助け舟
ランスの背に乗り駆けて行く私に、アーディンの声が遠ざかる。
「気を付けろよ……!」
風に乗って私の耳に最後に届いた彼の言葉に、私はランスに跨ったまま首を傾げた。
彼のお陰で、義父母の家からは逃げ出すのでなく、無事に大手を振って出られたのだ。……他に懸念するようなことなど、あったかしら?
特に思いつかないので、頭をこれからのことに切り替えた。
私一人なら、適当に宿を取りながら旅路を行くことも考えていたけれど、ランスと一緒の今は、宿に行くことは躊躇われた。
ユニコーンのような立派な一角のあるランスは、一部の希少種愛好家にはとんでもない高値が付くと聞いたことがある。彼を宿屋の厩に留め置くのはさすがに得策ではない。……もしかすると、アーディンのくれた注意は、ランスのことなのかしら?
あまり人目につかない所で、しかも安全なところ。できれば信頼できる人のいるところ。
(……よし、行くのは初めてだけれど)
私は目的地を決めた。私の幼馴染みの少女の引越し先が、迷いの森からもそう遠くない場所にあったはずだ。
私が養父母の家に行ってから、近況報告がてらに一度手紙を出したことがある。比較的最近のことだ。すぐに美しい達筆で返事を受け取ったから、彼女がそこに住んでいるのは間違いないだろう。彼女からの手紙には、昔一緒に過ごした時間を懐かしむ言葉と共に、近くに来たら是非立ち寄って欲しいと綴られていた。
アーディンと別れた側からほぼ迷いの森の反対側まで、森を突っ切ってランスを走らせる。険しい岩だらけの道や脚元が取られやすい沼地も、ランスは慣れたもので速さが落ちない。あっという間に迷いの森を駆け抜けた。
生い茂った樹々の間を抜けると、急に照らされた明るい日差しに思わず目を細めた。迷いの森に沿って走る細い道から右に折れ、大通りに突き当たると左に曲がって、しばらく真っ直ぐに進む。
そろそろ右手側に見えてくるはずと思うのに、なかなかそれらしき建物が見当たらない。……というよりも。
「どうなっているの、これ……」
さっきから、しばらく私の右手に見える景色がほとんど変わらないのだ。ずっと、私の右側には石垣造りの高い塀が続いている。首を高く上げても、塀がどこまで続いているのかわからない。どこかの貴族か大富豪の豪邸か何かなのだろうか。
「確か、この辺りのはずなのだけれど。おかしいわね……」
ランスの歩を緩めて周囲を見回したとき、私の左頬の辺りを、背後からしゅっと何かが掠めていった。
「……!?」
左頬が熱を持ち、鋭い痛みが走る。頬に当てた手を見ると、真っ赤な血が滲んでいた。
「嘘でしょう!?」
私は一瞬目を疑ったけれど、左頬の熱さと痛みは、それが間違いではないことをはっきりと告げていた。
踵に力を込める。すぐにランスは速度を上げたけれど、今度は前方から数本の矢がこちらに向かって飛んで来た。
(……!!)
すんでのところで、ランスが頭を少し下げたかと思うと、その角を振り抜いて矢を弾いた。
「ランス、凄いわ……! ありがとう」
私の正面に飛んで来た矢は、私がいくら体勢を低くしたとしても避けようがなかった。私の乗っているのがランスで無かったら、大怪我をしていたか、下手をしたら命を落としていたかもしれない。
(アーディンの言っていたのは、もしかしたらこのことかしら。でも、どうして……)
今更ながら、背筋にぞくりと冷たいものが走る。
そのとき、私の右手側に見えてきた、塀の途中で分断するように設けられた大きな木製の両開きの扉が、片側だけ薄く開いているのが目に入った。開いている扉の隙間から、誰かが手招きしている。ちらりと合ったその青年の目は誠実そうで、ランスの身体が通れるように扉を押し広げてくれた。
(これは、罠なの? ……それとも、私たちへの救いの手?)
