第二話 その名は仏さん
暗い世界で誰かが呼ぶ声がした。胸が苦しくなり息を吐く。口にしょっぱい海水が込み上げてくる。目を開けば、日焼けした小さな女の子が馬場の顔を覗いていた。女の子が物珍しそうに馬場を見て声を掛ける。
「死んだか? 土座衛門。役場からゴミ収集車を呼んで来ようか? 今日は燃えるゴミの日だから回収してもらえるぞ」
重い体を起こすと砂浜だった。天気は明け方だった。どうにか、島まで流れ着いた。助かった。どうやら、神はまだ俺に何かをさせたいらしい。
「死んでねえし、俺の名は土座衛門でもない。馬場だ。あと、ゴミ袋に入らないから燃えるゴミでは回収してくれないよ」
少女は馬場の言葉に納得した。
「そうか、なら、お前を拾ってやるから財布の中身を一割よこせ」
財布と言われてポケットを探る。財布はなくなっていた。気が付けば無一文だった。この大きさの島なら郵便局くらいあるか。郵貯カードの再発行はしてもらえる。クレジットカードもサポートデスクにつながれば問題ない。
「悪いな、全財産をなくした。やれる物は何一つない」
「ゴミと変わらんな。それで、この島には何しにきたんだ?」
身分証を無くしていたら面倒だな。胸ポケットを調べると身分証はあった。運が悪いのか良いのかわからないが、最悪についていないわけではない。身分証を見て少女が目を輝かせる。
「そのカードは島にきた探索者の証。それで、どこの所属だ。黄金樹? 大黒商会? ミレニアム・バンク? 七本槍? ウイン・ゴッズ? エピック大学? 始祖の会? まさか、ウロボロス・ファミリアや外様組ってことはないよな」
知らない単語が次々と羅列される。ダンジョンに入る者は探索者と呼ばれる。探索者が所属する組織が島では色々あるらしい。馬場もどこに所属になるかわからない。そもそも選べるのかは不明だ。
少女は馬場が答えないと、がっかりする。
「なんだ、泡沫なのか?」
組織に規模があるのなら知っておきたい。こういう現地の人間の情報は的を射ている状況が多分にある。知らずに評判の悪い組織には行きたくはない。
「後でお菓子を買ってあげるから教えてくれ、どこが有望なんだ」
「先に上げた七つがメジャーって呼ばれている大手だ。後の二つでは嫌われ者って呼ばれている。あとは小さいのがいくつかあるけど、消えては現れるから泡沫って呼ばれている」
ウロボロス・ファミリアと外様組は避けたほうがいいな。名を上げるにしても島に嫌われている奴から潰していったほうが良い。どうせ、最後に天辺を取るのは俺だが、戦いは気分よく始めたい。
少女が馬場の身分証を見て気が付いた。
「その身分証にはマークがないな。無印ってことはまさか『虚無皇』のメンバーなのか?」
『虚無皇』の単語はさきほどの説明には出てこなかった。「皇」と付くので大層な名前だが、名前倒れか。
先の説明が正しければ、『虚無皇』は先行き不安な泡沫組織だ。馬場は小さくても悪くはないかなと考えた。小さいならすぐに組織のトップに立てる。そのまま他の九つに喧嘩を売って、従えればいいだけ。これは暇つぶしの天下取りだ。
「礼はするから虚無皇のアジトなり溜まり場まで連れていってもらえないか?」
きょとんとした顔で少女が告げる。
「何を言っているんだ? 虚無皇にアジトや溜まり場はないぞ」
あまりの弱小ぶりに、いささかげんなりした。小さくてもよいといっても限度がある。
「集まる場所までないなんて、零細もいいとこだな。今も存在しているのか?」
もしかして、俺が島に到着した時には『もうなかった』とかなら弱すぎだ。
馬場の言葉に少女は驚く。
「何を言っているんだ? 虚無皇は泡沫じゃないぞ? 規模は小さいが最強組織だ」
この少女は馬鹿なのだろうか? 最強かつ零細とはこれいかに?
「いやだってさっき名前を挙げなかっただろう?」
「七大メジャーと二大ローグ。これに虚無皇を加えて、ナイン・プラス・ワンだ。これが迷宮島の実力者のレジェンズだ」
どう呼ばれていようと相手が強ければ問題ない。弱すぎたら、ここまで苦労して来たのが馬鹿みたいだ。だがちょいと引っかかる。
「なんで、プラス・ワンなんだ? 普通にテン・レジェンズって名付ければいいだろう?」
「虚無皇だけが別格なんだ。虚無皇のトップの仏さん(ぶっさん)が、この島最強だからな。九つの組織のトップも元は虚無皇に所属していたメンバーだった」
どうやら時間を掛けて戦わなくていいらしい。一休みして、仏さんとやらを倒せばそれでしまいだ。トップの取り巻きが何人かいるだろうが、順に始末していけばよい。よし、暇つぶしを兼ねた天下取りを始めよう。
「おーい」と呼ぶ声がして少女が振り返る。少女の視線の先にはパッとしない感じの小太りの中年男がいた。漁師にしては日焼けしていない。警官の恰好でもない。人の良さそうな顔をしているので、島民Aといった感じだった。
服装は麻のズボンに布の赤いシャツ、とこれまた特徴がない。ゴミ拾いにきた漁師か少女の保護者だろうか?
少女が笑顔で手を振る。
「ここだよー、ちょうどよいところに仏さんが来てよかったな」
驚きだった。なんの威厳もオーラもない、この黒髪の中年のおじさんが島の最強の探索者? 強さとかっこ良さは比例しないが、あまりにも普通過ぎる。たまたま最強探索者と同名の人間だろうか?仏さんはのほほんとした顔で歩いてくる。
まるで隙だらけ。斬りかかれば仕留めるのに三秒とかからないだろう。仏さんは馬場に優しい顔で声を掛ける。
「ウチに来る予定の馬場くんか? えらい目にあったな。でも、生きていてなにより。とりあえず借りたアパートに案内する」
馬場は立ち上がって確認する。
「貴方が島の最強探索者で、クランの虚無皇を率いる仏さんで間違いないですか?」
「合っているよ。最強かどうかは噂だから知らんけど」
嘘臭い。俺はからかわれているのか?
「腕前を試していいですか? 俺は今どの辺りにいるか知りたい」
仏さんはうんざりだといわんばかりに顔を顰める。
「しゃあないな。いいけども、泳ぎ疲れただろう。飯もまだだろう。休憩してからのほうがいいのと違う?」
正直に言えばこんな中年オヤジを倒すのは朝飯前に思えた。馬場が立って構えると、仏さんが確認する。
「素手でいいの? 武器を使ってもいいよ」
武器など不要だが、あまりに相手を馬鹿にするのも悪い気がした。勇魂武器を出現させて構える。勇魂武器を見ると、少女は巻き込まれると思ったのか距離を空けた。
仏さんは動かない。刀の間合いにいるのに、仏さんの顔には微塵の恐れも気負いもない。もしかしてできるのか? 俺のつまらない世界を変えられるのか。馬場は胸が高鳴ってきた。馬場は刀を高速で振り上げて、振り下ろす。会心の一撃だった。仏さんは血飛沫を上げて、真っ二つになった。