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ドーナツの向こう側には大好きなあなたの笑顔

作者: 雨森 千佳

 この町にある、とある小さなパン屋。

 特に人気があるのは、店主の焼く大きな丸パン。奥さんがそれで作った具だくさんのサンドイッチ。それから、娘の揚げるドーナツだ。


「あら、カイ君。いらっしゃい」

「おはようございます」


 開店一番、扉についた小さな鐘を鳴らして入ってきた人物に気付いて、この店の娘であるリーアの表情は彫像のように固まった。

 今年十八歳になる青年は、人の好さそうな笑みを浮かべて頭を下げた。褐色の髪が揺れる。


「今日もいつものでいいの?」

「はい」

「じゃあ、ちょっと待っててね。ほら、リーア」


 母親に肘で小突かれて、リーアはのろのろと動き出した。

 母親がサンドイッチの仕上げをしている間に、紙袋を広げる。今朝揚げたばかりのドーナツを入れ、次に仕上がったサンドイッチを入れる。

 いつも同じ注文なので、お互い金額は分かりきっている。リーアが手のひらを出すと、カイは用意していた銅貨をその上に置いた。ほんの少し指先が触れてしまい、どきりとする。


「……ありがとうございました」


 固い声で決まり文句を言うと、カイの青い瞳は何か言いたげに揺れたが、結局何も言わずに店を出ていった。

 扉の鐘がまた音を鳴らす。


「こんなに朝早くから仕事だなんて、先生ってのは大変ね」

「うちだって朝早いじゃない」

「パン屋はそういうもんなの。それより、もうちょっと愛想良くできないの? 幼馴染でもお客様には変わりないんだから」

「……努力します」

「やれやれ。昔はあんなに仲良しだったのに」


 ぶつぶつと零しながらも、母親は次の作業へと取りかかっていった。

 深く追求されなかったことにほっとしつつ、リーアも仕事に戻る。

 次に仕込むドーナツのための小麦粉を量りつつ、リーアは先程の青年のことを思い出していた。


 カイといつ出会ったのか、リーアははっきり覚えていなかった。それほど幼い頃から、兄妹のように育ったのだ。

 カイの両親は仕事で家を留守にすることが多かったため、リーアの両親がパン屋を営む傍らで子供達の面倒を見ていた。リーアの両親としても、幼い娘の相手をしてくれるカイの存在はありがたかったようだ。


 カイはごく普通の少年だったが、一つだけ特別なところがあった。

 魔法が使えるのだ。


『ねぇ、カイ。あれやって!』


 リーアがそうやってねだると、カイはいつも、少しだけもったいぶった後に必ず希望を叶えてくれた。


『よし。じゃあ、ちゃんと捕まってろよ』


 リーアがぎゅっと抱きつくと、カイもリーアを抱きしめ返した。それから、二人の体をふわりと風が包み込む。

 カイの風の魔法は、二人を色んなところへ運んでくれた。屋根の上や、高い木の枝、短い間なら、そのまま空高く浮いていることも。

 秋になれば木の実をとったし、親に叱られて泣いていれば、屋根の上で慰めてくれた。

 母親の言葉どおり、幼い頃、二人はとても仲が良かったのだ。


(あ、発酵はもう十分かな)


 カイが来るより前に仕込んでおいた方を見ると、ドーナツはふっくらと膨れていた。それを一つ一つ油の中に落としていく。

 先程カイが買っていったのは、どっしりとしたケーキドーナツだ。ケーキドーナツは重たい種が油の中で辛うじて浮いている様子だったが、こちらのイーストドーナツはとても軽い。浮き輪のようにぷかぷか浮いているのを、くるりとひっくり返していく。片面が綺麗なきつね色に色付いていた。

