドラゴはその一帯に拠点を築き、森の先住民であるエルフ族を完全に駆逐した。そして力を得ていき、必然的とも言える結論にたどり着いた。そう、他国への侵略を開始したのだ。
もしも、デイワールド大陸にある三国(エクスディア王国、クラウス王国、リザ教国)の内、初めにクラウスやリザに侵略を仕掛けていれば、歴史は違う運命を刻んだかもしれない。クラウスやリザを先に屈服させれば、もっと有利に戦況を展開できていたのだから。
エクスディアはその戦争で大きな痛手を負ったが、他国の支援のおかげで驚異的な回復を遂げた。被害が少なくて済んだ二国から、多大な感謝と援助を受けられたからだ。
バグドラゴが統治していたその森を北に抜け、ワールドシースに面した海岸沿いへ向かうと断崖がそびえ立つ。飛行艇の高度をうんと上げないと、切り立つ剣山に激突し、たちまち海面にたたきつけられるだろう。海の藻くずという表現がこれほど似合う情景もない。
「風が強い!」ファルナが叫ぶ。
耳をつんざくような暴風が吹き荒れ、これ以上高度を上げるのは難しい状況だった。それ以前に、飛行艇を水平に保つことすら難しかった。
「見えた! この下だ!」風にかき消されないように、ジェードも大声を出す。
自動操縦による降下は、幾度となく繰り返していた。眼下に見える、断崖の中央に座する灰色の塔は、何回かその姿を見せている。しかし風で飛行艇を強く流され、着陸はかなわなかった。
互いの声がかき消されるほどの暴風に、ついにファルナの声がかすれてきた。
「ここで船を降りましょ! ここからは私の風魔法でやってみる。飛行艇は大き過ぎて風であおられてしまうけど、私たちの体だったら逆に何とかなるかもしれない」
「分かった、お前を信じる! で、俺はどうすればいいんだ?」
「うーん、暴れなければそれでいいわ! 何なら、気絶してもかまわないけど」
「そいつは随分と簡単だな。つい最近も、どっかでした記憶があるぐらいだ。よし、準備はできたぞ!」
デッキの上に立つのもままならないほど、風が嵐となって吹き荒れた。雲の水滴すら、肌にたたきつけられる。
ファルナはジェードの太めの腰ベルトをしっかりとつかみ、力強く詠唱した。
「テンペ=フルウィング!」二人は両手を広げ、フワリと浮き上がった。
切り立った岩山の方が塔の高さよりもあるため、まずはそれをよけながら、中へ降りていかなければならない。風の声を聴き、風に委ねること――それが、風を操る極意だ。そう兄貴が言っていた。風使いと呼ばれる男の気持ちなど、そのときはみじんも分からなかったが、今なら少し分かる気がした。
ファルナが操るジェードの体は、風の流れに逆らうことなく綿毛のように舞った。バランスを崩したように感じても、決してそうではない。その自然に傾斜した角度を利用して、少しずつ風に飛び移っていくのだ。
塔の屋上が眼下に広がった。黒い染みがあちこちに残された、不気味な石造りだ。ふとファルナは天空を見上げ、飛行艇の底板を見た。その瞬間、不測の事態が二人を襲った。
上空に停泊していた飛行艇が、あろうことか風に巻かれて、こっちへ落下してくるではないか!
