舞い戻った竜
王子とその従者たち、そしてオリヴァー様が部屋を出て行くと、たちまち部屋の中はしんと静かになった。部屋にはまだ、数人の従騎士たちが残っている。私がバルコニーから部屋の中を眺めていると、そのうち一人の騎士が、部屋の中を静かにバルコニー付近まで移動して来た。どうやら、バルコニーにいる私の様子を窺っているようだった。私は、先程慌てた様子で部屋に入って来た騎士の言葉を、頭の中で反芻していた。
(国王陛下の竜が戻って来たというのは、どういうことなのかしら……? できることなら、今のうちにここから逃げたいのだけれど。あの騎士たちは、私のことを見張っておくようにとでも指示されているようね)
まだ、立ち去ったばかりのオリヴァー様の言葉が、私の心にずしりと重くのしかかっていた。どうしてこんなことになったのだろう、オリヴァー様がアーディンにしたことは回避できなかったものかと、そう思い悩む自分もいたけれど、ここで立ち止まっている訳にはいかない。アーディンを助けるためには、あまり時間が残されてはいなさそうだった。オリヴァー様に言われた通りに、このまま大人しく待っているつもりはなかった。
私は、部屋から逃げられそうかどうか、扉までの導線を確認したけれど、バルコニーから部屋の扉に行き着くまでには何人もの騎士たちがいて、とても部屋の扉から廊下に逃げられそうな雰囲気ではなかった。バルコニーの手摺り越しに外を眺めて、地面までの高さを確認する。二階にあるその部屋から、手入れされた植栽の緑が覗く庭までは、ジュリアンの家で私が飛び降りたバルコニーよりも少し高さがあるように見えたけれど、飛び降りられないことはなさそうだった。
(私の足で逃げるだけなら、すぐに捕まってしまいそうだけれど。もしもランスが来てくれるなら、何とか逃げられるかもしれないわ)
ランスのいる厩は、そう遠くない場所ではあったけれど、ランスをどうやって呼べばいいのかが問題だった。いつもランスを呼んでいる、あの口笛をここから吹けば、すぐに騎士にたちに気付かれて、警戒した騎士がここまで飛んで来てしまうだろう。
(あっ、そうだ。ヤドリナお婆ちゃんにもらった、あの笛のようなもの……)
私は部屋側に背を向けて、ポケットからこっそりと、白い小さな笛らしきものを取り出した。昨夜はそっと吹いてみたそれに、今度は胸いっぱいに息を吸ってから、思い切り息を吹き入れた。やっぱり、耳に聞こえる音は出なかったけれど、空気は昨日よりも激しくびりびりと揺れているようだった。笛に息を勢いよく吹き込みながら、心の中で、私は必死に祈っていた。
(どうか、この笛の響きがランスの耳に届きますように。私のところに来て、ランス。お願い)
私が胸の中で祈り終える頃には、軽快な蹄の音が私の耳に響いてきていた。黒く輝く馬体が私の視界に入るまで、そう時間は掛からなかった。思わず口元に笑みを浮かべた私が、バルコニーの手摺りからランスの姿を見つめた時、眺めていた景色が、先程までとは打って変わって薄暗くなっていることに気が付いた。
(……?)
