国王の涙
ベネディクトは、冷たい地下牢の簡素なベッドの上に身体を横たえていた。しんと静まり返った牢の中で、起き上がる気力もなく、力なくベッドに身を沈めていた彼は、廃嫡は免れないことを自覚しつつも、誰の視線もない薄暗い空間の中で、皮肉な笑みを浮かべていた。
(もう、何もかもがどうだっていい。次の王になれないのなら、僕は生きていたって、死んでいたって変わらないのだから)
うとうとと微睡みかけていた彼の脳裏に、ふっと幼い頃の記憶が甦る。思い出すことすら少なくなっていた遠い過去に、ベネディクトはぼんやりと思いを馳せた。
***
物心ついた時には、母はもう他界していて、僕の側にはいなかった。代わりに僕を可愛がってくれたのは、アーディンの母上だった。
僕の母上に生き写しだという彼女は、とても美しい女性だった。まだ幼いアーディンを腕に抱きながら、彼女は優しく僕の頭を撫でてくれたし、柔らかな声で僕に絵本を読んでくれた。
僕は、母の面影を彼女に重ねながら、なぜ、僕は彼女の息子ではないのだろうと思った。彼女が僕にも、惜しみない愛情を注いでくれたことはわかったけれど、ほんの少しの憐れみに裏付けられたその優しさを、僕は次第に息苦しく思うようになった。何の憂いもなく彼女に愛されているアーディンへの妬みと憎しみが、少しずつ、少しずつ心の中に育っていった。
それぞれ、母方に強い後ろ盾のある兄たちと比べて、そのような後ろ盾が欠けている上に、既に母すらもいない自分が惨めだった。僕に初めて他人の心の声が聞こえたのは、ちょうどその頃だっただろうか。
力のない僕を嘲笑う声が、目の前で穏やかな笑みを浮かべている家臣から聞こえた時、僕がどれだけ驚き、傷付いたか。……それは、一応は王子である僕に対する、上っ面だけの笑顔とは裏腹な内心を抱えていた家臣に対する失望と、自分が授かった期待外れの魔法の力への、暗澹たる気持ちの入り混じったものだった。
僕に聞こえて来る人々の心の声は、日に日に煩くなっていった。しかも、その大半が、力のない僕を見下して嘲るものばかり。王子という身分にありながら、実質的な力を持ち合わせていない僕に対する、ほんの少しの妬みの混じった軽蔑。両耳を塞いでも聞こえて来るこれらの声に、僕は気が狂いそうになったけれど、沸々と激しい怒りが心に湧き上がって来る中で、僕は決意した。ーー彼らを皆、僕の前に平伏せさせてやるんだ。誰も敵わない、見上げることしかできない王の地位を手に入れて、皆を力で捻じ伏せてやる、と。
そう思ってからは、聞こえてくる声が煩わしくなくなった。ひっきりなしに響いて来る声の中から、欲望の声を拾う。僕が成長していく中で、彼らの欲しいものを上手く与え、欲望を満たしてやれば、驚くほど簡単に、掌の上で彼らを転がせることを知った。それは金だったり、地位や名誉だったりしたけれど、それらと共にほんの少し、彼らの自尊心をくすぐってさえやれば、それで良かったのだ。僕は、どこか冷めた目で彼らを見ながらも、着々と手駒を増やしていった。
兄たちは皆、優れた魔法の力を持っていた。この国の王族には、長子から順に強い魔法の力が受け継がれると言われているが、どうやらそれは真実らしい。長兄のエリック兄上など、たった一人でこの国一番の軍隊一つ分に匹敵するほどの強力な魔法の力を持っているものだから、僕は喉から手が出るほどに、その力が羨ましかった。取るに足らない自らの魔法を隠しながらも、それに頼るしかない僕とは、雲泥の差だった。
アーディンは、どのような魔法が使えるのだろう? 僕より弱いはずの魔法、それが何かを知りたかったのに、なぜか彼は幼い頃から心が読みづらかった。けれど、それは意外なところからわかった。アーディンの母上が、王族である彼に魔法の力を継がせてやれなかったことを、申し訳なさそうに嘆く心の声が、僕に聞こえて来たのだ。だから僕は、弱い僕よりもさらに力のない彼のことを、ことさらに見下していた。
だからといって、アーディンが王位継承権争いから外れた訳ではなかった。アーディンは、いつもその瞳に希望を宿していて、魔法が使える兄たちと比較したら劣るはずの、自らの力を諦めることもなければ、日々の努力を怠ることもなかった。捻くれた僕とは違う、希望の光が灯った、真っ直ぐな彼の明るい目を見る度、僕はそれを疎ましく思ったものだけれど。
彼の生まれ持った才能か、または努力の甲斐もあったのか、アーディンの身体能力は兄弟の中でもかなり高い方だった。それに、アーディンが幼いながらも思慮深くて賢いことを、父上までもが買っていた。アーディンの愚直な努力も、父上の瞳に彼が映っていることも、ひたすらに僕を苛立たせた。僕だって、父上に認めて欲しかったのに。愛情に飢え、承認欲求に苛まれていた僕にとって、国の頂点に立つ父上が僕に向き合って、僕を認めてくれることは、一つの夢でもあった。だから、父上が瞳を閉じる前に、最後の力を振り絞って僕にあの魔法を掛けた時、ようやくこの僕を認めてくれたのだと知って、全身の血が逆流するような興奮を覚えたものだ。
