第10章 クラウス王国の王女
ジェードとファルナは、遠くから不自然な動きで流れてくる人影に目を凝らした。何人もの人たちが、二人の前を自動回廊で通り過ぎていったが、何回見ても滑稽に見える――立ったままの人間が自然と動いているのだから。
その少女の姿を見とめるなり、ジェードは大声を上げた。
「いよう、ラーゼ! 久しぶりだな」
右手を挙げて、合図を送る。ファルナは興味なさげに大人しくしている。ファルナが「あのクラウス」と言った「あの」の部分がラーゼなのだ。
「く、来るなら来るとあらかじめ知らせてほしいぞ、ジェード」ラーゼは遠目からジェードだということを確認すると、トムソンを小走りで抜き去り、息を弾ませながら言った。
顔は上気し、湯気でも出ているかのようだ。水の神殿と呼ばれるだけあって、水分をあちこちに含んでいるからなのか。
「何だお前、その格好。今起きたところか」
走ったせいでチュニックがすっかりはだけていた。ジェードに言われ、ラーゼは胸のところの大きなリボンの結び目を直した――ふだんは執事が行うところだが、自分で手早く済ませる。
「ひ、久しぶりだな。元気にしておったか。たまには顔を見せてくれないとな」
少しどもって聞こえた。あれ、こいつってこんな性格だったっけ? ジェードは記憶をたどった。
ガキの頃に砂遊びをしては城を崩された記憶がよみがえる。理由は分からないが、いつも俺にちょっかいや意地悪をしてくるヤツだった。優秀な兄貴やまだ幼い弟には見向きもせずに、まっしぐらに俺をいじりにくる。泣き虫な俺だったが、最後の方は体の成長も手伝って、やり返せるぐらいになった。
退屈な園遊会では、よく抜け出して遊んでたっけ。サイプレスの生け垣の下をくぐり抜けて(自分たちにとっては)見知らぬ場所を探検した。来賓者たちのスピーチが一通り終わる頃には見つかってしまい、ティータイムでは二人そろって舌を出して笑っていた。
幼なじみと言えば聞こえはいいが、頻繁に遊んでいたわけではなく、城の距離的にも年に二、三回会えばいい方だった。だからこそ記憶もあやふやで、昔は遠い親戚の一人ぐらいに思っていた。それが隣国の王女様だったとはねぇ。あまのじゃくな彼女に、きっと周囲は手を焼いていることだろう。まあ、人のことは言えないが。
国賓用の応接室に通されて、紅茶をすすった。うん、いい味だ……ってそんなに、のんびりするつもりはない。世間話も早々に、話を切り出そうと思った。そうした世間話がうまいのは兄貴だけだ――天候から今季の農作物の話、昨今の魔法技術の動向について。はたまた諸国間の政治力の均衡について、さりげなく展開するさまにはいつも舌を巻いていた。
「――実は、折り入って相談があるんだ」
「何じゃ、申してみろ。何なりと聞くぞ。ちょうど手頃な話し相手がいなくて、暇を持て余していたところじゃ」目をランタンのように輝かせつつ、ジェードをじっと見つめる。
ファルナとは異なり大きく光る瞳ではないが、その切れ長で優美なラインは、美人の条件を十分に満たしている。ツンととがったあごのライン以外はまだ幼い造形を残しているが、雲のように白い柔肌も将来を予兆させる。目を見張る美女という好条件は、その将来において民衆を魅了する武器に成り得るだろう。まあ、今のところは生意気なガキにしか見えないが。
「とりあえず、その執事の方にちょっと席を外してもらいたいんだが」ジェードは鼻をかきながら言う。この話題に関しては、人が少なければ少ないほど都合がいい。
「そうか、分かった。トムソン、ちと席を外してくれぬか。立ち入った話になるやも知れん。そうだ、そこの女子。お前さんもだ。確か侍女の……」
「ああ、ファルナだ。いいんだ、彼女はいてもらって」
「そういうわけには――」と、トムソンとラーゼが同時に言う。
言葉がぶつかり合ってよく分からなかったが、意図はジェードに伝わった。ラーゼは執事を取り成す。
「いやいや、トムソン。そなたはとにかく出てくれぬか。なあに、案ずることはない。こやつとは幼少の頃からのちぎりじゃ」