 ふわふわと油の上を漂っているドーナツを見つめながら、リーアは初めてドーナツを作った時のことを思い出していた。初めて作ったのも、確かケーキドーナツだったのだ。


 リーアがドーナツを作りたいと思ったのは、大した理由からではなかった。

 隣国で流行っているというそれが、自分の家のパン屋に並んだら素敵だと思ったからだ。


『じゃーん』


 まだ温かいドーナツを見せびらかすと、カイはその青い瞳を丸くした。


『何それ』

『知らないの? ドーナツよ!』


 草むらの中にぽつんとある大きな岩によじ登り、リーアはカイの隣に腰を下ろした。

 持ってきた籠から一つドーナツを取り出し、彼に差し出す。

 まだ幼い少年は、膝に広げた本をそのままにドーナツを受け取った。


『穴が開いてる』

『だって、ドーナツだもん』

『ドーナツって、必ず穴が開いてるもんなのか?』


 幼いリーアは首をかしげた。

 言われてみれば、穴の開いていないドーナツもある気がする。

 じゃあ、ドーナツはどうしてドーナツと言うのだろう。揚げパンや揚げケーキとは違うのだろうか。


『穴が開いてる分、なんか損した気分』


 カイはまるで虫眼鏡のように、ドーナツの穴を覗いた。


『そんなことないよ! ドーナツの穴は特別なんだよ。きっと何かいいものが見える……かも?』

『へー、じゃあ、覗いてみろよ』


 自分で言ったでまかせに少しわくわくしながら、リーアは籠から自分の分のドーナツを取り出すと、その穴の向こう側を見た。

 草むらの向こう、よく木登りする木が見える。

 しかし、その景色も一瞬で消えてしまった。


『わ!』


 大声を出して、カイが突然ドーナツの前に身を乗り出してきたからだ。

 リーアは驚いて、手にしていたドーナツを落としそうになった。


『ごめんごめん。そんなに驚くと思わなかった』


 笑いながら謝ってくるカイに、リーアの心臓が一つ跳ねた。驚いたからではない。二つ年上のこの少年を、初めて兄ではなく男の子として意識したからだ。

 だが、リーアはカイと一緒に笑ってその気持ちを誤魔化した。

 黙っていれば、こうしてずっとそばにいられると思ったのだ。

 けれど実際には、その幸せな時間は長く続かなかった。

 十歳になった彼は、立派な魔導士になるために養成所に入った。

 毎日一緒にいた日々が一転、寮生活のため、カイとは中々会えなくなってしまった。


「リーア、そろそろ配達を頼むよ」

「はーい」


 父親に返事をすると、リーアは仕上げを終えたドーナツを陳列し、エプロンを脱いだ。

 束ねていた髪を下ろす。ちらりと視界に入った自分の髪を見て、昔カイが「小麦畑の色だ」と言ったのを思い出した。

 棚に貼り付けてある、今日の配達先に目を通す。路地裏の喫茶店に――魔導士養成所の文字もある。


 行きたくないのに。

 そう思いつつも、リーアは何も言わず、こっそり溜息を漏らした。

 仕事だと割り切るしかない。

 リーアは台車に焼き立てのパンを積み込んだ。香ばしい小麦の匂いに気持ちが和らいでいく。


「いってきます」


 石畳のでこぼこ道を、台車を押していく。

 一年ほど前からだろうか。リーアは一人で配達を任されるようになった。大事な商品を運ぶのだ。一応、半人前くらいには認めてくれているのだろう。

 昔は、配達する父親によくくっついていった。

 まだ子供だったリーアにとって、配達は冒険でもあったのだ。レストランの厨房に入ったり、喫茶店で「お手伝い偉いわね」なんてクッキーを一枚貰ったり、遊んでいたようなものだったが。

 カイが魔導士養成所に入ってからは、養成所への配達は毎回ついていったものだ。運がいいとカイに会えるからだ。大抵目が合うくらいだったが、カイは決まって笑顔で手を振ってくれた。振り返しながら、顔が熱くなった。まるで厨房に入っている時のように。