わからない。わからないけれど、青年の両の瞳には悪意は感じられなかった。
私は自分の直感を信じて、その扉の隙間に飛び込んだ。
***
塀の内側に走り込むと、私はすぐにランスの背から飛び下りた。そして彼の身体に異常がないかを確認する。ランスは意外にもほとんど息は上がっていなかったけれど、その首元からは一筋の血が流れていた。
(やっぱり……)
私は唇を噛んだ。さっき矢が飛んで来た時、私を庇ってくれたランスは、一度びくりと身体を震わせていた。そのまま走ってくれてはいたけれど、それは傷付いた身体に鞭打ってのことだったのだろう。
私がランスを頼ったせいで、傷付けてしまったことがひどく申し訳なかった。
私のその様子に、私たちを助けて受け入れてくれた青年も、ランスの傷にすぐに気付いたようだった。彼は心配そうに眉を下げて口を開いた。
「怪我をしているんだね。薬を持って来よう」
「ありがとうございます。でも、薬はここにありますので……」
急いでリュックを肩から下ろし、まだ摘んだばかりのリヴル草の束を取り出して手で揉むと、じわりと青臭い液体が滲み出てくる。それを草ごと、ランスの傷の部分に張り付けた。リヴル草は、人間は煎じて飲むのが一般的だけれど、傷の回復効果も高い。野生動物などは傷付いた時に、自分で噛み砕いたリヴル草を痛めた箇所に付けることもある。
作業を手早く終え、ランスの具合もそう悪そうでもなく安堵の息を吐いたとき、まだ私たちを助けてくれた青年に挨拶すらしていないことに気付いた。
側で私の作業を見守ってくれていた青年に、慌ててぺこりと頭を下げる。
「お礼を申し上げるのが遅くなってしまい、すみません。先ほどは助けてくださって、こちらの塀の中に入れてくださってありがとうございました。私はローザと申します」
年の頃は同じくらいと思われる青年は、にこりと微笑んで手を差し出して来た。
「こんにちは、僕はジュリアン」
私も手を差し出して握手した後、彼はその手を離さないまま、少し身体を近付け、声を潜めて私の耳元に話し掛けた。
「君、誰かに追われているの?」
私は戸惑いつつも答えた。
「はい、そうみたいです。ですが、なぜ私が追われるのか、思い当たる節は特にないのですが……」
「そうなんだ……」
彼は首を傾げてから、私の顔を正面から見つめた。
「……今見ていたけど、君、動物の治療に長けているね。手際の良さが相当なものだ。それに、リヴル草なんてどこで入手したんだい? 君が扱っていたのは、採ったばかりの草だろう?」
彼は薬草にも随分詳しいようだ。
「え、ええと、それはですね……」
リヴル草を迷いの森で見付けたと答えると、なぜ誰も出られないはずのあの場所でと、さらに突っ込まれる可能性がある。助けてもらったとはいえ、誰に追われているかもわからない今、思わず名乗ってしまった名前以外は、あまり私に関する情報は漏らしたくはない。
何と答えるべきか、しばらく言葉選びに迷って黙っていると、彼は穏やかな笑みを見せた。
「いや、言いたくなければ無理して言わなくてもいいよ。むしろ、あまり声を大にして言わない方がいいかもしれないね。リヴル草は希少種だ、下手に漏らすと、その場所で採り尽くされて、さらにその数を減らしてしまうかもしれない。……君はきっと、見付けた薬草を安易に採り尽くすような人ではないだろう」
彼の解釈が私の懸念する方向から逸れたことに内心ほっとしていると、彼は少し思案気に口を開いた。
「ねえ、ローザ、君がよければだけど。この家には、今怪我をしている動物がいる。その世話が出来る人を探しているんだけど、できればお願いできないかな? 君の住む場所もこの屋敷に用意するし、傷付いたこの馬にはもちろん厩も当てがうよ。どうかな? ……君がもし追われているのなら、悪くない条件じゃないかと思うけど」
「ええ、それはありがたいお話なのですが。ジュリアン様の一存で決めてしまってよいのでしょうか、どなたかご相談された方が……」
まだ年若い、人の良さそうな彼の助け舟だったけれど、ここは大きなお屋敷のようだ。誰か地位が上の人に確認しないと、私が喜んで彼の申し出を受けて、やっぱり駄目だったとなれば、優しそうな彼は私以上に傷付きそうな気がした。それに、私は身元も知れない人物の上に訳あり。断られる可能性も小さくなかった。
私の言葉に、彼は可笑しそうに大きく笑った。
「はは。……僕、一応ここの跡取りなんだよ。それなりに決定権はあるから、これくらいを僕が決めることは訳ないさ。どうだい、受けてくれる?」
「し、失礼しました……! では、ぜひお願いします」
ランスの角を見ても、物欲しそうに目の色を変えない彼は、信用できそうに思えた。そういう人を見抜く経験値はそれなりにある自覚はある。
慌てて再度頭を下げてから、姿勢を戻して、改めて彼の姿を見つめた。
逆光になっていて、先ほどまではあまりよく見えていなかったけれど、黒くて艶のあるさらさらとした髪に、アメジストのような瞳の彼は、とても美しい人だった。言われて見れば、立ち居振る舞いにも品性が感じられる。
「じゃあ早速だけれど、今日からよろしく。後で、君に世話をして欲しい動物も紹介するよ。ああ、その前に、治療の必要があるか」
「え、治療ですか? ランスの、……その馬の処置は終わっているのですが」
私が首を傾げると、彼は吹き出した。
「君の馬じゃなくて、君自身の治療だよ! ……頬を怪我しているだろう? さ、こちらにおいで」
そういえば、と、頬に手を当てる。恥ずかしさに、怪我した頬には血が上っていた。