ヒュウウウー……「ウワアァァァァ!」
直撃したらひとたまりもない。しかし飛行艇の落下速度より、ファルナの風魔法による加速の方が勝った。そして、体を操る方角も正解だった。屋上をスルリと通り過ぎ、塔の中腹にせり出した出窓に転げ落ちたとき、飛行艇が屋上に墜落する音が聞こえた。
「つう、いってぇ。ファルナ! けがはないか?」ジェードは転げた体を立て直すと、すぐにファルナに駆け寄った。
「大丈夫。私の風魔法もまだ捨てたものじゃないわ。体を包んで衝撃を吸収できたし。やっぱり、風はいいわね」
「よかった。こんな曲芸みたいな動き方、どこで教わったんだ」ジェードが安どの声で聞く。
「CMSで、ね……」
侍女養成学校(CMS)の思い出を、ファルナは余り思い出したくないようだった。彼女が在籍したのは政府高官や名士、最終的には王室の侍女を目指すエースクラスであり、そこで求められる水準は、他のクラスをはるかに超えていた。
デイワールド全土からよりすぐられた四十名ほどのエースクラス候補生は、最初の一か月で半分になり、三か月でその半分。半年を過ぎたあたりではもう五名しか残っていなかった。
ファルナは今でも、あの風魔法の最終試験のことが忘れられない――。
「次! ファルナ・エアハート! ファルナ・エアハートはいないのか!」
「は、はい! ここです、ここにいます!」
セント・ゴレム山にしつらえられた闘技場で、ファルナは緊張の入り混じった声を上げた。短髪で左目に黒の眼帯をつけた鬼教官が、生徒をにらみつける。その手には、黒い革に砂を詰めた打撃武器を持っている。
鬼教官――タンクルビーという名は、決して本名ではない。タンクの由来は不明だが、眼帯をしていない方の目がルビーのように燃える赤色をしていることから、そうあだ名されていた。激情の赤の指導方針は、鮮烈そのものだった。
「ふん、エアハート家の人間か。平民出のお前が今や、エースクラスの首席とはな。まあいい、すぐに支度しろ!」
黒い打撃武器を、柱に打ち付ける。彫刻が施された歴史ある建造物が、その不用意な所作で大きく破損される。エースクラスでは軍隊のような主従関係が敷かれ、生徒に対する非人道的な扱いも日常茶飯事だった。だがファルナは、エアハート家の誇りにかけて何としても侍女になろうとしていた。――それも王室の侍女に。
母親のウィルナは先の大戦で幽閉され、バグドラゴという国の恐ろしさを肌で感じた。国同士の争いにおいては、個人は何と無力なことか。その思いが、娘のファルナに強く引き継がれ、王室の侍女になる夢を強く後押しした。しかし、目の前の高圧的な教官を見ると、その信念がもろくも崩れそうになる。
「飛べ! そして、あの魔獣を仕留めて見せろ!」
冷徹な表情でタンクルビー教官が言う。その先には、目をギラつかせた子犬型の魔獣が宙を舞っている。犬型が空を飛べるのではなく、タンクルビーが魔法で地上から操っている。
「風魔法による戦闘は既に教えたな! その実技試験だ、見事打ち倒して見せろ!」
「そんなの誰も教わってないわよ、全く。この手の嫌がらせはエースクラス名物ね」
ファルナは鬼教官に聞こえないように、つぶやいた。他の四人の女子生徒は、戦闘と聞いただけで震え上がっている。それもそのはず、子犬型と言えどその目はタンクルビーの生き写しのように赤く染まり、背中には触手のようなものまで生えている。魔獣の片りんは十分にあるのだ。
ファルナは上級魔法「テンペ=フルウィング」の簡易版「テンペ=ウィング(天使の浮遊)」をとなえた。これは空中の高速移動には適していないが、旋回するのには向いている入門魔法だ。ちょうど浮き輪をつけて水際に浮かぶようなものだ。CMSではこちらをメインで教えているが、ちっとも実戦向きではない。
ファルナは空中にたどたどしく浮いた。その標的目がけて、犬型魔獣が空を切り裂くように突進する。
