♯ 8
二人の間に横たわり始めた緊張が固化しかけた時だった。
携帯の着信音が鳴った。
私のだ。
藍が顔を跳ね上げ、机の上に置きっぱなしになっていた携帯の方を見る。その着信音は古い映画のテーマ曲。蒼汰の好きな映画の曲だった。
「あ、ごめんね」
「ううん」
藍は助けを求めるように居間に駆け込むと、携帯を持ち上げた。
どうやら電話ではなく、メールのようだ。
それでも、いいタイミングに携帯を鳴らしてくれた蒼汰に藍は胸をなでおろしながら感謝した。
メールの内容は、明日の予定の確認だった。パーティーの後にそのまま青の家で皆で鍋でも囲まないか、という内容だ。桃にも訊いてくれ、とつけたされてもいる。
藍はメールの文面から聞こえてきそうな彼の、快活な声を想像して、思わず笑みを零した。
きっと、場所は青の家となっているけど、この事は蒼汰が提案して決めたのだろう。
蒼汰がやや強引に決め、青が仏頂面で愚痴を零す。けれど拒否はしない。そんな青に蒼汰が「青の家居心地いええもんなぁ。おおきに、青くん」とじゃれつく。青が「やめろ」と眉を跳ね上げる。
彼らの見慣れたやり取りがすぐに想像できた。
二人は仲良しだなぁ。ちょっと青が羨ましくなって、携帯を閉じる。
そう、蒼汰にそうやって頼られ、じゃれつかれるなんて、本当に羨ましい。
蒼汰はいつだって明るく、元気で、影の欠片も見えない人だ。かといって、人間くさくないわけじゃなく、むしろおっちょこちょいでお調子者で、喜怒哀楽はハッキリしている。
ただ、嘘がない。誤魔化しがない。
そう言った点で、影を感じない。
藍はそこが好きだった。憧れ、に近い気もする。
蒼汰の事を想う時、いつも日向ぼっこしている時のように胸の真ん中がほんわりと暖かくなり、湿った自分の中の影を乾かし包んでくれるような気分になった。
そしてたまらなく会いたくなり、次いでそうできない切なさが追いかけて来て、痛みを覚えるほど息苦しくなるのだ。
涙がこみ上げ、気持ちの昂りを持て余しそうになる。
流行る鼓動を落ち着かせようと目を閉じると、あの温かくおっきな笑顔が浮かぶ。
こんなにも好きなのだ、と痛感させられる。
それとは対照的に青は落ちつける場所だった。 青は無口であまり自分の事を話さないし、嘘はつかないけど何にも言わない。
たぶん、人を信じる事も、気を許す事も怖いのだろう。
青と自分はそんな所が似ていると思う。
だから、きっと、自分は青に安心するのだ。似た者同士、同じ日影の感触がするからホッとしてつい本音をこぼしてしまう。安らぎを感じる。
もしかしたら、そんな自分の態度が桃を警戒させているのかな?
