2周目悪女は夫の笑顔がトラウマです
薔薇が咲き誇る邸宅の庭を夫婦が歩いていた。夫の方は薔薇の品種や先日遠方でみた花々の話題を口にしているが、妻はぎこちない相槌を打つだけだった。それでも夫は貞淑で引っ込み思案……を演じている妻のために話し続ける。夫は妻の美しさに心底惚れていた。
「そこには花畑があってね、色とりどりの宝石を敷き詰めたようで……ねえアリネ、聞いてるかい? どこか体調が悪い?」
「き、聞いてます、もちろん! 辺境の丘で見たお花の話ですよね」
「そうそう。まだ散歩してもいいかな? 美しい君と薔薇の中を歩くのが楽しみだったんだ」
「は、はい!」
その返答に夫——ハロンド・ロレンツは安心したように蜂蜜色の瞳を細め、「具合が悪くなったら言うんだよ」と妻を気遣う余裕を見せた。対して妻のアリネは挙動不審で、恐怖を紛らわせるように両手を揉みしだいている。
私が知っているハロンドと目の前にいるハロンドは別人なのだから、怯える必要なんてない。私を傷付け、貶めたハロンドとは違う。頭は理解しているのに、心が言うことを聞かない。違う、おさえて。あれは、前世の記憶なんだから。
アリネ・ロウィーンは悪女であった。貴族という権力をかざし、領民は退屈しのぎの玩具でしかない。財源という言葉を知らず、金はどこからか湯水のように出てくると思っている。社交界に参加しては気に入らない令嬢の不貞を噂し、婚約破棄される様を観劇していた。
彼女が特に気に入っていたのは顔の良い男を追い詰めることだった。領民から適当な男を選び、無意味な遊びに興じる。例えば金貨1枚を与える代わりに鞭をもたせて隣人を打つように命令し、それに逆らえば家族を打つように命令したこともある。「もうやめてください」と整った顔をくしゃくしゃにさせて大の男が懇願する。そんな様子を見るのが好きだった。
母親譲りの紅玉色の髪と瞳は恐怖の象徴となった。自分以外はどうなってもいい。自己本位の権化のような女だった。人を愛するなんてできるはずがないと周囲は口々に噂した。
そんな彼女とハロンドとの結婚は彼の継母が計画したものだ。継母……義母というべきか。彼女はハロンドの失脚を狙い、アリネへ結婚後は思う存分奔放に振る舞うよう指示をした。思惑通りにハロンドがいなくなれば領土の半分をアリネに譲渡するという密約も交わされていた。
アリネ・ロウィーンは疑うことを知らなかった。義母の言う通り、ハロンドに迷惑がかかるよう傍若無人に振る舞った。ハロンド名義で宝石を買い漁り、酩酊したハロンドに高級娼婦をけしかけて捏造した不貞の証拠を盾に被害者を装った。領民からの支持を下げるため、継母の息がかかった部下に引き連れられるまま村々へ押しかけては臨時の税を徴収した。ハロンドはその尻拭いに追われることが多くなった。
すべてが終わったあとにアリネ・ロウィーンは自身の愚かさを憎んだ。
気づけばアリネは雀の涙ほどの手切れ金と共に放り出されていた。ハロンドは順当に失脚し、ぽっかりと空いた当主の座に腹違いの弟が座った。
任務を達成したと満足げな顔で義母のもとへ向かうと褒美の領土を貰えるどころか当家を蝕む病気だと罵られ、ロレンツ家から追い出されることになった。戻った実家はいつの間にか抵当に入れられており、アリネが戻る前日には債権者の手にわたっていた。
『やあアリネ・ロウィーン。久しぶりだね』
『は? なんであんたがここにいんのよ……!?』
『隠してた財産があってね。君のご実家が困っていたようだから手を差し伸べただけだよ』
アリネの実家をおさえた債権者はハロンド・ロレンツ卿であった。
投資の失敗によってロウィーン家の財政は底をつき、借金は膨らんでいた。ハロンドは彼女の両親に助言をした。邸宅を売り、領地を競売にかければ借金がなくなる、と。領地を維持できない貴族は爵位を返上しなければならないが、ハロンドが買い取ったあとすぐに返却すれば問題はないと微笑んだ。疑うことを知らない両親は二つ返事で頷いた。
