メッセージは『∵』
この物語は『春の推理2024』参加作品です。
「暗黙の3年ルールがあるからよ!この業界には居らんねえな!」
直属の上司だった上田主任の言葉を明野透は思い出していた。
目の前には1枚の辞令
「城南地区担当 主任を命ずる」
城南地区には三田に本社があるライバル企業“アイテック”があり、アイテック側の地区担当として業界では有名な香月紗那がいる。
上田主任は香月紗那に惨敗した。
誰も口の端には上らせないが……それが、彼が異業種へ転職した本当の理由だ。
明野は、入社以来自分の事を公私に渡って親身になって指導してくれた上田主任を、尊敬していた。
「上田主任は“できる”人だった!! それが証拠にわずか数年で転職先の会社で課長になってる!!」
その上田主任が惨敗した香月紗那……
『“ステルス”の向かう所、敵なし!!彼女が通った後は未来永劫他社の芽は出ない!!』とまで言われた“業界のレジェンド”はなんと無役の契約社員で……その名前が表に出る事は無い。
アイテックは良く言えばチームプレイの会社で、コアとなる男性社員が渉外し、それを数名の女子社員がサポートする体制で……ライバル企業は数名いる女子社員の中の誰が香月紗那なのか分からない。それは彼女が表立って名刺を出す事がないからだ。
だから“アイテックさん”と競合になった時、そのチームの中に香月紗那がいるかどうかでライバル企業は戦々恐々となる。
それが彼女が“ステルス”と呼称される所以であり、『彼女の顔写真が秘密裏に取引されている』と言う伝説がまことしやかに流れている。
明野はスマホの連絡先にある“上田主任”の番号を見ながら会社の電話のプッシュボタンを押した。
「ご無沙汰しております。明野です!」
『おう! 誰かと思ったらお前か!元気か?』
「はい!会社の番号なら覚えてらっしゃるかと思いまして」
『お前の番号だってスマホは覚えてるよ! まあ、変わってなければだがな!何かあったか?』
「はい! 今回、主任に昇格して城南地区担当になりました! 因みに城南地区には“ステルス”が居ます」
『そうか! ただ、おめでとうとは言えない状況の様だな……香月は持ってる情報も凄いし、とんでもなく切れるヤツだからな。香月対策にはアドバイス出来ねえが、お前には期待してるよ! 一緒に仕事している時、オレはお前には一目置いてたよ。しかもオレが辞めてからは、お前は更に力を付けた筈だ! だから頑張れ!!』
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進学などできる状況でなかった香月紗那の最初の勤め先は今はもう無いぬいぐるみの縫製工場だった。
何の資格も持たないただの“高卒”だった彼女にとって、勤め先が廃業してからの再就職のハードルは高く、結果、色んな事に手を染め、理不尽をも味わいつくした。
その象徴としての彼女の信条は「男には負けたくない!!」という事。
その為にはどんな手練手管を使っても情報をモノにし、それらの情報を元に、寝ても醒めても繰り返し繰り返し考え抜いて戦略を立て、それを実行する。
今の仕事に就いてからもそれは変わらない。
けれども!!競合する他社の男を打ち負かしても、別の男どもが“利”を得るだけ……
しかし、私はやらねばならない!!
先程、情報が入って来た蒲田の案件はそのうち各社にも情報が伝わるだろう……しかし対応できるのは篠田工業さんだけ、あそこはつい最近、担当替えになった筈。探りを入れねば……
彼女はスマホを取って電話を掛けた。
「ああ、常務さん! ご無沙汰しております。久しぶりに楽しみませんか? 奥様は篠田社長と同行で外遊なさってるんでしょ? ならば私とご一緒いただく時間もございますよね?」
彼女に選択の余地は無い。例え仕事を変えてたとしても所詮、道は変わらない。
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「あの常務の口利きだからくれぐれも気を付けてな!」
課長はこっそり小指を立ててオレの耳元で囁いた。
来月コンペが行なわれる蒲田の案件はオレの担当となり、アシスタントの要望を出したらパートの女性を付けると言う……てっきり主婦かと思ったら、オレより若い女性だ。
まあ、身なりは地味だけど、しっかりした感じの人で……聞けば長期入院している母親の介護でフルタイムでは働けないらしい。 そんな状況でも……いや、そうだからかもしれないが、常務の二号だか四号だかになってるという事らしい。
最初は雑務をこなしてもらっていたのだが、恐ろしく勘のいい人でオレに対し阿吽の呼吸を作ってくれる。
蒲田の案件はいつしか彼女との二人三脚となり、オレにとって今までにないくらいのやりがいと楽しさを感じる仕事となった。
母親の介護(と常務のお相手??)で彼女の時間は変則的で、その日はオレの残業中に自宅のパソコンからC-45-3部分の図面を送って来た。
それを見ながらZ●●Mで打ち合わせをしていると彼女が面白い事を言い出した。
「私と母の家は古い借家で台所の床に扉があって収納スペースがあるんです!母一人子一人でしたから小さい頃はまさかの時の私の隠れ場所、あとヘソクリの隠し場所になったりしてましたね」
ちょうど図面を見ていたオレは、閃いて、ユニットの収納スペースをしつらえる事ができた。
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蒲田の案件のアプローチとしてオレが考えたもっとも効率の良い方法は間違ってはいなかった!
