彩の残声
雪化粧をまとった山々に囲まれる鐵籠。一年中、凍てつく寒さに覆われていたこの国は、地下に都市を広げていった。
陽の光が差し込まない地下都市では、毎日数多くの研究が行われている。中でも、“彩核”の研究においては他の追随を許さない。他国も軽々に手を出せず、研究大国【鐵籠】と、いつしかそう呼ばれ、敬遠されるようになっていた。
研究施設――通称「蟄居」。
ここはそんな鐵籠においても更に特異な場所であり、ただの学者では立ち入りを許されぬ領域だった。出入りする者たちは皆、口を閉ざし、白い仮面と防護衣で身を包む。中で何を見て、何を聞いたか――それすら記憶に残すことを許されない。
この日、奇妙な足音を響かせながら、男がひとり、ゆっくりと石段を上ってくる。
ざらついた外套の裾が男の右足を擦るたび、鋼の義足の歯車が小さく鳴った。
「……やれやれ、また随分と物騒な空気じゃないか」
“彩核”の魅力に取り憑かれた男。彩核研究の第一人者“ハグルマ”。
表の顔は薬師。だがその背には、彩核技術の裏面に深く関わる過去がある。
彼がここ「蟄居」を訪れるのは、これが初めてではない。しかし、今日の空気には何かが違った。
研究員の一人が、仮面越しにハグルマを一瞥し、低く頭を下げた。
「ハグルマ殿、すでに実験準備は整っております。……例の、朽葉核と若葉核の複合核による試験です」
「じゃあ……始めようか」
彼の目は、まるで義足の歯車のように、冷ややかに回っていた。
朽葉核と若葉核。
腐敗と活性という、相反する力を同時に扱う試みは、これまでも幾度となく失敗を繰り返してきた。
彩核は本来、単独でこそ真価を発揮する。二種以上を無理に掛け合わせることは、不安定化を招き、最悪の場合――暴走を引き起こす。
だがそれでも、鐵籠は挑んだ。誰も到達していない「複合核制御」の地平へ。
”試験体十一号”二十代後半の男性で素性は不明。
片目を覆う黒布の奥には、朽葉核の痕が微かに輝いていた。皮膚はどこか乾ききったように色を失っており、ところどころが爛れている。それでも彼は、うわ言のように同じ言葉を繰り返していた。
「……聞こえるんだ――」
これまで何度問いかけても、繰り返すばかりの言葉だったが、唐突に十一号が続きの言葉を口にした。
その声に、観察室の研究者たちが息を呑む。
「声が……この体の奥で、彩核が囁いてる。老いろ……朽ちろ……それでも、芽吹け……と」
「ハグルマ殿、精神汚染の兆候かと――」
「待て。まだ判断は早い」
ハグルマが手を振って制止する。その視線は、獣のような静けさと執念に満ちていた。
十一号は拘束椅子に縛られたまま、首を傾け、にたりと笑った。
「命の反対は、死じゃない……停滞だ。止まるな、止まるな……彩核は、そう言っている……!」
その瞬間だった。
地響きのような音と共に空気が軋んだ。
部屋の温度が急激に変化した。観察窓が一瞬で白く曇り、機器の針が振り切れた。
拘束された十一号の身体が震えた。黒ずんだ皮膚が急激に老い、ボロボロと崩れ始めたかと思えば、直後に赤みがかった皮膚が形成された。
「――こい……彩核……もっと、声を聞かせてくれ……!」
彼の叫びとともに、彩核が暴走を開始した。
血管の中を何かが這い、骨は樹のように軋み、朽ち果てた肉体の中に、新たな命が無理やり芽吹く。だがそれは命と呼べるものではなかった。腐敗と活性の拮抗する力は、肉体を生かしも殺しもせず、ただ異形の存在へと変質させていった。
「彩核が……彩核が歌っている……!」
研究室中に、異音が響いた。
「遮断しろ!核場を隔離しろ!」
研究員がそう叫んだ時には既に遅く、異形と成り果てた十一号の身体から伸びた根のようなものが、床に触れ、彩核を格納していた区画へと侵食を始めた。