ハロンドの目的はロウィーン家が爵位を返上することだった。アリネが実家へ戻っても何も出来なくなるように。
彼の恨みは凄まじかったようだ。両親や財産という後ろ盾をなくしたアリネはハロンドによって下働きとして雇われ、恨みを晴らすように連日アリネを虐げた。初めて味わった空腹、理不尽に怒られる不条理、泣いても誰も助けに来ない絶望を忘れることはないだろう。
『学も人望も権力もない、ひとりで生きる力もない。どれだけ辛くてもね、君はここで一生暮らすしかないんだよ』
ハロンドはよほど楽しかったのか、彼女を折檻するたびその顔には笑みが浮かんでいた。アリネはその笑顔が空恐ろしく、次第に遠目からでもハロンドの笑顔を見るたび背筋に悪寒が走るようになった。
そんな彼女の人生の幕切れはあっけなく、ハロンドに便乗したメイドによって窓から落とされ、絶望と苦痛から解放される安堵を抱えながら齢24にしてこの世を去ることになった。
やっと自由になる、と自分の罪から目を背けた罰か運命の悪戯か。
——死の安寧を迎える前に、アリネは目を覚ました。
気づいたら目の前に鏡がある。鏡に写った自分は豪勢に飾り立てられ、傍では両親が「もうすぐご対面ね」と微笑んでいる。ロウィーン姓を捨て、ロレンツ姓へ移る当日……結婚式の日だとアリネは確信した。
「は? え? こ、ここは……結婚式?」
「あら、アリネ大丈夫? お相手とろくに会っていないんですからドキドキしちゃうわよね。もし少しでも嫌なことがあったらロウィーン家に戻ってらっしゃい」
「お、お母様……!? あれ、えーっと……つまり……?」
「さあ、いってらっしゃい。ぐすっ……こんなに大きくなって……」
いつか見たような母親の涙。やっぱり結婚式だ。ハロンドを蹴落とすため、彼の継母による戯曲の幕開け……。
困惑のまま結婚式を迎え、ウェーブかかったブロンドヘアを整えているハロンドは手を差し伸べつつそっと微笑んだ。胃の底から何かがしゃくりあげそうになるのを必死に抑え、前回は払ったハロンドの手の上に自身の手をのせる。細心の注意を払い、粗相がないように、恭しく。
「私は、この結婚において夫となるハロンド・ロレンツを……」
聖なる誓いの挨拶。前回、この続きは「ずっと愛しま〜す笑」と適当に流してしまった。しかしこの人生が前世の業を償う罰だと考えれば……私は品行方正になれって言われているのかしら? ええ、いいわよ。下女に見下されるあの惨めさをもう一度味わうくらいなら、貞淑な淑女のフリでもなんでもしてやるわよ。
アリネは震える唇を噛み締め、ハロンドをまっすぐ見つめた。
「支え、敬い、そして誠意を持って尽くすことを誓います」
こうして、アリネ・ロウィーン改めアリネ・ロレンツの第2の人生が始まり、冒頭へと戻る。とにかく大人しく、慎ましく。メイドをいじめない、領民に近づかない、ハロンドの迷惑になることはしない。義母との密約もそれとなく無理だと伝えた。
ロレンツ家へ嫁いだアリネの変化に驚いた人々は「ハロンド卿と真実の愛を育んでいる」「義母の教育が素晴らしい」「大人しくしているのも計算の内では?」と様々に噂を流したが、しばらくすれば水泡が弾けるように消えていった。
今日はハロンドに誘われるまま色とりどりの草花が緻密な計算のもとに配置された庭園を歩くこととなった。今回以外にも舞踏会やら読書会やら誘いを受けたが、何度か誘いを受けて分かったことがある。ハロンドはアリネのことを悪く思っていない。それこそ何度も誘うくらいには。時折、アリネの横顔をぼうっと陶酔した目で見ていることもあった。何か用かと聞けば慌てて首を振り、果実のように顔を赤くしてパクパクと口を開けたり閉じたりを繰り返していた。この男、こんな初心だったのね、とアリネは前回を思い返す。