ヒュン! はるかに想像を超える速度で、魔獣が飛びかかった。音速に近い。紺色の戦闘向け制服が、一発で切り裂かれた。防護用に頑丈なリル素材のガードヘルムを着用しているが、この分だと怪しいものだ。攻撃を食らえば、首から上が丸ごとなくなっても不思議ではない。
次の攻撃も大ぶりにかわさなかったら、危うく肉をえぐられるところだった。どうやら、ただの試験ではないらしい。ファルナの額から冷たい汗がこぼれ落ちた。
タイミングが全て。そう自分に言い聞かせる。「ハルド=コンシェレイト(集中する雷撃)」の詠唱。そして音速の塊が体にぶつかる瞬間、ピンポイントで胸元に雷を呼び寄せた。飛び込んでくる位置さえ分かれば、それを迎え撃つことは造作もないことだった。もちろん天才的な彼女にとっては、だが。子犬魔獣は空中で、雷神の裁きを受けた。
「貴様っ! その雷魔法は教えておらんぞ、どういうつもりだ!」タンクルビーが言葉の雷を落とす。
ファルナは地面に降り立ち、リル素材のガードヘルムを脱いだ。そしてサンゴ色の髪を風に流しながら、涼しげな顔で言った。「ええ、教わっていないわ。それが何か?」
「ふん、いいだろう。エアハートよ。ならば、その転げ落ちている魔獣にとどめをさせい!」
地面に横たわっている子犬魔獣は白めをむき、ひきつけを起こしている。ファルナは加減して撃ったので、致命傷には至っていないだろう。その証拠に、口から泡までは噴いていなかった。
「教官、それは殺せ、と理解してよろしいでしょうか?」
ファルナは子犬に歩み寄り、右手を振り上げる。他の四名の女子生徒は顔を覆い、悲鳴を上げた。教官は打撃武器を左手にぽんぽんと打ち付け、その惨劇を待ちわびている。しばしの沈黙が流れた。
「あら、残念。それも教わってなかったわ。殺す方法なんてね」くるりときびすを返し、ファルナは闘技場を後にした。
「貴様、何だその態度はっ! 一週間の独房送りだ、覚悟しておけ!」教官の怒声が歴史ある闘技場に響き渡った。
ファルナはそんなCMSでの記憶を振り切るかのように、すっくと立ち上がった。ジェードは手を差し伸べた。彼女の風魔法のおかげで、絶望の塔にようやく乗り込むことができた。
「よし、中へ進もう」ジェードはきっぱりと言った。
しかし二人は、塔内に入ってしばらくすると、ここへ来たことを後悔し始めていた。警備兵や魔獣が大勢いたからではない――その逆だ。余りにも気配がない。意気揚々と乗り込んできたはいいが、拍子抜けしたのだ。あらゆるところに、クモの巣が張り巡らされている始末だった。
さらには通行手段のら旋階段は海への吹きさらしで、壁の隙間から吹き上がる風が凍りつくほど冷たい。思った以上に着陸に手間取り、既に日は落ちかかっていた。もちろんこうした廃虚だからこそ、黒い影が潜んでいる可能性がある。ジェードには不思議と通じるものがあった――屋上に何かがあるはずだ、と。そう信じて二人は、黙々と最上階の屋上を目指して歩を進めた。しかし中腹ほどの高さへ来たときに、ファルナが口を開いた。
「ジェード。もしかして……ここ、違うんじゃないかなあ? ただの寂れた塔だったりして……」
「その可能性はあるかもな。だけど、せっかく危険な思いまでして乗り込んだんだ。エクスディアの警備を兼ねて、確認しておいて損はないだろう」
「それはそうね。でもここ、寒過ぎない? リザのあの熱帯気候が懐かしいわ」
確かにそうだった。幾ら突風が吹き荒れる海岸沿いとはいえ、デイワールド大陸の季節は春だ。異様なまでに冷たい風が吹きすさび、薄着のファルナは細身の体を震わせた。
「こんなときこそ、チャムの出番じゃないか?」ジェードが促した。
「そうね、チャムちゃん、よろしく!」そう言うとファルナはメダルを上空に放り投げた。風にあおられながらも、やはり一発で、エアリリースとエアキャッチを決める。
「どうもー。チャムでーす」緊張感のない声が飛び出す。
しかし、見渡す限り瓦れきの山の中にそのソプラノの声が響き渡ると、逆にその静寂が強調されて緊迫の度合いが増した。本当に誰もいないのか?