『パン屋さんだ』

『いい匂い』


 寮生活を送る魔導士養成所の子供達にとっても、たまに出くわす外部の人間は珍しかったのだろう。

 時々、父親とリーアに声をかけてくる子がいた。


『すごい量のパン! こんなに運ぶの大変そう』


 父親に続いて小さめの台車を転がしていると、生徒の一人が驚きの声を上げた。

 褒められているのだと思ったリーアは胸を張った。


『力持ちですから、大丈夫です』


 自信満々の様子が可笑しかったのだろう。それを聞いていた他の生徒がぷっとふき出した。


『その台車、魔法道具だろ? 軽くなってるのに、知らないで使ってるのかよ』

『もう! そんな言い方ないでしょ。この子魔導士じゃないんだから』


 たしなめられても笑いを堪えきれず、ふき出した生徒はまだ肩を震わせていた。

 カイの笑顔を見た時よりも頭に血がのぼってくる。ただし、とても気分の悪い恥ずかしさでだった。

 単純な話だが、リーアは魔導士というものが大嫌いになった。魔法が使えるのは確かにすごいことだが、魔導士だってパンを食べるのに。

 この日から、リーアは魔導士養成所への配達にはついていかなくなった。


 たった一人に馬鹿にされたからと魔導士全員を嫌いになるなんて、ひどい偏見だと今ではリーアも分かっている。

 だが、現在も何となく苦手意識はあるのだった。


「おはようございまーす」


 喫茶店の裏口から声をかけると、女店主がすぐに出てきてくれた。


「今日もご苦労様。ちょっと味見してくれない?」

「喜んで!」


 女店主は悪戯をする子供のような顔で笑うと、少し厨房に引っ込んですぐに戻ってきた。リーアの口元へとフォークを近付ける。彼女はわくわくしながら、それを口に含んだ。

 とろけるような食感と爽やかな甘さが、口の中に広がる。


「食感が面白いですね。少し酸味もあるし、軽くてたくさん食べられそう。ムースケーキですか?」

「そう、ヨーグルトなの。ちょっと物足りないから果物を合わせようと思ってるんだけど」

「いいですね。上に飾ったり、ソースにしてかけたり」

「お祭りの目玉にするなら、華やかにしたいわね」


 もうそんな時期かと、リーアは頭の中で暦を確かめた。


「リーアちゃんのお店は、もうお祭りのこと決めてるの?」

「父と母はいつもどおりだと思います。私はまだ考えてて……ここ数年変わり映えしないから、何か新しいことしたいなって」


 次の注文を受け、喫茶店を後にする。

 まだ口の中に残っている余韻を楽しみながら、リーアは祭りのことをそろそろ考えなければ、と思った。

 皆の財布の紐が緩む日だから、祭りの日はパン屋にとっても稼ぎ時だ。いつもと違い、店の前にテーブルを出して食べ歩きしやすいものを並べる。リーアも毎年ドーナツを並べていた。

 祭りの日は、養成所の生徒達も外出が許される。リーアの揚げたドーナツを買っていく子も多かった。

 そして、カイも毎年買ってくれていた。


『久しぶり、リーア』


 彼が養成所に入って初めての祭りの日、その声にリーアはぱっと顔を輝かせた。

 前の日からそわそわしていたのだ。養成所への配達に行かなくなったものだから、彼女達にしては随分長く会っていなかった。


『ねぇ、ドーナツ! ドーナツ買って! 私が作ったのよ』

『やっぱり穴が開いてる』

『それはもちろん。きれいな形でしょ?』

『うん、上達してる』


 その言葉が素直に嬉しかった。魔法が使えないのに、体が浮いてしまいそうに思えた。


『カイ君、見ーつけた!』


 突然腕に抱きつかれて、ドーナツを頬張ろうとしていたカイの口は空振りした。


『な、なんだよ急に』

『探したんだよー』


 女の子に腕を絡められて、カイの耳は赤くなっているように見えた。反対に、リーアの全身はすっと冷えていく。


『広場で大道芸やってるんだって。皆行ったし、カイ君も行こうよ』

『分かったから引っ張るなよ。リーア、またな』


 腕を引かれて慌ただしく去っていく様子に、再会の喜びは霧散してしまっていた。

 会えない時間の分だけ、向こうはリーアの知らない人達と楽しく過ごしているのだ。リーアだってもちろんそうだったが、それがなぜだか無性に腹立たしくて寂しくて悲しかった。

 自分も魔法が使えたらいいのに。少しだけリーアはそう思った。


 養成所にいる間、祭りの度に買いに来てくれるカイに、リーアはだんだん余所余所しくなってしまった。

 会えない時間が増えるごとに、どう接していいのか分からなくなってしまったのだ。

 一桁の年齢だった彼女も、少しずつ大人へと近づいていった。そして大人になればなるほど、二人の会話もなくなっていった。


「おはようございます。配達です」


 魔導士養成所は、今日も子供達の声で賑やかだ。食堂の裏手にいた料理人に頭を下げる。

 料理人は、とても綺麗な女性との世間話を切り上げ、リーアに向けて手を上げた。


「ごくろうさん。そこに置いといてくれ。先生、噂のパン屋だよ」


 料理人の隣で、女性が嬉しそうに微笑んだ。まるで大輪の花が咲いたようだ。あまりに綺麗で、同性であるリーアもどぎまぎしてしまう。

 同じ金色の髪のはずなのに、先生と呼ばれた女性の方はドレスに縫われる金糸のように美しい。優しげな目が真っ直ぐリーアを見つめるものだから、リーアの心臓は少し忙しかった。