まるで夕刻のように、ふっと空の色が沈んでいた。今しがたまで出ていたはずの陽が、すっかり翳って見えなくなっている。突然の雷雨が訪れる前のような、そんな暗い色合いの空に見えたけれど、不思議なことに、そこには雲の影は見えなかった。
(何が起こっているのかしら。でも、まずは……)
ランスがバルコニーの側まで来たのを確認して、私はひと思いにバルコニーを飛び越えた。ランスが、その背中で器用に私を受け止めてくれた。
「あの娘、逃げたぞ……!」
騎士が叫んだ声を遠く聞きながら、私はランスの首にしがみついた。
「アーディンの所に行きたいんだけど、さすがにランスは知らないわよね……」
走るランスの背で呟いた私に、遠くない場所から耳慣れた声が掛かった。
「ローザ!」
驚いて振り返った私の視界が捉えたのは、こちらに駆けてくるジュリアンの姿だった。ジュリアンの肩には、金色の翼をしたテラの姿も見える。私は速度を落としたランスの背の上から、ジュリアンに尋ねた。
「ジュリアン。どうしてこんな所に? それに、何でテラも一緒なの?」
「さっき、この中庭にテラが飛んで来たのが見えて、慌てて外に出て来たんだよ。テラだけじゃない。ほら、見て……」
ジュリアンに言われた通り周囲を見渡すと、少し変わった特徴のある、普段は迷いの森でしか見掛けないような動物たちが、翼をはためかせて、あるいは急ぎ足で、この場所に集まって来ているようだった。様子を窺うように、木々の枝の上や、茂みのそこここから顔を覗かせている動物たちも見える。
「何が起きているのかしら。この子たち、この場所に集まって来ているの……?」
「さあ。僕にもさっぱりわからないんだけどね。でも、皆、空を見上げているみたいなのがわかる?」
「本当ね……」
集まって来た動物たちは、首を持ち上げて、暗くなった空を眺めているようだった。テラの真っ赤に輝く瞳も、同じように、淡く澄んだ群青色に染まった空を見上げていた。
私は、はっとしてジュリアンに尋ねた。
「ところでジュリアン、アーディンのいる場所を知らない? アーディンが無実の罪を着せられそうなの」
「それは本当かい?」
ジュリアンは大きく目を瞠ると、心配そうな色をその瞳に浮かべながら、思案気に口を開いた。
「……はっきりとはわからないけど、少し前から、この先の部屋に人が集まっているみたいなんだ。庭に面した、特に警備の厳しい部屋だよ……このまま進めば、すぐに見えて来る。ついさっき、この中庭に出るために近くを通ったら、また騒がしくなっていたようだったから、もしかしたらアーディン王子もそこにいるかもしれない。いなかったとしても、彼と仲の良いエリック王子もあの辺りで見掛けたから、彼に聞けばきっとわかるんじゃないかな」
「ありがとう! とにかく行ってみるわ」
「ローザ。何が起きているのかわからないけど、君も気を付けてね」
「ええ、わかっているわ」
私はジュリアンに手を振ると、両の踵に力を入れて、ランスの駆ける速度を上げた。
***
「ここに立ち入ってはならないと、そう言っているだろう」
剣を携えた数人の騎士が、国王の眠る部屋の前に立ちはだかっていた。剣を抜いた一人の騎士が、不思議そうに、目の前の二人を見て首を傾げた。
「そもそも、王宮の外からここまで、お前らどうやって入って来れたんだ……?」
騎士は、目の前にいる赤髪の老婆と、藍色の長い髪が目元まで覆っている青年を見つめた。素朴な出で立ちの彼らが、王族の許可を取って王宮へと来ているようには見えなかった。赤髪の老婆が、騎士に向かってほっほっと笑った。
「ああ、それはな」
二人の後ろから、双頭の竜がふわりと姿を現した。
「なっ、何だ? まさか、この二つの頭のある竜は、国王陛下の……」
竜が騎士を見つめると、途端に騎士が構えていた剣が、灰のようにぼろぼろと崩れ落ちた。床の上に落ちた、見る影もなくなった剣を目にして、騎士たちはぶるりと震え上がった。
「これは、本物の国王陛下の守護竜……」
「わかったかい。わかったのなら、さっさと道をお開け」
足を竦めた騎士たちが数歩下がり、老婆が扉に手を掛けたところで、風のような速さでその場に駆けて来た青年から、老婆に向かって声が掛かった。
「婆さん! こんなところに来てたんだな。ディムも一緒か」
「おお、ルシファーかい。お前さんたちと別れたばっかりだと思ったら、この短期間に目まぐるしく、色んなことが起きているようだねえ」
ルシファーは、ヤドリナに向かって厳しい顔で頷いた。
「ああ。アーディン王子が、この中で捕まってる。国王陛下を眠りに追いやったって、あらぬ疑いを掛けられてな」
「おやおや。濡れ衣は晴らさないといけないねえ……」
ルシファーが、ヤドリナに代わって、目の前の分厚い扉を力いっぱい押した。ぎっと大きな音がして、国王の眠る部屋へと続く扉が、三人の前でゆっくりと開いた。




