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突然の来客

どうしたのですか、と、彼女に聞くまでもなかった。


「その左頬……」


私がそう呟くと、堰を切ったように、目の前の年若い女性の瞳から大粒の涙が溢れ出した。両手で顔を覆うと、わっと泣き出した彼女は、嗚咽混じりに声を絞り出した。


「ああ、もう、終わりだわ……! こんなに醜い顔になってしまって。……手持ちの薬をつけてみたのだけれど、どれも効果があるとは思えないの。それどころか、だんだん爛れが広がっているのよ。これは、治るのかしら? いったい、どうしたら……」

「少し、見せてもらえますか?」


頷いた彼女の頬に、少し顔を近付ける。


(これは、単なる爛れじゃないわね……)


何か肌に合わないもので爛れが生じたのなら、赤くじくじくとするのが普通だろう。けれど、彼女の頬に広がる爛れは、深緑色のような毒々しい色をしていた。私も、このような症状はまだ見たことがない。元々の彼女の肌が陶器のように滑らかで、透き通るように色白であるために、尚更その爛れが痛々しく目立っていた。


「……一旦、そこの椅子にお掛けいただいても?」


まだ涙を流しながら肩を震わせている彼女を落ち着かせるために、カウンターの脇にある椅子まで手を貸して案内する。


大人しく椅子に腰を下ろした彼女の頬をもう一度確認するために、私は屈んで彼女の頬を再度じっと見つめた。

よくよく見ると、爛れ自体がまるで生きているかのように、爛れの周辺の、深緑色にじくじくとした部分が、ほんの少しずつ、じわり、じわりと広がっているのがわかる。


(こんな症状、見たことがないわ……。でも、きっと、一番効果があるのは……)


私はポケットからリヴル草の軟膏を取り出した。さっき医局にある薬は一通り見たけれど、抗炎症作用があり、肌の治癒力を高めるリヴル草が、他の薬に比べても、恐らく一番効くのではないかと思われた。それに、リヴル草を使って副作用が出たのを見たことがない。この爛れを、跡を残さず治せるかはわからなかったけれど、とりあえず最善と考えられるリヴル草の軟膏を使ってみることにした。


小さな軟膏のケースを開けて、リヴル草の軟膏を指先に少量取る。


「ちょっと、触りますね?」


微かに頷いた彼女の頬の爛れに、ひんやりとした軟膏を付けた指先でそっと触れると、なぜだかジュッというような、今までに覚えのない感触があった。音が出た訳ではないのだけれど、確かに指が触れた部分で何かが起きているのがわかる。


(もしかして。彼女の症状は……何かの魔法によるものだったのかしら?)


私の指が触れた部分から、毒々しい深緑色がすうっと消えていく。リヴル草の軟膏がいくら治癒力が高いといっても、さすがにこれほどすぐに、目で見てわかるほどに目覚ましい効果が出る訳ではない。少し戸惑いながらも、軟膏を彼女の頬に伸ばす度、私の指先が触れた部分の色が変わり、ほの赤い程度の、肌本来に近い色に戻っていくのを、じっと見守っていた。触れられている彼女も、何かが肌に起きているのは感じているようで、どこか不思議そうな表情をしていた。


彼女の頬の爛れに一通り軟膏を伸ばしきり、異様な深緑色が消えたことを確認してから、私はカウンターの上に置いてあった小さな鏡を彼女に手渡した。


「どうでしょうか、頬の炎症は大分落ち着いたようですね。痒みや痛みなど、まだ頬に残っていますか?」

「まあ……!」


恐る恐る鏡を覗き込んだ彼女の顔が、今度は上気して喜びに輝いている。頬には、まだ広がった炎症の跡が薄赤く残ってはいたけれど、先程彼女が医局に来た時と比べたら、雲泥の差だった。