「いつも生徒達に美味しいパンを届けてくれてありがとう。教師の間でも、よく話題にあがるの。今度、お店に伺いますね」

「あ、ありがとうございます。お待ちしています」


 ありがたくて嬉しい言葉だったが、この女性が店に来ている様子を想像すると、なかなかおかしなものだった。

 大衆向けのパン屋で、所作から髪の一本まで洗練された美人がパンを買う。何ともちぐはぐだ。

 心をほぐすような控えめで上品な花の香りの香水も、パンとドーナツの匂いに吹き飛ばされてしまいそうだ。もし、自分の身に染み込んでいるようなドーナツの匂いがこの女性に染みついたら……とても申し訳ない気持ちになりそうだった。この女性自身と、この女性に癒されている周囲の人々に対して。


「あら、カイ先生」


 女性の声に、リーアはびくりと肩を震わせた。

 なんて間の悪い。

 別世界の住人のようなこの女性と並んだ自分は、一体どんな風に彼の目に映るだろうか。リーアは恥ずかしさで頬が熱くなった。


「この間お裾分けしてくださったドーナツのパン屋さんと、ちょうどお話していたんですよ。次はお店で買いたいと思って」

「そう……なんですか」

「とても美味しかったから、あの味が忘れられなくて。またカイ先生の分を頂いたら、先生も困るでしょう?」


 ふふ、と少女のように可愛らしく笑う女性に、カイは照れたように頬をかいた。

 こんな素敵な女性なのだ。彼女に想いを寄せる男性はきっとたくさんいるだろう。

 カイだってきっと。


 リーアは視線を地面へと落とした。これ以上彼の顔を見たくなかった。

 そして、今の自分の顔も見てほしくなかった。


「し、失礼します」


 一礼して、リーアはそそくさとその場を後にした。カイが名前を呼ぶ声が聞こえた気がしたが、きっと幻聴だろう。この状況で、彼が自分を呼び止める理由などないはずだ。

 カイは、あの女性とどんな風にリーアの作ったドーナツを食べたのだろう。

 彼は、いつもサンドイッチとドーナツを一つずつ買っていく。だから、きっとドーナツを二人で分け合ったのだ。

 肩を並べて座りながら、仲良く食べたのだろうか。美味しいね、なんて微笑みあいながら? それとも、難しい魔法の話でもしながら?


(あの人が私のドーナツを気に入ってくれたなら良かったわ。だって、もしかしたら常連さんになってくれるかもしれないもの。そしたら店としては万々歳だわ)


 そう自分に言い聞かせる。

 だが、心は上手く誘導されてくれなかった。

 一日ドーナツを揚げた後の油のように、心が汚くどろどろになってしまった気がした。


 もっと早くにこの想いを捨てるべきだったのだ。リーアは痛感した。

 幼い頃一緒に過ごしていたとはいえ、今では住む世界が違う。彼は魔導士で、教師になれるほど努力家で頭もいいのだ。そんな彼の周りには、素敵な女性がたくさんいる。そして、カイが誰と恋をしようと、リーアには関係ない話だった。家族でもなく、恋人でもなく、今では友人とすら呼べない間柄なのだから。

 いつまでも過去の関係に引きずられ、淡い期待を抱いていたのは愚かだった。自分では何も行動に移さないくせに。

 昔も今も、リーアは臆病だった。はっきり想いを告げて、拒絶されることを恐れている。そして恐れている内に、色んなことが駄目になっていく。

 まるで過発酵のパンのようだ。

 リーアは大きく息を吐き出した。努力しなければ、目から雫が零れ落ちそうだった。


 大きな音を立てて、空っぽになった台車を転がす。

 普段であれば、このまま店へ戻るところだ。だが、到底そんな気にはなれなかった。こんな顔で帰ったら、何かあったのかと両親に無駄な心配をかけてしまうだろう。別に何があったわけでもない。いまさら現実を直視して、一人で勝手に落ち込んでいるだけなのに。


 リーアは店へ続く道を逸れ、近くにある森へと向かった。

 すぐに店へ戻らないのであれば、折角だからジャム用の果物をとって帰ろう。それなら仕事をさぼっていることにもならない。そう考えたのだ。幸い台車もあるので、たくさん持って帰ることができる。