前回は……宝石商や義母の部下ばかりと話していたから特にハロンドと会話らしい会話もしてなかったわね……。誘われても突っぱねていた気もするし……。それでいて失脚を狙っていたんだから恨みも相当だったでしょうね。
冷静に分析を始めたアリネの顔色を伺いながら、ハロンドが口を開く。
「庭で薔薇を眺めるのもいいけど、今度アリネも辺境の丘に行ってみない?」
「まあ」
辺境に? この私が? ドレスに田舎臭いのが染み付いたらどうするの? と性悪女だった頃の私が眉をひそめている。
しかし、再び与えられた生なのに同じことを繰り返したら同じ結末になってしまう。それに……。
「きっと気に入ってくれるよ」
にっこり。お手本のような笑顔にアリネの背筋が粟立った。
ハロンドは緊張しいな妻へ恋慕を込めたつもりだったが、人畜無害な笑みはアリネの記憶の引き出しを無理やりこじ開ける。
——『君なんかを助ける人なんていないよ』
前の人生でアリネを奈落へと突き落とすためのトゲまみれの言葉。それを延々聞かされた時も笑顔だったのを思い出す。前の人生でハロンドはネチネチとアリネを追い詰めるのが好きだった。
ハロンドの笑顔は恐怖心を植え付け、逃走本能を刺激する。今、向けられている笑顔だって悪意はないと分かっても鳥肌が立つ。気がつけばハロンドの機嫌を損ねないようにと口が勝手に動いていた。
「あ、あら。うふふふ……も、もちろん、行きますとも」
「よかった、断られたらどうしようかと思っちゃった」
「ひっ……う、うふふふ……」
「……」
胃の中がひっくり返りそうになる。ハロンドは「誘いを断られたらしょんぼりしちゃうよ〜」という意味で言ったのだが、アリネには「断られたら(お前を)どうしようかと思っちゃった」と聞こえていた。思わず頬がひくつく。そんな彼女の顔を見て、妻の変化を見逃さない配偶者の鑑であるハロンドは「あー」だの「えー」だの口をまごつかせ、なにかを決断したようにひとつ息を吸った。
「……やっぱり、やめにしよう。長時間馬車に乗ることになるから疲れちゃうだろうし、庭園の薔薇も十分美しいしね」
「え?」
思ってもいなかった言葉に間抜けな声が漏れた。あ、あら? そんなに顔に出てしまったかしら。気を遣ってくれた? 前の人生で出会ったハロンドとは別人すぎて何を考えているか分からない。優男ってことは分かるのだけれど。
「無理やり誘ってごめんね」
「で、でも……」と内心喜びながら引き止めるポーズをとるアリネに「ごめんよ」ハロルドが遮った。
「君は良い人だから断れないことを失念していた。僕ばかり舞い上がってしまって、もしかして今までの誘いも嫌だったかな……その、君との結婚が決まった時、どんな人が来るのか分からなくて怖かったんだ。色々な噂も耳にしたしね……今は信じてないよ! 君を見てれば分かる。見た目だけじゃなくて心もとても綺麗な人だって。そんな君が退屈な僕に飽きないようにと気が急いてしまって……ごめんよ、迷惑だったよね……」
もじもじと指を遊ばせるハロンドをアリネは顎に手を添え、紅玉色の瞳で捉える。先程まで横に並んでいた男が、仮にもロレンツ家当主ともあろう男が、背を丸めてもじもじとしている。高いヒールを履いているおかげでアリネはほんの少しだけハロンドを見下ろす形となった。恐怖とは違う感情が背筋をぞくりと這い上がる。ふくふくほっぺたの幼子を叱っているような優越感と嗜虐心を刺激される。
……可愛いじゃない、この男。
眉根を下げるハロンドとは対照的にアリネの口角はゆるやかに上がっていく。
駄目よ、これは実家の玩具と違って壊しちゃ駄目なんだから。違う、そうじゃなくて、私は今度こそ清廉潔白に生きて——。ああ、もうそんな可愛い顔が出来たなんて……どうして前回の私はこれで遊ばなかったのかしら! あんな意地の悪い継母のもとで育てられてこんな純真に育つなんて。しかも結婚している間ずっとこの顔を見られるってことでしょう? 半永久的に遊べるじゃない!