ワイアット兄上が、末の弟に過ぎないアーディンの命を狙ったのだってーーまあ、僕も同じくアーディンの命は狙っていたのだけれどーー、父上にも一目置かれている、彼の存在に対する危機感があったのだろう。ワイアット兄上がアーディンを迷いの森に追い込んだと知って、僕は内心ほくそ笑んだものだったけれど、彼はどうやったのか、しばらくしてから、何食わぬ顔をして、また王宮に戻って来た。それも、驚くような力を携えて。
いくらアーディンが身体能力に優れていようが、迷いの森へ入る前の彼の力は、まだ常識の範囲内だった。それが……迷いの森から戻った途端、彼は突然頭角を現した。身体強化魔法を操り、騎士団を統べるライアン兄上をも凌ぐ力を、アーディンは身に付けて帰って来たのだ。まるで翼が生えたように高く跳躍し、風のように舞いながら、目にも止まらぬ速さで剣を扱うようになったアーディンの姿を前にして、僕は信じられない思いでいた。後天的に魔法の力を得るなんて、聞いたことはなかったのに、そうだとしか思えなかった。彼は何食わぬ顔をして、魔術院にも入学することになる。……アーディンに何が起きたか知りたくて、彼の心の声に耳を傾けたけれど、わかったのは、たった二つのことだけ。
一つは、アーディンに心の底から想う少女ができたということ。寝ても覚めても、ただ一人の少女を一途に想い、彼女に恋焦がれながら、その存在を心の支えに鍛錬を重ねる彼の気持ちは、僕には到底理解のできないものだった。けれど、まあ、これは僕にとってはどうでもいいことだった。
もう一つが、僕にとっての興味の対象だった。アーディンが得たあの力の正体は、何なのか? ……彼の心から読み取れたのは、それは貸してもらっている力に過ぎないのだと、返す時が来るまでに、できる限り自らの力を高めておこうと、ただそれだけだった。その謎がようやく解けたのは、父上の部屋を訪れた、魔女とも言われる老婆の心の声を聞いた、あの時だ。まさか、あの星降る宵で、ちょうど迷いの森にいたアーディンが、星の加護の力を得ていたとは。
ああ、もしも僕に星が降り、アーディンのような強い加護を、僕が得られていたのなら。……そうしたら、僕の未来は変わっていたのだろうか? それとも、なぜかローザを慕う王家の守護獣、あの一角のペガサスに見放された僕には、そもそも王になる未来などはなかったのだろうか。
もう、すべてが僕の手を離れ、何がどうなっても構わないと思いつつ、言葉に言い表せないような恐怖だけが、時々僕を襲って来る。あれだけ煩く聞こえていた声がぱたりと止んで、何も聞こえない、音のない世界。しんと静まり返ったその世界の中で、ようやく心が凪いだように感じることもあるけれど、牢の中を誰かが訪れる時など、近付いた人影でようやくその存在に気付き、ぞっとすることもある。僕を取り巻く世界は、あの一日ですっかり変わってしまった。
僕は、こんな命なんて早く尽きればいいのにと、自暴自棄な笑みを口元に浮かべることもあれば、この先僕を待つ真っ暗な未来に対する怖れに、小さく身を竦めることもあり、そんな意味のない時間を、ただ交互に繰り返していた。
***
「陛下、本当によろしいのですか?」
「ああ、構わない。しばらく、ベネディクトと二人きりにしてくれ」
地下牢にいるワイアットと言葉を交わした後で、国王は次にベネディクトのいる牢を訪れていた。少し戸惑った様子の騎士に向かって、国王が頷く。一礼をして牢の外に出て行く騎士を見届けてから、国王は、ベネディクトが横たわるベッドの脇にある小さな椅子に、静かに腰を下ろした。まだ若いはずのベネディクトの顔に刻まれた皺を眺めながら、国王はそっと彼の顔に手を伸ばした。生命の力を吸い取られ、やや干涸びたように見えるベネディクトだったけれど、目を閉じている彼は、幼い頃のような無垢な表情をしていた。
「すまない……」
国王は、未だ忘れることのできない、愛する女性の名前を呟くと、ベネディクトの頬にそっと触れた。穏やかな寝息を立てているベネディクトの顔には、確かに彼女の面影が感じられた。
「……あの世で君に会えたなら、至らぬ自分を詫びようと思っていたが、まだ、それも叶わぬようだな。……ベネディクト、お前にあんな罪を犯させてしまうなんて、私は父として失格だな。私はこれでも、お前のことを、心から愛していたのだよ。お前には伝わらなかったようだが、今でも変わらずにな……」
もしベネディクトの瞳が開いていたとしても、もうその耳には届くことのない言葉が、国王の口から震える声で紡がれる。彼の瞳からベネディクトの頬に、温かな涙が一雫、ぽたりと零れた。
本日中にもう一話投稿します。次話で完結です。
もう少しだけ、お付き合いいただけましたら幸いです。




