“六番目”と“一番目”
生命維持装置の作動音は、アクアリウムに取り付けられた濾過装置のそれに似ていた。
そのことを彼が知ったのは、飽きもせず自室に押しかけてくる少女に、不本意ながら纏わりつかれるようになってからだったけれど。
“兄弟”の中でも、入室を許可された人間が限られる室内で、彼はなんとなしに、水槽によく似た装置内で発生する泡を眺める。
研究員が入室しているとき以外、この部屋の照明は消されたままだが、生命維持装置が発する青みがかった光のお陰で、歩き回るには不自由しない。
彼は壁に背を預け、検査の名目で弄りまわされた身体を休めていた。
自室ではプリシラを構わなければいけなくなるし、この部屋ならば、“末弟”との交流を口実に、ある程度の煩わしさを避けられた。
そして、この部屋で一番煩わしい“末弟”は今、生命維持装置に満たされた液体の中で浮かびながら、学習実験の眠りに浸されている。
簡素な検査服を纏い、赤子のように身体を丸めた“末弟”は、生命維持装置の溶液に長めの黒い髪を揺らしていた。
今回の学習実験は負荷が軽いのか、声変わり前の幼い顔は、夢見るように安らいで見える。
彼がぼんやりしていると、自動扉の作動音と共に、薄闇に覆われた床が光で切り取られる。
そして、彼が履いている靴と、同じ型の足音が響いた。
「――セイスか」
「“零番目”の世話ごくろーさん、“兄貴”」
自分の喉から出るのと同じ声に、彼は気だるげに応じる。
漂ってくる香りの発生源をちらりとを見やれば、“一番目”は両手に湯気の立ったカップを持っていた。
“兄弟”一の世話焼きらしく、わざわざ彼の分まで飲み物を用意したらしい。
当然のように“一番目”から差し出されたカップを、彼は無言で受け取る。
彼の横に並んだ、“一番目”の、精悍な印象を受ける――だが、彼とそっくり同じ顔は、なんとも言い難い表情を浮かべていた。
「……セイス、タリス技師とは、その、どうだ?」
「あのワガママ娘の機嫌取りは手抜きしねぇよ、アインス」
“一番目”の問いかけに、彼は素っ気なく答えた。
彼だけに課せられた余計な役目は面倒でもあるが、プリシラとの交流は、他人とのそれよりも、楽と言えば楽かもしれない。
確かにプリシラは気分屋だが、感情がそのまま顔に出て分かり易いし、適当に構ったり抱いたりしてやれば、すぐに機嫌が直るのだから。
――まあ、彼ら“兄弟”を観察する、致命的なものが欠けた瞳を筆頭に、彼には、ろくな比較対象の持ち合わせがないのだけれど。
乾いた彼の声に、応じたのは沈黙だ。
生真面目で説教臭い“一番目”らしからぬ態度を、内心で訝しく感じつつ、彼はカップに口を付けた。
カップの中身を口に含めば、独特の苦みと薫りが彼の舌の上に広がる。
“一番目”がわざわざ豆から挽いているコーヒーは、合成品より苦味に深みがあり、薫り高くもあるらしい。
しかしながら、一様な味の合成品に慣れた彼は、そもそも味の良し悪しを判断する必要性が理解できない。
揺蕩う青い光と機械の作動音に満たされた部屋は、それ自体が水槽のようで、でも違う。
鼻を抜ける薫りが、こんなに狭い場所でさえ自由に泳げないのだと、彼の袖をひいている。
とうに歩けるようになった“末弟”も、未だに揺り籠代わりに漂うだけだ。
不意に、カップを持ったまま黙り込んでいた“一番目”が、口を開いた。
「……“八十八番目”が、危なくなるかもしれない」
微かに震える声に虚をつかれ、彼は“一番目”に顔を向ける。
彼と同じ造りの横顔には、隠し切れない苦悩の色が浮かんでいた。
“一番目”が呼んだ“八十八番目”の名に、彼は眉を顰める。
“零番目”に憎悪に近い感情を抱き、“末弟”から隔離された“八十八番目”。
彼よりも練られた教育プログラムを組まれていたのに、馬鹿げた夢想を手放さない甘ったれ。
「――あの馬鹿、まだ家族なんかに夢を見てるのか?」
「……諦めさせられなかった」
知らず声を尖らせた彼に、目を伏せた“一番目”が自嘲気味に首を振る。
もういない“三番目”の教訓から、“兄弟”間の交流はむしろ推奨されているが、“八十八番目”はそれが裏目に出たらしい。
『自分だけのもの』にこだわる“八十八番目”は、“末弟”とは別の意味で“兄弟”の中から浮いていた。
「どうすれば、いいんだろうな。
――結婚相手がいる相手とは、家族になれないのに」
“八十八番目”を心から案じる“一番目”の台詞に、彼はどこかが凍り付く。
恨みはない、嫌悪もない。
……けれど自分たちは、どこまでも違うのだ。
「どうにかする権限が、お前にあるのか?」
彼の問いは、宇宙の虚無よりも暗く冷たい。
兄であることを選んだ“一番目”が彼を睨み付け、――でも、すぐに目を逸らしたから、彼は、自分がどんな顔をしているのか知らないままだ。
「どうにもならない」
彼が言い放った言葉が全てだ。
“八十八番目”が、どれほど渇望しようと。
“一番目”が、どれほど胸を痛めようと。
――“六番目”が、なにも願わなくても。
無機質な光の揺らぎが、気紛れに彼を撫でるも、肌に触れるものは何もない。
湯気を立てていたカップの中身は冷め切り、部屋の温度と大差なくなっていた。
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