その物言いに、ファルナの両の目がすかさず反応する。まるで暗闇に躍る、猫の丸い瞳のように。
「王女、それを申されるのなら幼少のみぎり、ではございませんか。ちぎりですと、多分に意味を含むものでして」
言い間違いに気づくと、ラーゼはさっと耳まで赤らめた。せき払いをしながら、右手で人払いの仕草をする。ジェードはラーゼの言い間違いについて、全く動じていない。別に今に始まったことではないのだ。
「ですが、王女……」とトムソンは訴えたが、ラーゼ王女の気性も織り込まなくてはならない。五分だけですよ、と言い放つと席を立った。
トムソンは力を込めてドアを閉めたが、水流開閉式のドアは音もなく閉まった。王女はニヤリとすると、そのコロコロとした顔をジェードに近づけた。
「で? 何ぞな? その大事な相談とは」
「――実はな」
ジェードは簡潔に、プリストンのことは伏せた上で城の襲撃があったことを伝えた。そして、黒い人影や人を魔獣に変える魔法に心当たりがないか尋ねた。
ラーゼ王女はこう見えて、かなりの読書家だ。書物や巻物を愛していると言っていい。エクスディアを含めた近隣の三国(他に、砂漠のリザ教国がある)の中でも、最大の蔵書数を誇る王室図書館を保有していることも読書家の理由のひとつだ。
だからこそ、彼女の元を訪れた。そこら辺の占い魔女よりもよほど知にたけている。ラーゼはジェードの一言一句をかみしめると、髪で隠れたままの眉をひそめた。
「それにしても――」ラーゼは落胆を隠しきれないように、ぽつりとつぶやいた。まるで口の鍵を閉め忘れたかのように。
「ふう、かしこまってるものだから、てっきりきゅうこんの話かと思ったぞ……」
「ふぇ?」とファルナ。その反応にラーゼは、はっと我に返った。
「ああ、いやいや、最近ここいらで流行している、テュリップの球根じゃ。何でも高値で売れるとかで、買い占めてるやからも多いと聞いてな。確か家一軒の値段にも相当するとかで……。違うのならいいのだ、そうか違うか」
ラーゼはやけに多弁に映った。そしてひとしきり話を続けた。
「黒い影については、さっぱり分からん。わらわとて、その程度の情報では何も思い浮かばん。だが、人が魔獣に変化するのは分かるぞ――闇の魔法だ」
「闇、か」
「そうだ。風、水、火、雷のいわゆる四元素の魔法では、絶対にそんなことはできぬ。魔法理論の限界ということだ。あれらは、粗野で野蛮な物理魔法が大半じゃ。ものを壊すのには向いているが、どう頑張っても魔物に変えるなどの芸当はできまい。そこのファルナとか申す者も野蛮な魔法の手だれじゃろう、それくらいは分かるのではないか?」
「王女様、それはどういう意味かしら? ひょっとして侍女に対して一家言をお持ちなのかしら?」
ファルナが目尻を下げたまま、語気を強める。いわゆる、顔で笑いながら心に怒りを宿している状況だ。遠まわしの皮肉にジェードは無頓着の様子で、話の終着点に興味が向いている。
ラーゼは、ファルナを大きめの置物のように扱うと話を続けた。
「しかし、闇においてはその限りではない。いともたやすくその境界線を超えることができる。だがのう、少し気になることがある」
「何だ、言ってくれ」
「まあ待て、ジェードそうせくでない。……要は、その魔法が強大過ぎるのだ。昼間には人間だったものを、その夜に魔獣に変えるのは恐らく無理じゃ。賊が夜に忍び込んだとすれば、そんな短時間で発現できる魔法の威力は、自然と限られる。よく言う、カエル程度の小動物に変化させるのが関の山だ。それを、身の丈が倍以上もある魔獣に変化させただと……あり得ん。魔法理論的に不可能なのじゃ。闇魔法を使ったことは間違いないのだが、そのカラクリが解けんことには」
「だからって、黙って指をくわえて見ている気はないんでね」とジェードは言う。
「ほむ、少し変わったか? 前のお前は何と言うか、こういう厄介ごとは面倒くさがる性分と思ったが。わらわは、それをからかうのが特に好きだったんだが」
からかうというよりは、いたぶるという表現が的確だったような……幼い頃に泣かされた記憶がうっすらとよみがえる。