(お祭り用の試作品も作らないといけないし、いつもより多めに貰おうかな)


 石畳の上をガタガタと進んでいた台車の車輪が、土の道に入ると少し大人しくなる。

 ひと気のない道に木漏れ日が差し込んでいる。深呼吸すると、街中より少しひんやりした空気が肺の中を満たして心地よかった。

 リーアは台車を停め、森に分け入った。

 この辺りは子供の頃からよく入っているので、彼女にとっては庭のようなものだ。木の実が生れば、カイの魔法で枝の上によく上げてもらった。


 リーアは首を振った。

 過去のことだと割り切っているならともかく、未練がましく思い出すのはやめるべきだ。


(いい想い出として残して、もう諦めよう。ぐずぐずと何もしなかった私が悪いんだから。カイは悪くないのに、無愛想にしてしまったのもよくなかったわ)


 明日からはちゃんとしようと心に決める。

 低木に生っている赤い実を一つずつもぎながら、リーアは祭りのことを考えた。喫茶店の女店主が言っていたように、ドーナツも祭り用に華やかなものにしよう。食べ歩きのことを考えれば、練り込むのがいいだろうか。それともジャムにしてサンドしようか。

 仕事をしたり、ドーナツのことを考えている時は、余計な感情に捕らわれなくて済む。

 リーアはこの仕事が好きだった。

 冬は水が冷たいし、夏はオーブンや油の前はものすごい熱気だ。時には失敗することもあるし、売れ行きが良くない日もある。それでもきれいに出来上がったものを並べると気分が高揚するし、お客さんの「美味しかった」の一言で満たされるのだ。


(そうよ。もっと仕事に身を入れよう。やれることはいくらでもあるんだから。夏場にも好まれるものを考えたり、雨の日でも美味しく食べられるように工夫したり)


 少しずつ調子が戻ってきた。もう、誰が見てもいつものリーアだろう。

 台車と森の中を何度か行き来して、赤い実も大分集まった。

 そろそろ店へ戻ろう。そう思って台車の中に赤い実を入れていると、ふと動くものが視界の端に映った。

 小動物か、それとも近所の誰かだろうかと思って顔を上げる。そして目にしたものが何か分かって、リーアは小さく息を飲んだ。心臓が一つ跳ねる。


 カイが、周囲をきょろきょろと見回しながら歩いてくる。

 リーアは慌てて森の中へ駆け込んだ。


(偶然よ。別に、私には関係ないわ)


 それなら知らぬふりをして台車を押して帰れば良かったのに、彼女は混乱していて心と体がちぐはぐだった。

 なぜか目は隠れる場所を探し、足が右往左往する。そして血迷ったのか、彼女の体は木登りを始めた。

 木登りなんて、もう十年以上していない。

 高い木の枝の実をとる時は、近所の子供達に手伝ってもらうか、父親に梯子を使ってとってもらっていた。

 だから、ほんの少し登ったところで、リーアは足を滑らせて地面へと逆戻りした。

 尻を強か打つ。

 痛みに呻きながら、立ち上がろうと地面に手をついたところで――青い瞳と目が合った。


「大丈夫か?」


 心配しているのか困惑しているのか、眉尻を下げてこちらを見ているカイを見上げて、リーアはまた息を飲んだ。

 言葉が出てこないかわりに、何度かうなずく。


「あの実がとりたいのか?」

「……どうしてここに?」


 質問の答えにはなっていない返事をすると、カイは口ごもった。


「魔導士様は、この時間はお忙しいのでは」


 不愛想をやめてちゃんと接客しようという先程の決意は、悪い方向に現れた。声は硬いのに言葉だけはお客様向けで、結果として厭味ったらしい。

 しまったと後悔したが、出てしまったものはどうしようもなかった。

 案の定、カイはむっとしたように眉根を寄せた。


「何だよ、その言い方。ちょうど時間が空いてたんだ」

「だって……ごめんなさい」


 リーアはのろのろと立ち上がると、服についた土を落とした。

 それはもう念入りに、何度も服をはたいた。

 カイは黙ってこちらを見ている。

 それに気付かない風を装って、リーアは服をはたき続ける。

 気まずくて手持無沙汰だったのだ。結局、どうしてカイがここに来たのかもよく分かっていない。

 沈黙が流れる中、リーアが服をはたく音と、風が木の葉を揺らす音だけが響く。目を合わせづらくて、彼女の視線はずっとカイの胸元辺りに注がれていた。それより上を見る勇気が出てこない。