その中心で、十一号はなおも笑っていた。
「この声が……お前たちには聞こえないのか?」
ハグルマは、その姿をじっと見つめていた。何も言わず、何も動かず。
ただ、唇だけが、かすかに動いていた。
「……やはり、彩核には、意志があるのか……」
暴走は、もはや止めようのない段階に入っていた。
格納室の壁にあった、保管された彩核にまで侵食し“共鳴”が伝播していく。
特に影響を受けたのが朽葉核と若葉核――同質の彩核が、暴走の波に呼応して震え、共鳴し、うっすらと淡光を帯び始めた。
「あれは……まさか、他の彩核にまで……!」
研究員たちの声が悲鳴に近くなっていく。
「十一号、こちらの呼びかけに反応しません!既に知覚を失っております!」
「核共鳴、制御不能――! このままでは研究棟が……!」
そんな中、ハグルマはただ一人、静かに歩みを進めていた。観察窓を開き、薄闇の中へと身を投じる。手に握るのは――浄化に特化した希少な白核を使用している、鎮圧用彩術具“静縛輪”(せいばくりん)。
それは、ここ蟄居における最終手段。
彩核を一時的に鎮め、共鳴の連鎖を断ち切るために作られた彩術具。白核の適正者は、彩核としての希少さに比例してとても珍しく、扱う者を選んだ。
研究員たちは叫ぶ。
「ハグルマ殿! 中へ入っては――!」
「……うるさいなあ。あれを止められるのは、ボクだけさ」
暴走空間の中心――異形となり果てた十一号は、もはや人の姿をとどめていなかった。
老いと活性の力は肉体の形状をも破壊し、まるで一面に芽吹いた老木の根のような、あるいは瘤と瘴気が交差する奇怪な生命体に変じていた。
その中心で、“何か”が囁いている。
鼓膜ではなく、脳に直接届くような低い音――いや、“声”。
『……芽吹け……そして朽ちよ……また芽吹け……また……また……』
「聞こえているよ、彩核の声……この男の声じゃない」
ハグルマの右義足が床を鳴らす。
ゆっくりと、一歩一歩、確かな足取りで異形へと近づいていく。
「それが何なのかを知りたくて……ボクはずっとやってきた……それなのに、結局、こうなるんだよなあ」
異形が、反応した。うねる根のようなものが唸り声のように震える。
『……壊すもの……封ずるもの……我らの妨げ……』
「僕は、理解したいんだ。お前たちが何を見て、何を願っているのか――」
ハグルマの手にした静縛輪が白光を帯びて、優しい光が覆いかぶさるように異形を包んでいった。
だが異形は抵抗した。根のようなものは伸び、ハグルマの顔に絡みつき、彩核の力が逆流する。
その力に晒された瞬間、ハグルマの片目が灼けるように熱を帯びた。
「っ……ぐ、あぁあッ!」
ハグルマはその痛みに悶絶し、膝をつく。
しかし、それでも彼は、決して目を逸らさなかった。
「お前の声は、呪いじゃない……悲鳴だ。核が……お前が、生きようとする、叫びだ」
ハグルマの手から伸びた光が周囲に纏う。その白くて優しい光は彩核の奔流を受け止めるように瞬いた。
「だったら聞くよ――その叫びを、最後まで」
直後、瞬間的に大きく発光し、異形の全身を絡め取り、彩核の力を飲み込んで封じていく。
暴走は、終息した――。
それから、蟄居内の空気は沈黙に包まれていた。
封鎖された実験区画の中心に、巨大な焼け焦げたような痕と、残骸のように変質した彩核の核殻が、ぽつりと横たわっている。
その傍らに、倒れていた男――ハグルマは、まだ呼吸をしていた。
「……生きてる……!」
駆け寄った研究員の声に、誰かが安堵の吐息を漏らす。
ハグルマは、目を閉じたままうわごとのように呟いていた。
「……また、聞こえた……あの声……何かが……生まれようとしている……」
