少女は掌の空虚をまだ知らず
彼女の世界は完璧だった。
優しくて、地位も財力も有した両親。
広々とした家は住み心地が良く、彼女のために用意された沢山のものは、どれも厳選された一級品だ。
そして、他人から褒めそやされる容姿に、誰にも負けない才能。
彼女の戸籍登録が完了した時点で選定された、将来子を生すべき幼馴染みは面白みに欠けるが、口煩くないので、まあ許容範囲。
何もかもが、彼女の思い通りになる世界は、けれど、ほんの少しだけ退屈で。
彼女が、刺激と楽しみを求めて遊び回っていた時に、その出会いがあった。
――欲しいと思ったから、彼女は手を伸ばした。
彼女が見つけた青年が、結婚相手が決められないなんて、些細な事。
他人が決めた事なんて、都合がいいこと以外、彼女が従ってやる謂れがない。
だから、その決まりごとが、どうして決められたかなんて、彼女は考えもしなかった。
◆◆◆
(統合歴2690年/《煉獄》外縁宙域)
微睡から意識が浮上し、少女は、素肌に触れあう体温や、自分を抱きしめる腕の重みに、訳もなく笑みを零す。
そっと瞼を持ち上げれば、一番のお気に入りの男の寝顔が、少女のすぐそばにあった。
少女が一目で気に入った端正な面は、しかし、若者特有の闊達さとは無縁である。
普段のふてぶてしい態度とは裏腹に、いっそ幼げでさえある青年の寝顔は、なかなか可愛らしい。
しかしそれでも、平素から青年にこびりついた、どこか物憂げな雰囲気は、現実から解放されるはずの夢の中でさえ、晴れることはない。
睡眠をとっているはずなのに消える様子のない、目元の隈のせいなのか、それとも、日に焼けるところを見たこともない、血色の悪い肌色のせいなのか。
少女と抱き合う青年は、人類の天敵に対峙する《ガルダ》の操縦者という肩書にそぐわず、奇妙に病んだ色が常に張り付いている。
一方で、少女の明るい金髪とは対照的に、青年の沈んだ色合いの黒髪は、男の癖に腹立たしい程手触りが良かった。
自分とは質感の異なる皮膚に覆われた胸板に、少女は頬を寄せる。
気持ちの良いことや愉しいことは、遊び仲間たちといくらでも経験してきたけれど、添い寝だけでもなんだか満足するのは、この青年だけだ。
まあ、少女の方から押しかけなければ、自分に近付いて来ない青年に、彼女とて不満がない訳でもない。
だがそれは、少女が青年をもっとメロメロにしてやればいいだけの話だ。
肌越しに伝わる青年の心音が、遠く聞こえるのは、きっと少女の気のせい。
よく分からない寂しさを、少女は、全身で感じる確かな存在で誤魔化した。
いつまでだって飽きはしない二人の時間は、青年の身動ぎに中断されてしまう。
青年の、宇宙の黒を塗りこめた様な瞳が、ぼんやりと、どこでもないところへ向けられる。
やや寝起きの悪い青年の覚醒までの時間が、青年の世界に自分が映り込まない感覚が、少女はどうにも気に喰わない。
自分に意識を向けさせるための、少女からの強引な口付けに、青年の瞳が焦点を結んだ。
青年の辟易とした眼差しも、自分を見ないよりはずっと良い。
「朝っぱらから盛るな、プリシラ……」
「なんで?」
唇を放した途端に発せられた、青年の無粋な苦言の意味が分からず、少女はきょとんと首を傾げた。
愉しいことの何が悪いのか、周囲に甘やかされてきた少女には理解できない。
ベッドに寝そべったまま、少女を見上げていた青年は、呆れとそれ以外の何かが混じる表情を浮かべるも、溜息を吐くだけで寝具から身を起こす。
温めてくれる体温が遠ざかった少女は、適温に保たれているはずの寝室の空気に身震いした。
無意識に青年を留めようとした少女の手は、求めた温度ではなく空気を掴むにとどまる。
「セイス」
「俺はこれから検査なんだよ」
呼ばれた声に含まれた少女の寂しさも一顧だにせず、彼女に背を向けたままの青年は、素早く身支度を整えていく。
機能性を優先した、青年の所属を示す隊服は、少女が纏わりつき始めるまで、彼の私服と化していた代物だ。
ずっと一緒にいられないのが面白くなくて、唇を尖らせた少女に、青年は眉を寄せ、仕方がないとばかりに彼女の傍らに屈み込む。
「お前はもう少し休んでろ」
降ってきた低めの声と、額に押し付けられるかさついた唇に、少女は気分を上向かせるも、胸に落ちた黒い雫が、彼女の口を動かした。
「……セイスは、検査ばっかりね」
少女達が滞在している対異種生命体技術開発第一研究所――通称《辺獄》は、居住可能な人工衛星に研究機関を丸ごと詰め込んだ場所だ。
そして、対異種生命体兵器《ガルダ》の操縦者であり、最新鋭機の試験飛行も担当しているらしい青年の健康は、確かに厳重に管理されるべきだろう。
だが、青年の検査の回数は、畑違いである情報技術者であっても、少女が異様に感じてくる頻度だ。
――知らないだけで、知らされていないだけで、青年に何らかの異変が起きているかもしれないと、不安になってくるぐらい。
ふっと、皮肉気な嗤い声。
少女が確認する前に、完全に背を向けられてしまい、青年の表情は窺えない。
「――そういう、体質でな」
温度のない言葉と共に、青年は寝室を去っていく。
青年を呼び止められないまま、少女は冷めた寝具に身を沈めた。
――現在の人類社会において、結婚相手が各々の遺伝情報で定められるようになったのには、いくつか理由がある。
その理由の一つに、《ガルダ》の操縦者に必要な適性が、潜性遺伝に著しく依存している事実が挙げられる。
かつて存在したある植民星は、自由恋愛の権利を後生大事に保護した末、《ガルダ》操縦の適格者を喪い、《ワーム》に喰われた。
《ワーム》の危険性以上に、民衆の権利を優先した指導者がもたらした悲劇は、現在の社会構造の形成に大きな影響を与えたのである。
……宇宙統合機構が管理する社会に、それは必要とされていないから、――すぐ隣に転がる恋に気が付かないまま、少女は空っぽのベッドで蹲る。
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