「……それじゃ」


 リーアがようやく思いついた言葉は、その程度だった。

 頭を一つ下げて、カイの脇を擦り抜けようとする。


「え、木の実は?」


 元々、木の実は自分でとるつもりがなかった。動揺して変な行動に出てしまっただけだ。


「後で誰かに手伝ってもらうから大丈夫」

「それなら、俺が手伝うよ。ほら」


 カイが言い終わらない内に、リーアの足は地面を離れた。

 浮遊感に、思わず悲鳴が漏れる。一人で浮かんだのは初めてで、リーアは縋るものを求めて両手をバタバタさせた。

 その片手が大きな手に包まれて、彼女は驚いて彼の顔を直視してしまった。


「そんなに慌てなくても、落っことしたりしないよ」


 そう言って笑みを零したものだから、リーアは息をするのを忘れてしまいそうだった。

 宙に浮いている中で支えてくれるのは彼の手だけで、思わず強く握り返してしまう。そうすると、彼女より大きくて硬くかさついた温もりが、無視するには難しいほど伝わってくる。

 リーアの心臓が早鐘を打っている。全神経が片手に集中してしまったかのようだ。


 彼女が先程登ろうとした木は結構な大木だったようで、実の生っている枝は随分高いところにあった。

 あまりにも慌てていたので、そんなことにも気付いていなかったのだ。

 カイはリーアを太い枝の上に下ろしてくれた。彼女がしっかり腰を下ろしたのを確認すると、彼の手がはなれ、彼女を包んでいた魔法の風も弱まっていく。それに安堵すると共に、心に隙間風ができたような寂しさを感じた。

 カイは隣に降り立つと、手のひら大の実をいくつかもいで手渡してくれた。リーアも、届く範囲のものを三つほどとり、膝の上に集めていく。熟れても硬い実がごろごろと膝の上を転がる。


「袋か何かないのか?」

「うん」


 カイは肩から斜めに掛けていた鞄の中を漁った。

 木の実を入れるものを探してくれたようだが、生憎見つからなかったらしい。一つ溜息をついて、彼はリーアの隣に腰を下ろした。


「食っちゃえばこれ使えるな」


 そう言って彼が取り出したのは、リーアが今朝手渡した、パン屋の紙袋だった。

 ガサガサと音を立ててサンドイッチとドーナツを取り出すと、空っぽになった袋をリーアに寄越す。

 礼を言ってそれを受け取り、リーアは紙袋に木の実を入れていった。袋の中はドーナツの甘い匂いがした。


 なんだかよく分からない状況になった。

 木の実を詰めながら、リーアはこっそりとカイの顔を覗き見た。サンドイッチを頬張っている。


「親父さんのパンって美味いよな。リーアはどう? 上達した?」

「パンも練習はしてるけど、お父さんみたいには全然……」

「そっか」


 店を継ぐならパン作りももっと上手にならなければいけないが、まだ店に出すのを許されたのはパン一種類とドーナツだけだ。父親が得意な丸パンの出来は雲泥の差だった。


「あの……職場に帰らなくていいの? というか、どうしてここに来たの?」


 先程聞きそびれたことを、もう一度尋ねてみる。

 カイはサンドイッチを食べながら「うーん」と唸った。


「さっきリーアが話してた先生がさ、リーアの様子がおかしかったから、心配だから追いかけろって」


 あの女の先生は、容姿だけじゃなく内面まで素晴らしいようだ。会ったばかりのリーアのことを見抜いた上、心配までしてくれるなんて。

 気遣いが嬉しい反面、自分の未熟さを思い知って落ち込んだ。


「あの先生、リーアの作ったドーナツがめちゃくちゃ気に入ったみたいでさ。今度の祭りの時は絶対買いに行くんだって」

「……そうなんだ」


 喜んでいいのか泣いていいのか、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 カイとこうして久しぶりに話ができて嬉しい。ドーナツを褒めてもらえて嬉しい。だが、彼の口から出てくるのは別の女性の話だ。

 だが、そこで悲しむから駄目なのだとリーアは自身を叱咤した。完敗なのだから、すっぱり諦めるべきだ。

 諦めるためにもカイの口からはっきり言ってもらおうと、リーアは決意した。


「……あ、あの綺麗な先生と、一緒に、ドーナツを食べたの?」


 カイは目を丸くした。変なことを訊くんだな、という顔をしている。


「同僚皆でというか……俺、いっつも同じもの食ってるからさ。どれだけ美味いのか味見させろって言われて、八等分くらいにさせられたんだ。結局俺の口に入ったのは八分の一だよ」