その目は既に焦点を失い、半ば白濁していたが、なお口元には奇妙な笑みが浮かんでいた。
やがて、鐵籠の上層部からの使者が到着する。
黒漆の外套をまとった男は、破損した彩核と異形の残骸を見て、冷ややかに言った。
「今回の事件は、“制御試験の失敗”とする。この件に関して一切の記録を禁ずる」
「全ては予定された範囲での逸脱。彩核が、過剰な使用に耐えられなかったというだけの話だ。報告はそれ以上でも以下でもない」
研究員たちは黙して頷くしかなかった。
同日、朽葉核と若葉核の試験体――十一号は完全に回収され、秘密裏に移送されて行った。
人体実験の痕跡――それらの処理先として選ばれたのが、森深くに根付く古くからの国“木霊ノ郷”であった。
既にこれまでも朽葉核の影響で“変質”した個体は、人の理を外れた存在となっていた。
鐵籠はそれを「自然由来の変種植物病」と偽って、密かに木霊ノ郷へと“譲渡”することを決定する。
その背景には、両国間の秘密協定があった。
木霊ノ郷は、異形の存在を“精霊変異”として受け入れる代わりに、鐵籠から特定の彩術具や資金の提供を受けていた。
一度他国に知れ渡れば、糾弾され、争いの火種になるやもしれない国の秘密を、森の民は静かに受け入れてくれる。また、木霊ノ郷にとっても自国では精製技術を持たない彩術具を譲り受けることができ、互いにとって都合の良い関係を築いていたのだ。
「そういうのは……森に還してあげるのが、一番」
“譲渡”の場に現れた木霊ノ郷の巫女は、どこか人外の雰囲気を帯びて、そう告げたという。
そして――数日後。
ハグルマは蟄居内の事故現場から遠く離れた療養室で静かに目を開けた。
灼けるような痛みに苛まれた左目は視力を失っていた。声もかすれて出なかったが、それでも彼は、手元の彩術具を撫でて、ひとつ息をついた。
「ハグルマ殿、もう無茶はおやめください……」
看病のため付き添っていた研究員が満身創痍のハグルマへ声をかける。
ハグルマはかすれた声で、ゆっくりと話した。
「それでも……ボクは……知りたいんだ。彩核の、奥底にある“声”の正体を――」
彩核が発見され、加工されるようになり、彩核は人々へ様々なものをもたらした。ある国では豊かさを、ある国では戦を、ある国では恐怖を――。
しかし、そのどれもが彩核の本質を知ろうとはしていない。ただ、そこにある力を享受するだけ。
だが、彼だけは違った。彩核の暴走、その渦中に身を晒してなお――否、だからこそ、彼は深く魅入られていたのだ。
左顔面は焼け爛れ、失われた視力。
研究の代償はあまりに大きい。
それでもハグルマは、白の光をたたえた“静縛輪”を手に、確かに微笑んでいた。
「……聞こえたんだ、確かに。叫びじゃない、“語りかける声”だった。彩核は……生きている」
付き添う研究員は、恐怖と困惑を隠せなかった。
だが、ハグルマはもう誰の理解も必要としなかった。彼の目に映るのは、ただその奥底――まだ誰も触れたことのない、禁忌の真理。
彼は知ろうとしていた。
“何のために彩核が生まれたのか”
“なぜ力を与えるのか”
歪んだ知への渇望は、もはや使命か妄執か。
それでも彼は、静かにこう呟いた。
「……次こそは彩核と、対話を……」
その眼差しは狂気の淵で、なお輝いていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
“彩核”と“知欲”をめぐる物語を、少しでも楽しんでいただけていたなら幸いです。
この物語の余韻が、あなたの胸に小さな火を灯せますように。
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次回もまた、物語の片隅でお会いできることを願って。
――平 修