アリネが恍惚の表情を浮かべているとハロンドが不思議そうに顔を覗き込む。
「急にこんなこと言ってしまって、迷惑だったかな……?」
「あら、ふふ……こほん。そうですね、少し驚いてしまいました」
「ご、ごめんよ」
しおらしく顔を背け、ハロンドの情けない表情を横目に捉える。両手を前に出すが何をすべきか分からず宙に浮かせ、うっすらと膜が張った蜂蜜色の瞳には当惑が浮かんでいる。
心根が優しすぎる。継母に当主の座を狙われるのも頷けるわ。とはいえ、いじめすぎるのも良くないわね。程々にしなくちゃ、優しすぎる男は壊れやすいんだもの。鞭だけでなく飴もあげないと。
「いえ、嬉しいという意味です。ハロンド様が私のことをそんなに思ってくださったなんて。アリネはハロンド様のもとへ嫁げて幸せです」
「……っ! 本当かい!」
「ぐあッ」
「あ、アリネ!?」
目がくらむほどの満面の笑みを受け、太陽光を浴びた吸血鬼のようにアリネは体を仰け反った。
ハロンドの笑顔。心に負ったかさぶたを剥がされ、過去に受けた屈辱が勝手に引き出される。いつかの日。文字通り地べたを這い、喉の渇きから泥水を啜ろうかと血迷った瞬間。「綺麗に片付けてね」とお気に入りの家具を捨てるように命令された日。顔を上げれば必ずあの笑顔があった。
わ、忘れていた。いや忘れていたかった。この男の笑顔だけは駄目。前の人生を思い出して体が勝手に怖じ気立つ。まともに見ることなんて出来ない。
「い、いえ。なんでもありません。ただハロンド様の笑顔が眩しくて」
「そ、そんなあ……へへ……」
アリネの苦情を褒め言葉と受け取ったのかハロンドは照れたように、はにかみながら頬を掻く。前回の人生の記憶がこじ開けられる。
「くッ……」
「ああっ、ごめんよ! あまり笑わないようにすればいいかな」
「ええ……私には、ちょっと眩しすぎるようなので」
「うん、分かったよ」
血の気の引いたアリネの言葉に大きく頷くハロンド。
笑顔がなければなんのダメージもない。でもこれじゃあ満足に彼で遊べないじゃない。ただ虐めるのはすぐに壊れちゃうから駄目、ちゃんとご褒美をあげないと。私に惚れている今のハロンドなら、たんまり虐めたあとに手を繋ぐなりキスなんてしたらさぞ舞い上がるでしょうに。
でもそんなことをしたら凶器を向けられるに決まってる。
弱くて可愛いものを虐めたいだけなのに。運命に清廉に生きろと命じられているような……。そ、そうだった。私は前回と同じ轍を踏まないと決意したのよ。あぶないあぶない。目先の可愛いに気を取られるところだった。
「僕もね、アリネが来てくれてとても幸せなんだ。ここはとっても息が詰まるから、君とこうして一緒にいる時が一番息が出来ている気がする」
「あら、そうなんですの?」
確か、義父は既に亡くなっていると聞いている。継母とその子どもが傍にいながらロレンツ家を継ぐのは大層な重圧だったでしょう。理由をつけて遠方に飛ばしてしまえばいいのに。
「だから、アリネのことはちゃんと大切にしたいんだ」
「……?」
その言い方にどこか引っかかる。まるで他のものは大切に出来なかったという意味が含まれているような気がして、ハロンドの顔を見つめる。ハロンドはばつが悪い顔をして、薔薇に向けてぽつりぽつりと語り始めた。
「その……これは悪癖だと分かっているんだけど、子供の頃ひとりでいることが多かったからか大事にしたいものや可愛いものをつい構いたくなっちゃって……」
「……へえ、例えばどんな風に?」
「お花に水をあげすぎて枯らしたり、飼っていた兎にずーっと餌を与えて、抱っこし続けてたらどんどん弱っていったり……。弟には会ったかな、ここに来たばかりの彼はとても可愛かったからついつい構いすぎてしまって『兄上しつこい』なんて言われたことも……あっ、兎は別の人にお世話してもらって元気になったよ!」
「そ、そんなことがあったんですね」
なんて趣味が悪いの、とアリネは自身を棚に上げた。そう、この二人は根っこが似ていた。アリネが玩具をボロボロになるまで使い倒して壊れる前に直してまた使い倒す人間だとすると、ハロンドは玩具を壊すまで遊び倒す人間。