彼女は、その大きな瞳をまたじわりと潤ませた。


「信じられないわ! あの気持ちの悪い色が消えて、頬にあった嫌な感じもなくなったわ。貴女のつけてくれたその薬……それは、何?」

「これですか? これは、リヴル草の軟膏です」


ひゅっ、と彼女の細い喉が音を立てた。リヴル草を知っているのだろうか。


「そ、それは……。相当、高価な薬ではなくって? 私、今、持ち合わせがそれほどなくて…」


困ったように視線を彷徨わせた彼女に、私はにこりと笑った。


「実はこれ、私の私物なんです。だから、お代は結構ですよ。それから、まだ、少し頬に炎症は残っていますから。一日二回、朝夕に、頬にこの軟膏を塗ってもらえますか? このケースに入っている量を塗り終える頃には、きっとお肌も元通り、綺麗になっていると思いますよ」

「でも……。貴女の私物なら尚更、対価もなしにいただくのは……」


彼女の視線は食い入るように、私の手にある軟膏のケースを見つめていたけれど、それでもかなり躊躇っているのが感じられた。


「せっかく綺麗なお顔をなさっているのですもの、跡が残ったら勿体ないですよ。ね? ですから、お気になさらずに」


彼女は驚いたように目を瞠ると、頬をみるみるうちに真っ赤に染めてから、はにかむような笑みをその美しい顔に浮かべた。


「それでは、ご好意に甘えさせていただこうかしら」


私が頷いて彼女にリヴル草の軟膏のケースを手渡すと、彼女は大切そうにそのケースを服のポケットにしまってから、その両手で私の両手を包むようにぎゅっと握った。


「この御恩は決して忘れないわ。今度、必ずまたお礼に伺うわね。そうね、流行りのお店の、お勧めのお菓子があるの……とても美味しいのよ。このお礼にはとても足りないとは思うけれど、ぜひ召し上がっていただきたいわ」

「まあ、嬉しいわ。では、楽しみにお待ちしておりますね」


私の言葉にふわりと華やかに笑った彼女は、同性の私でも見惚れてしまうくらいに綺麗で、彼女の頬の炎症が引いて、喜んでもらえたことがとても嬉しかった。


軽く会釈をして去って行く彼女の後ろ姿を見送りながら、けれど、私は内心で少し首を傾げていた。


彼女が身に付けていたのは、確かに侍女が着るような、目立たない、高価でもない服装だった。けれど、彼女の美貌と、彼女が纏っていた空気からは、その侍女服に随分とちぐはぐな印象を受けていたのだ。


酷い状態の頬の爛れに、確かにはじめのうちはかなり取り乱してはいたけれど、伸びた背筋に、隠し切れない堂々とした雰囲気、丁寧に手入れされた艶のある亜麻色の髪に、自信に満ちた強い瞳は、どちらかと言うと、侍女に仕えられる側のそれだった。


そして、最後に、私の両手を彼女が握った時。あの滑らかな柔らかい掌は、働く者の手ではない。流行りの店のお菓子というのも、普通はかなり高価な、貴族御用達のもので、あまり侍女の立場で口にできるようなものではないので、それも違和感があった。


(何か、訳ありだったのかしら……? まあ、いいか。何にしても、彼女の頬の爛れは、大分良くなったことだし)


彼女が医局を出て、扉が閉まる音がしてから、私がふと後ろを振り返ると、ルシファー様が、薬棚の陰に半分隠れるようにしながら、胸の前で両腕を組んで、壁に背を凭せ掛けながらこちらを見ていた。どうやら、少し前から、私が接客しているのに気付いていたようだ。


(ルシファー様にご相談もせずに、出過ぎた真似をしてしまったかしら……)


年の頃も近いと思われる女性が、顔の爛れに嘆き悲しんでいる様子を見て、若い男性を呼ぶのも憚られて、つい自分だけで対応してしまったことに、軽い不安を覚えながら、私はルシファー様を見つめた。


ルシファー様の視線が追っていたのは、私ではなかったようだった。先程までの和らいだ表情とは打って変わって鋭い瞳をした彼は、今さっき閉じたばかりの医局の扉を、まだじっと見つめていた。

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