∵(なぜなら)アイテックさんと全く同じアプローチだったから……ただ、あちらの方が圧倒的に美しかった。
完敗だ!!
これが香月紗那の力量なのか!!
これほどまでに美しい仕事をする人は
きっと美しい人なんだろう……
オレはまだまだ力不足!!
もし“相棒”がオレとの二人三脚でなく、カノジョ一人で香月紗那と対峙していたら!!
勝てたのかもしれない。
惨敗したくせに
この突拍子もない考えが頭に浮かんで、オレは苦い筈の盃を大笑いしながら飲んでいた。
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香月は“常務”に背中を向け、後ろ手でブラのホックを留めた。
「器用なもんだな!オレの女房なんて前留めしてグリグリ回してるぞ!」
「まあ!奥様が羨ましいですわ!」
「羨ましい?」
「ええ、だって“社長の長女”であるご自分の立場もなにもかもフラットにさせて、そんなにも楽にふるまわれるなんて! 私には一生かけてもできませんわ」
「そう言うもんかね」
「そういうものです。それに……蒲田の案件が御社との共同プロジェクトになった事で私は実質的に敗北しました」
「内容からすれば間違いなくキミの勝ちだろう! まあ、明野の考案した収納スペースのお陰でウチは一矢報いたがな!」
「だから、いい潮時です。今日で終わりにしましょう! 常務さんは……私が好きになってしまった方ですから! ちゃんと社長になっていただかないと! そう言う事ですから!私が身を引いても私の居ない分だけ火遊びの相手をお増やしになるのは止めてくださいね」
そう言って香月は常務と軽いキスを交わした。
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今はやりの“おしゃれ居酒屋”とでもいうのだろうか?
照度を落としたボックス席に座っている明野は、目の前にグラスを置いたままずっと入口に視線を向けていたが、やにわに立ち上がって目的の女性へ手を振った。
明野の相棒だった女性がそれに気が付き、二人は席に着いた。
「お呼びいただきありがとうございます」
「こちらこそ、入院なさっているお母様がいらっしゃるのに無理にお呼び立てしたのではないかと……」
「とんでもない! こちらの都合に合わせていただき恐縮です!」
「私なら大丈夫です。天涯孤独なお気楽モンですから」
こう言った前置きの挨拶の後、二人だけの……祝勝とも残念とも言い切れない微妙な会は始まった。
盃を重ね、お互いほろ酔いになったかと思われるタイミングで明野は切り出した。
「今、アイテックさんとやり取りしているのですが……」
「……ああ、そうなんですか? 今はもう部外者の私に言ってしまって大丈夫なんですか?」
その問いに答えずに明野は話し続ける。
「……その“アイテックさん”のメールが少し面白くて……こういう記号を付けて来ました」
明野はテーブルの上にコップの露で逆三角形の三つの点を打った。
『∵』と
テーブルから一瞬顔を上げ、すぐ視線を外した“相棒”に明野は語り掛ける。
「遠い昔に数学で習ったきりのこの記号の意味が『なぜなら』と思い出させてくれたのはあなたでしたね」
“相棒”はその問い掛けには答えないが明野は言葉を続ける。
「私はこう考えています。この記号を書いて寄越したアイテックの人間こそ香月紗那!
あなただと!
『偶然だ』なんて言わないで下さいね! あれほど美しい仕事が出来る人を私はあなた以外に知らないのだから」
香月紗那は明野透に顔を向けて悪戯っぽく微笑んだ。
「言いはしませんよ!カマを掛けましたから。
蒲田の案件なんですもの! このくらいの悪戯は許して下さいね」
「いいですよ」と言いながら“透”は“紗那”のお猪口に酒を注ぐ。
「また二人三脚をしてくれるなら」
「それはありがたいお申し出なのですが……
暗黙の3年ルールがございますから……
なので、私のこのお願いは叶いませんか?」
紗那は空になっている透のお猪口に三回に分けて酒を注いだ。
その盃を透は三回に分けていただき、紗那もそれに倣った。
1たす1は2というのは算数のお話。
でも、人と人では必ずしもそうはならない。
∵!!
そこには愛があるから!!
差しつ差されつのサシ飲みも……三々九度となる。
おしまい
今朝、思い立って書いてみました。
推理小説にならなかったかしら……(^^;)
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