そうだったら、誤解だ。
「蒼汰くん、何だって?」
桃が背を向けたまま訊いてきたのは、藍が誤解を解こうと振り返り口を開けた時だった。着信メロディーで彼女もメールの主がわかったらしい。
藍は言葉を飲み込み、代わりに答えた。
「明日、パーティーの後、鍋でもしようって。青君のお家で」
「青君の!?」
桃は嬉しそうに振り返た。その表情にはさっきの緊張の欠片もなく、いつもの様に無邪気に微笑んでは「うわぁ。じゃ、頑張らなきゃ~」と呟いている。
よかった、さっきのは気のせいだったのね。
藍は胸をなでおろしながら、ピザのチラシを手に再び彼女の隣に立った。
覗くと、天板の上のチョコレートケーキに丁寧に「Happy」の文字がホワイトチョコのペンで書かれていた。きっとその下の空いたスペースに「Valentine’s Day」の文字が書かれる予定だろう。
「凄い。お店で売ってるみたいのだね」
「そうかな?」
「うん。いいなぁ。私もケーキにすれば良かったかなぁ」
思わずぼやいて、自分が蒼汰に用意したチョコレートを思い出した。一応手作りのトリュフなのだが、ちょっと地味だ。
「でも、可愛かったし、味見したのは美味しかったよ」
「そう?」
「あ、でも……藍ちゃん」
桃がはっとして手を置き、藍の顔をじっと見た。今度はさっきと違い、どこか申し訳なさそうな、そんな目だ。
「何?」
「私、言ってたっけ。明日、来る人」
「? 映画部の皆でしょ?」
昨日、部室で脚本班の製本を手伝っている時、そう聞いた。しかし、桃は眉をさげると、弱ったような顔をして
「映画部は映画部何だけど……」
口ごもる。なんだ? いったい、だれが来るって言うの? 藍が桃の様子に見当もつかず首を傾げていると、桃は上目使いで小さく告げた。
「紅先輩も来るんだって」
「え、紅先輩が?」
思わず飛び出た声に非難の色が混じっている事に、藍自身気がついて口を結んだ。
どうして。と、問いただしたくなる気持ちをぐっと腹の底に押しこめる。
同時に、そんな気持ちになる自分の汚さに嫌気がさした。
でも、そう思っちゃ悪い? と言う気持ちも確かに存在する。頬が理性とは裏腹に上気し、みぞおち辺りがぎゅっと絞られるような感覚がする。
紅先輩を蒼汰が思っているのは知っている。知っているし、先輩自身も心得ているはずだ。でも、紅先輩にはずっと前から神崎川先輩というちゃんとした彼氏がいて、いつも二人は一緒だった。しかも、この春には結婚も決まっている。
なのに、何故、まだ現れるの?
蒼汰君の気持ちには応えられないんでしょ? 応える気なんかないんでしょ。だったら、どうしてまだ蒼汰の前をうろつくのよ?
か弱いふりして彼の気持ちを弄んでいるの? それとも気まぐれ? どっちにしたってズルイよ。
嫉妬に裏付けられた憤りが次々と、煮えたぎった胸の奥から溢れ出て来る。
藍はそれを押しこめるようにギュッと唇を結んだ。
口を開けばきっと、こんな醜い言葉で紅先輩を罵ってしまう。そんな恐があった。それに一方では、こんな想いが自分の身勝手な言い分である事もわかっている。
でも、だからってこのわだかまりが飲みくだせるわけじゃない。
藍は軽く拳を握り、俯いた。
「あ、ごめんね。もっと早くに言えば良かったね。あの日、三宮せんせの所にいった時、先輩もいたの。それで……」
桃の気遣いが痛々しく、藍は誤魔化しの笑み一つ浮かべられない自分を嫌悪した。桃を安心させないと、そう思うが、すぐにあの泣きボクロの彼女の顔が浮かび、生まれかけた余裕が吹き飛んでしまう。
明日、先輩は蒼汰に会いに、いやチョコレートを渡すつもりなんだ。
もうすぐ他の人と結婚するくせに。
蒼汰がまだ先輩の事諦めきれないの知っているくせに。
そんな彼の一途な思いに応える気なんかないくせに!
藍は憤りに熱くなった吐息を吐きだすと、顔を上げて桃を見据えた。
「桃ちゃん。ケーキの材料、残ってない!? 私、作り直す」
せめて、気持ちだけでも負けてたまるか。
驚き上半身をのけぞらせながら頷く桃に、藍はへの字に閉じた口をこじ開け「じゃ、貰うね」と言葉をはじき出すと、流しにあるボールに手を伸ばした。
絶対に、先輩よりおいしいチョコを用意するんだから。
藍はそう心に決めると、一心不乱にボールを洗い始めた。
桃の「ところで、ピザは?」という言葉も聞えないほどに。
結局、二人は食事もせずに夜中までバレンタインの準備に奮闘することとなってしまった。
バレンタインの前夜であった。