「フレア=リロージョン!」チャムはたいまつと暖の役割を兼ねた、小さめの炎を出現させた。辺りが暖色で彩られ、体温も上がる――少しずつ戦闘モードに入っていく。
ほこりと石灰岩の瓦れき。そして陰気な空気は、邪悪な姿を見せなくてもバグドラゴの闇をジェードたちに伝えていた。やがて、疑念を一掃する確固たる手掛かりが姿を現した。チャムが照らした支柱の上部に、バグドラゴ帝国を示すクモの紋章が傲然と掲げられていた。
「ここってもしかして……、バリアンの決戦の舞台だったのかしら。この塔の下には獄舎があった」
ファルナの母親がいっとき捕らわれていた場所、という部分については言及しなかった。
「バリアンの決戦か……おやじはそのことについて、詳しくは俺にも教えてくれないんだ。まあ、俺も深く聞きはしなかったんだけどな。基本、歴史は嫌いだからさ」
「ジェード、それを言うなら、厄介ごとに巻き込まれるのが嫌いなんでしょ。もう十分過ぎるほど、首を突っ込んでますけどね」
「ああ、悪いなファルナ、こんなに深く巻き込んじまって」
「いいの! 何てったって私はあなたの侍女なんですから。侍女は命がけで添い遂げなきゃ」
「添い遂げる?」
「えっ、えっと……ちょっと違った!? 付き添う? 寄り添う? あっ、もっと違うか……いいの、何でも!」
チャムの照らす魔法灯が肌を赤く染め上げるので、ファルナがどれほど赤くなったかについては、洞窟のときと同様にジェードにはよく分からなかった。ジェードは少しだけ笑い、そして続けた。
「以前の俺……多分兄貴を失う前だったら、間違いなくこんな厄介ごとからは逃げてただろうな。誰がやるか! 知らん、勝手にしろってね」
「そうかも、ふふ」
「でも変わった――この冒険で。ついでに、その理由も分かる気がする」
「どうして?」ゆっくりとした足取り。ジェードに足並みを合わせる形でファルナが尋ねた。
「誰かがやらなきゃ始まらないし、何も変わらない。その誰かの順番が俺に回ってきただけのことさ。他の誰でもない――この人生で俺がやらなきゃ、いけないことなんだ」
「偉いぞ、ジェード王子!」
「ですです、チャム」
「うおっ、チャム。そうか、いたのか……忘れてたよ」ビクッとなった胸をなで下ろす。忘れられていたチャムは、少しだけ膨れて見せた。
チャムの炎が二人を照らす。やがてそれは大きくなって、黒い人影の輪郭を現した。
三人目の影がそこにいた。チャムの大きさではなかった。
「影! 黒い影だ!」ジェードは叫んだ。
ファルナも瞬時に身構え、壁の反対を見た。何もそこにはいない。しかし、ジェードはその影をしかと見た。きっちり五秒間――黒い人影が映し出され、そして消えた。やはり人影だった。だが、なぜ逃げる? 絶好のチャンスじゃないか、どうして襲ってこない。
「ジェード、何か見えたの? どこ? 私には何も見えなかった、すぐに見たんだけど。どこにいたの、それは?」
それは奇妙な質問だった。影を見る時間は十分にあった。というより、この暗闇で他に何を見ると言うのだ。光と影しかないこの空間では、嫌でも目に飛び込んでくる。チャムが映し出した三人目の影。あれをファルナが見ていない? だとしたらあれは、ファルナ自身の影だったのか? いや、そんなはずはない、どうしても数が合わない。
「チャムには見えただろ? その角度からならバッチリ見えたはずだ」
「ごめんですぅ。チャムもファルナたんと一緒でよく分からなかったチャム」
思考の袋小路に突き当たった。だが数々の疑念が首をもたげる前に、別の本物の壁にぶち当たった。それは目の前に立ちふさがる、クモの紋章入りの大きな鉄の扉だった。
運命を隔てる壁として、静かに立ちふさがっている。いよいよか――。
「さあて、これを開けちまえば、謎は解けるか? さっきの影もこの奥にいるんじゃないか?」
「違うわジェード、きっと魔獣が百匹ほど奥で食卓を囲んでるのよ。ほら、お城の大聖堂ホールの扉にそっくりじゃない、この大きさといい」
「かもな、さあて鬼が出るか、蛇が出るか」内心では震え上がりそうだが、ここは勇気の見せどころだった。「準備はいいか?」
「もちろんよ、チャムは?」
「オ、オッケー、チャム」
「でもね、チャムはいざとなったら召喚するから、今は戻っててくれるかな? こういうのを切り札っていうんだよ」ファルナはお姉さん口調で言った。
「分かったチャムぅ」
ファルナはチャムをエージャーメダルへ戻した。
ジェードはそれを見届けると、力強く扉を押した。扉はうめくようなきしみ音を上げながら、ゆっくりと開かれた。その音は、失われし者の断末魔に聞こえた。