「いい目だ。そんなお前も嫌いではない。ときにお前たち、ここより北の森を抜けた場所に洞窟があるのを聞き及んでおるか」
ジェードとファルナは顔を見交わしたのち、ラーゼの方へ向き直りかぶりを振った。
「そうか、知らぬか。我々も最近、知ったのじゃ。よもやそんなところに洞窟があったなんて、今まで気がつかなかったのが不思議なくらいじゃ。もっとも、あそこは我が国の領土ではないからな……」あからさまに言葉尻を濁しつつ、話を続けた。
「それでな、肝腎なのはその洞窟に魔人と呼ばれる者が住み着いている、ということじゃ。民衆のガキどもに流れているうわさじゃが、我々が偵察に送った衛兵の者すらそのうわさを信じておる。情けないことに、その姿を見ただけで逃げ帰ってきたそうだが」
「へえ、どんなヤツだったんだい、ラーゼ。その魔人とやらは」
「知りたいか? いいだろう。その魔人の呼び名はファントム――すなわち亡霊じゃ。まあ、ガキどもが好んでつけそうな名前だ。ただ、悪ガキが度胸試しで行こうとしても、たやすくいきつける場所にはない。道中、魔獣がひしめく深い森にあるのじゃからな」
「なるほど、子供をしつけるために親が流布したうわさの類か。深い森で遊ぶことを禁ずるために。それでもまだ、信ぴょう性が残ってるってわけだ」
「そして……どうやら、ファントムは魔法を操るらしい。もしかしたら――」
「そこで、闇魔法か」と、ジェードが後を引き継いだ。
「話が早いな、そういうことだ。闇魔法を得意としていた、今は亡き、失われた帝国――バグドラゴを思い出さずにはおれん。あの名前を口に出すのは少々はばかられるがのう。そうじゃ、ときにお前の兄貴は元気か?」
心臓を直接、その幼い手に握られた気がした。
「あ、ああ。おかげさまでな。相変わらず能天気にやってるよ」
「そうか、それならよい。あやつはこちらの城へもたまに来るのだ。確か先週あたりに姿を見せて、礼儀正しく食べていきおったわ。うちの執事が腕によりをかけて、こしらえた料理をな。もちろん、本題は貿易と近隣国との領土問題についての話だったがな」
「そう、か……」と、ジェードは話を濁した。
「すごいですよね、男性で料理ができるなんて。さっきの執事の方ですよね?」言葉に詰まり始めたジェードを気使い、ファルナが強引に話題の矛先を変えようとした。
「何じゃ、お前はできぬのか?」と勝ち誇ったような目を向けた。実はラーゼは、料理が得意ではない。しかし、料理が大の得意であるファルナを不得意と決めつけて、話を続けた。
「まあよい。ジェードがもっと頻繁に立ち寄ってくれれば、ごちそうもできるのだが……。そこは何とかならぬか。その、例えば週に一回とか何とか」
上目使いでほほを赤らめてきたラーゼに対し、嫌な予感を感じ取ったファルナは立ち上がった。
「じゃあ、そろそろ……おいとましようかしら、ジェード。余りのんびりしてられないし」
「待て待て、まだよいではないか」明らかにラーゼは慌てていた。
すると絶妙のタイミングで、扉がノックされた。執事のトムソンが姿を見せる。
「お嬢様、お話はお済みでしょうか? もしよろしければ、デザートでもお召し上がりになりながら御歓談されては、いかがでしょうか」先ほどまでの邪険な態度とはうって変わって、トムソンが言う。
「ほう、それはよい考えじゃ。実に気が利くな、お前は」
「ありがとうございます。それでは、先日プリストン様へお召し上がりいただいたデザートと同じものを御用意いたしましょう。ホワイトマーメイドのうろこを用いた重ね菓子でございます」トムソンの目がキラリと光った。
「おお、それがよい。わらわの大好物じゃ。ジェード、どうじゃ?」
想像がつかない食べ物を勧められ、反応に困った。
「それは今度にするよ。お前に会えてよかった。いい情報をありがとな」
ラーゼはジェードの感謝の言葉に、急にしおらしくなった。
「ふむ、そうか。あい分かった。またの楽しみにするとするか。しようがないな、それなら」そして、少しだけ険しい表情に戻して言った。
「ときにファルナとやら――そなただけ、少し時間をもらってよいか?」
「ふぇ?」