ともすれば前の人生でアリネを虐めていた真意にも考察の余地があるが、アリネが嫌な思い出をわざわざ振り返ることもないだろう。
「で、でも大丈夫! アリネの嫌がることはしないって誓うよ!」
「まあ。とても嬉しいです、ハロンド様」
真っ直ぐに見つめるハロンドにアリネは微笑む。このハロンドに虐げられる未来が浮かばないわね、という余裕の笑みだった。
この調子なら辱めを受けることはなさそう。前回の結婚生活より刺激がないけれど平穏にはなるかしら。この男で遊ぶ方法も考えておいても良いかもね、笑顔を見なきゃいいんだから。
「だから丘に行くって話は忘れて! 嫌だったよね」
ふむ、とアリネは考えた。引きこもってもいいけれど、ハロンドをからかって遊んでもいいかもしれない。丘で転んでみせたら眉をへにゃりと下げて心配をしたりするだろうか。情けない顔、見たいわね……。
「……いえ、私ぜひとも行きたいです。先ほど馬車の時間が長くなると仰っていましたが、ハロンド様と一緒ならそんな時間なんて一瞬ですわ」
「あ、アリネ〜!」
「くぅッ……そのっ、笑顔が、ちょっと……!」
天から降り注ぐ陽光のような朗笑を向けられ思わず顔を顰める。心臓が早鐘を打ち、悶えたくなる程の心痛に襲われた。前回の人生で私を虐げたハロンドと目の前のハロンドの姿が重なって、「離れたい」で頭がいっぱいになる。この笑顔さえなければ私が圧倒的優位に立てるのに……!
「あっ、ご、ごめん! 嬉しくてつい……僕の笑顔が嫌なら鉄仮面でも被ろうかな」
「そ、そこまでしていただかなくても大丈夫です」
「そう? 僕、アリネのためなら何でもするよ」
あっけらかんと言い放つハロンド。瞳の奥に燻る想いには気づかず、アリネはなんて忠実な手駒なのと都合よく解釈して、ハロンドは更に言葉を続けた。
「だから、僕を裏切らないでね」
「……? ええ」
蜂蜜色の瞳に一匙の執着が足されたのを、やはりアリネが気づくことはなかった。
■
「私はこの結婚において夫となるハロンド・ロレンツを、えーと……ずっと愛しまーす」
その言葉に心臓を摑まれたような衝撃を覚える。あの日、結婚式で彼女は「愛します」と誓ってくれた。今まで浮いた話がなかった僕に求婚してくれた上、愛を誓ってくれた。物心がつく前に母を亡くし、厳格な父親からも継母からも「愛してる」なんて言われたことはなかった、この僕に。
その誓いに報いようとした。
彼女の我儘に振り回されるのは嫌いじゃなかった。会話は少なかったけれど、心は繋がっていると思っていた。結婚生活がいつまでも続けばいいと願っていたのに、ある日知ってしまった。アリネが僕と結婚したのは継母が考えていたことだったんだって。弟に家督を継がせるため、僕を失脚させるためだって。それじゃあ。アリネは……。
「アリネは、僕を愛してない?」
口にするとズシンと胸が重くなる。愛するどころか最初から彼女の瞳には僕は映っていなかった。
彼女は両親から愛されて育ったんだ。僕が与える愛情なんてすぐに埋もれてしまう。愛そうとしても植物も動物も、血の繋がらない弟も僕から離れていくんだから、どうすれば……。そう考えてひとつの結論に至った。
それじゃあ彼女が知らないものを僕が与えてあげよう。
視界が滲むほどの屈辱も、頼れる存在がいない孤独も、この世のすべてを憎むほどの絶望も。追放して終わり、なんて味気ない末路を迎えさせるつもりはない。僕のそばで一生を共にしてくれなくちゃ。
「学も人望も権力もない、ひとりで生きる力もない。どれだけ辛くてもね、君はここで一生暮らすしかないんだよ」
「っ……!」
彼女の中に僕という存在が刻まれていくのを感じる。アリネとの離縁を認めた上で弟と結婚しないように彼女を追放させろと義母へ迫ったのが昨日のことのようだ。
宝石をはめ込んだような紅玉色の瞳を歪ませ、ぐっと涙をこらえる表情に心がざわつく。
ようやく君の瞳に僕が映ったね。




