一角のペガサス
金色の大きな翼を広げたペガサスは、一度だけその翼を力強く羽ばたくと、あっという間にベネディクト王子と私の前にひらりと降り立った。
(これが、アーディンやエリック様が長い間探していたという、この国の守護獣……)
私は、ベネディクト王子の両手が首に掛けられていることも忘れて、目の前に現れた美しい一角のペガサスに、惹きつけられるままに見惚れていた。まるで神話から抜け出して来たかのような、気品のある輝かしい馬体に、すべてを見透かしているような理知的な瞳をしたその姿は、この国を守り導く存在と言われているのに相応しい威厳があった。
ベネディクト王子が、その瞳を煌々と輝かせると、感嘆に声を震わせた。
「ああ、この白銀の馬体に、金色の翼と額の角ーーこれはまさに、この国の次期王を選ぶという一角のペガサス。僕のところに星は降らなかったけれど、それ以上に、僕が次期王に相応しいことを示すものが……! そうか、君は僕を選んで、ここにやって来てくれたんだね……」
少ししわがれた声でそう呟いたベネディクト王子は、瞳に涙を浮かべて、私の首から手を離すと、星を受けたばかりでまだ光を帯びているペガサスに向かって、その両腕をそっと伸ばした。
息を詰めるように、その場に集う人々の視線がペガサスとベネディクト王子に集まる中、私も至近距離から神々しいペガサスの姿を見つめていた。
(本当に、このペガサスはベネディクト王子を選ぶというの? でも……)
私の目には、そのペガサスの澄んだ濃茶の瞳には、燃えるような怒りが宿っているように見えたのだ。
ペガサスは、さらに一歩前に進み出ると、すっと大きく首を振った。金色の角が、ベネディクト王子の身体を直撃する。
「ぐあっ……!?」
ベネディクト王子の身体は、金色の角に軽々と弾かれ、高く宙を舞うと、近くの茂みにどさりと落ちた。私は、ベネディクト王子がまだ起き上がれずにいる様子を確認してから、間近に顔が見える一角のペガサスに視線を移した。目の前で起きていることを飲み込み切れずに、まだぼんやりとしている私の顔に、凛々しいペガサスは柔らかな白銀の鼻面を擦り寄せて来た。
「えっ、どうして……?」
温かく寄せられた鼻を撫でながら、私はもう一度、彼の濃茶の優しい瞳を覗き込んだ。
「もしかして、あなたは……」
それは穏やかで温かな色を湛えた、私を安心させてくれる瞳だった。さっきベネディクト王子に向かって振り抜かれた角も、私の記憶にある色とは違ったけれど、確かにその見事な角のさばき方には見覚えがあった。彼の鼻面を撫でていた掌を首筋に移し、そこに残る傷跡に触れてから、私はようやく確信した。
「ランス。あなたが、この国の守護獣だったのね……」
私がジュリアンの家に向かう途中に、私を庇ってランスが受けた矢の傷が、確かにペガサスの首筋の同じ場所に残っていた。彼の首に残る傷跡を指先でなぞり、その顔を見つめると、彼はそうだとでも言いたげに、私に小さく鼻を鳴らした。アーディンも、すぐにこのペガサスがランスだと気付いた様子で、彼に駆け寄って、感謝を込めた優しい手付きでその首を叩いた。
「ランス、ローザを助けてくれてありがとう。恩に着るよ」
アーディンの言葉に応えるように、ランスは嬉しそうに、その顔をアーディンにも擦り寄せた。アーディンはランスの鼻先を撫でてから、私の身体を強く抱き締めた。
「よかった、ローザ。君が無事でいてくれて」
「アーディン。いつも私のことを一番に考えてくれて、ありがとう」
どんな時でも、自分のことより私を優先して、私を尊重してくれるアーディンの顔を、私はじっと見上げた。一見、意志の強くて強引な彼がーーいや、実際に強引なところもあるのだけれどーー、その真っ直ぐな瞳の中心に私を映して、私を心から大切にしてくれていることを、成長した彼と再会してからの時間を一緒に過ごす中で、私は感じずにはいられなかった。
アーディンの腕が解かれてから、私は、今は白銀に輝いているランスの首筋に、ぎゅっと抱きついた。
「いつだって、あなたは私を助けてくれるのね。心から感謝しているわ、ランス」
私たちの様子を固唾を飲んで見守っていた人々のうち、沈黙を破って一番最初に口を開いたのは、床に膝をついたままの、あの公爵だった。悔しそうに顔を歪めて、右の拳を握り締めた彼は、その拳を床に勢いよく振り下ろした。
「このままでは、すべてが水の泡だ。くそっ……。ベネディクト王子、これで終わりのつもりか? 返事をしろ!」
がさり、と草が揺れた音が聞こえて、私はびくりと身を竦めると、恐る恐る後ろを振り返った。ゆらりと身体を起こしたベネディクト王子は、幽霊のような顔をしながらも、その瞳はじっと私を見つめていた。
「まだだ……まだ星は降っている。僕に星が降れば、あの特別な加護が得られるのなら、僕にもまだ可能性が。それに、ああ、そうだ。もう一度、あの魔女の声を聞くんだ。あの魔女が、ほかに何を知っているのかを聞けたなら……」
『ヤドリナさんの声が何だって?』
ディムが、激しい怒りの籠った、凍てつくような瞳でベネディクト王子を睨んでいた。
『ローザにこんなことをするなんて、絶対に許さない。あなたはもう二度と、誰の声だって聞くことはない』
ディムの瞳が、藍色の前髪の奥で赤く輝いたのと同時に、顔を上げたランスがその場で大きく一度、立派な金色の翼をはためかせた。辺りを包み込むように、ひゅうっと風が舞う。
公爵の隣にいた青年が、ぱちぱちと目を瞬くと、きょろきょろと辺りを見回した。
「あれ、私は、ここで何をして……?」
青年の様子を見て、オリヴァー様の顔がすうっと青ざめていた。顔色を失ったオリヴァー様の姿を見て、私は双頭の竜が翼を羽ばたいた後の、蒼白になったワイアット様の姿を思い起こしていた。青年のほかにも、不思議そうに目を瞬いたり、目を擦ったりしている騎士が数名目に入った。きっと、この空間で掛けられていた魔法は消え失せ、オリヴァー様の魅了魔法の力も失われてしまったのではないかと、私にはそんな気がした。
「あああああっ!!!」
突然、ベネディクト王子の空気をつんざくような悲鳴が聞こえて来た。
「聞こえない、何も。誰の声も、自分の声すらも。どんな小さな音だって……」
混乱した様子で叫び続けている彼を見て、エリック様が小さく首を横に振った。
「ベネディクトも、ここまでのようですね。……何が起きたのかわかりませんが、彼は聴力を失ったのでしょうか?」
その時、私の前でランスが首を上げると、空気を揺らすように大きく嘶いた。ディムがランスを見つめ、驚いたように耳を澄ませている様子を見て、私は彼の耳が聞こえるようになっていることに気が付いた。エリック様の言葉の通り、きっと、代わりにベネディクト王子の耳は音を失っているのだろう。
ランスの嘶きに呼応するように、空が次第に明るさを取り戻し始め、今しがたまで仄暗い空を埋め尽くすように輝いていた星々が、空に溶けるようにその光を失い出した。
「これで、この特別な舞台も幕切れのようですね」
陽光が戻ってきた空を見上げながら、エリオット様が呟いた。