 大げさに溜息をつく様子に、リーアは思わず小さな笑い声を零した。

 二人だけで分け合ったのではなかった。

 それが分かっただけで、不思議と彼女の心は軽くなった。


「別に味が変わるわけじゃないけど、輪っかになってないドーナツじゃ物足りないよ」

「そうなの? 穴が開いている分損してるって言ってなかった?」

「けど、何かいいものが見えるんだろ?」


 カイは残りのサンドイッチを口に詰め込むと、ドーナツを掲げた。きっとその穴からは、町の景色が見えているだろう。

 今日はいい天気だ。ぽかぽかと日差しは暖かく、白い雲がゆったり流れていく。この様子なら、午後もきっとたくさんお客さんが来てくれるだろう。


「いいもの、見えた?」

「うーん」


 カイはドーナツを虫眼鏡のように目の前に持ってきたまま、隣に座るリーアに顔を向けた。


「好きな女の子が見える」


 その言葉を飲み込むのに時間がかかり、リーアは何度か瞬きした。相変わらず、カイはドーナツの穴からこちらを見ている。


「ど」

「ドーナツ?」

「ち、違う」


 顔から火が出そうだった。


「ど、どうしてそんなこと言うの」

「どうしてって……結構勇気出して言ったんだぞ、これでも」


 カイは眉根を寄せて、ドーナツをかじった。よく見ると、耳が少し赤い。


「だって、私……ずっと愛想悪かったし……油臭いし……カイの周りには、もっといい人がたくさんいるのに」


 言い訳だが、だからこそ彼女は想いを告げようとは考えなかったのだ。

 祭りの日にカイの腕に抱きついた女の子も、先程の女性教師も、リーアよりずっと魅力的だ。


「なんだよ。振るならはっきり振ってくれよ。俺のことどう思ってんの?」


 カイの目が真っ直ぐにリーアに向けられる。

 とても真剣な目だった。

 多少の居心地の悪さも手伝って、彼女の心臓はばくばくとうるさいくらいだ。

 口を開きかけ、閉じる。

 リーアは、喉元まで出かかっている言葉を懸命に押し出した。


「……好き。すごく、ずっと」


 裏返ったり掠れたりの、悲しくなるほど情けない声だった。

 だが、目の前のカイの表情がほころんだので、リーアもつられて笑みを浮かべた。


「良かった。俺の勘違いだったらどうしようかと思った」

「勘違いって?」

「だってさ、期待するじゃないか。毎朝あんなに顔を真っ赤にされたら」

「え?」


 全く自覚していなかった。


「俺に気があるのかな、なんて期待して大外れだったら、赤っ恥だろ?」


 リーアは首を振った。

 顔を赤くしていた自覚はなかったが、リーアがカイを好きだというのは大当たりだった。


「恐かったの。カイが先生になって、朝の少しの時間だけど、また毎日お店で会うことができるようになって……告白して、断られたらそれすらなくなっちゃうと思ったから」

「俺だって似たようなもんだよ。振られたら店に通いづらいし、そしたら店のパンもドーナツも食えなくなる」

「でも、カイはちゃんと言ってくれたわ。……私も、これからはもっと頑張る」


 リーアの決意表明に、カイは眉を上げた。

 ドーナツの最後の一口を飲み込み、リーアの様子を見守っている。

 リーアは意を決して口を開いた。

 もうこれ以上はないというくらい、頬が熱をもっている。


「キ」

「うん?」

「…………キス、したい」

「何?」

「……キスが、したいの」

「もう一回」

「聞こえないふりしてない?」


 思わず眉をしかめると、カイは笑い声を漏らした。


「ごめん、いっぱい聞きたくなって」


 そう言いながら伸ばした彼の手が、リーアの髪に触れた。それにどきりとしている間に、二人の距離が縮んでいく。

 紙袋の残り香か、リーアの髪に染みついた匂いか、先程まで食べていたカイのものか。ドーナツの匂いが鼻孔をくすぐる。


 そっと優しく重ねられた唇は、ドーナツのように甘く感じた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 可愛らしいお話をありがとうございます。心がすすけていたので、ほっこりしました(^▽^)/
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