真冬のステルス積乱雲
『やあやあ、すっかり寒い季節になったね。みんな、風邪なんか惹いてないかな?』
夕方のニュース番組に、明るい口調の気象予報士──上沢氏が現れた。
『さて、今日の太平洋側は冬にしては暖かな一日だったね。日中は一六度まで上がったから、南向きの部屋では三〇度近くまで暑くなった家も多かったんじゃないかな? 今も日が落ちたのに、ところによってはまだ一〇度近くあるから、あまり真冬っぽくないね』
画面には上沢氏に替わって、街中をコートを脱いで歩く人の映像が流れている。雪のない大都市のものだ。
『でも、寒さに弱い人には残念なお知らせだ。今夜は夜半過ぎから強い放射冷却が起きてね。広い地域で氷点下になりそうだ』
そう語る上沢氏の背景が、列島の地図に替わった。
『この冷え込みの原因になるのが、すでに北日本から東日本を広く覆って、日本海側に大雪を降らせている強い寒波だね。地上はまだ日中の暖かさが残ってるけど、これから明日の朝にかけて、この寒気が地上まで降りてくるんだ。気温差の大きいところでは今日の日中から二〇度以上冷え込む予報が出てるから、体調には気をつけてほしいね』
「ゔ〜。冷え込みなんて起こさないよぉ〜」
ユメミがコタツに入って地上界の番組を見ながら、そんな不服を漏らした。
「ったく、迷惑だわぁ。なんで、あたしが寒波を管理しなくちゃぁならないよぉ」
ユメミが愚痴りながら、熱燗をくいっと胃袋に落とす。
「いつもの出動じゃないの」
「いつもじゃないよぉ。……ゔぅ〜、誰がシベリアに寒気なんか送り出したのよぉ。欧州支局の怠慢だわぁ」
ユメミが文句を言いながら、背中を丸めて両手をコタツの中に入れる。
あたしたちは今シーズン最強クラスの寒波を管理するために出動してきた。
ちなみに寒波の生まれた北極──というか北極海は欧州支局の担当だ。大西洋からの暖流が北極海へ流れ込んでくる関係で、そのまま欧州支局が管轄した方が管理がしやすいとか、余計な引き継ぎの手間が省けるとか、そんな事情から今の割り当てに落ち着いている。
で、今回の寒波、ユメミは欧州支局の怠慢なんて毒づいてるけど、そこは大きな間違い。今回の寒波は最初、欧州支局がメインで管理するヨーロッパ方向へ噴き出したのよね。それがそのあと偏西風に乗って、一週間以上かけて大陸を横断してきたってわけ。
でも、そこが問題。横断途中にあるシベリア高地は、冬場は北半球でもっとも冷え込むところだ。北極圏は氷山ができるとは言っても暖流の流れ込む海。だけど、シベリア高地は標高がある分だけ極地より寒くなるのよね。そこでガチガチに冷やされた寒気が、いよいよ東亜地中海を渡って龍状列島へやってきたんだ。
ついでに言うと、そのシベリアは西域支局と東亜支局の管轄だ。本当ならこの寒気、そのシベリア──バイカル湖のあたりから管理しなくちゃいけないのよね。
でも、ユメミは寒さが苦手だから、比較的暖かな龍状列島から管理している。で、上手くいかなかった怒りを欧州支局にぶつけたって感じかな。身勝手というか、理不尽というか……。
そのユメミがまたコタツから手を出して、お天気の状況を見ている。
「ユメミ。あたしは何をすればいいの? いつでも動けるわよ」
今のあたしはユメミの解析待ち。いつもなら自分の判断で動くけど、今は難しい状況なのよねぇ。もしも間違った気象操作をしたら、東亜地中海側に降っている大雪が、脊梁山脈を越えて太平洋側にも降るなんて結果を招きかねない。
「何もしないでぇ。いいぃ、絶ぇ〜っ対に何もしちゃダメよぉ」
「何もしないでって……」
ユメミにやる気をくじかれた。
「昨日も言ったけどぉ、寒気は上空にあるまま動かしちゃダメよぉ。これなら空気の重みで地上を暖めるんだからねぇ」
「断熱圧縮でしょ。でも、下が暖かいと……」
「逆転層だぁ〜って言いたいんでしょぉ。そんなことは百も承知よぉ」
ユメミが端末計算機に計算させながら、神経質そうに言ってくる。
「でもねぇ、今は冬よぉ。空気が乾いてるわぁ。その証拠にぃ、ほとんど雲なんかできてないでしょぉ」
「まあ、たしかに……」
強い寒気があるおかげで頭上の星空は瞬きも少なく、煌々と輝いていた。天体観測をするなら、絶好の観測条件だ。ただし、それは観測場所が寒気の中にある場合。地上はまだ暖かい空気に覆われてるから、上の寒気との境目で星が激しく揺らめいてるはずだ。
そんな星空の中に浮かぶ雲は、見渡す限り一個か二個しかない。空気が乾いてるから、あまり雲ができないんだ。
夏場だったら積乱雲がいくつも生まれて、激しい雷雨を起こしている状況なんだけどね。
「だからぁ、このまま大気が乱れないようにしてぇ、寒気をやり過ごすのよぉ」
「消極的だね」
「ふん。今回はこれが一番なのよぉ」
ユメミが作業の手を止めて、熱燗に手を伸ばした。
「このままにしておけばぁ、地上は寒気にさらされずに空気の圧力で温まったままで済むのよぉ」
熱燗をくいっと飲んだユメミが、両手をコタツに入れて丸くなる。
「うぅ〜。ここは寒いわねぇ〜……」
ユメミがコタツに突っ伏して、泣き言をいう。
ちなみにあたしたち精霊は、周りの気温をそのまま感じてるんじゃない。精霊の体感温度は高度に関係なく、大気圏の中ならほぼ地上の気温に近い温度を感じている。ただし、あくまでも今いる周りの空気が、地上に降りた場合の温度だ。直接、地上の温度を感じているわけじゃない。
だから、
「雲の上は寒気団の中だからね」
いくら地上を断熱圧縮で温めても、雲が寒気の中にある以上、あたしたちが感じるのは寒気が地上へ降りた場合の温度だ。
「この雲ぉ、寒気の下に動かせないかなぁ?」
「暖かさで消えるわよ。間違いなく」
実際、この雲があるのは気温の境界面よりも上だもんね。下に雲がないというより、その境界面で消えているんだ。
となると雲細工が作れないから、ユメミのコタツも置き場所がなくなってしまう。
「寒いよぉ〜」
ユメミがコタツに突っ伏して、天板を涙で濡らした。
ホント、暖房術が使えないから、寒さにはトコトン弱いわね。コタツから出て動けないのも当然だ。
「お二人さん。こちらにいてございましたのね」
そこへ女官風の衣装を着たフェイミンさんがやってきた。そのフェイミンさんが、
「様子見ついでに差し入れでございます」
と言って、突っ伏すユメミの顔の前に持ってきた品物を置いた。風呂敷に包んだ、二本の酒ビンだ。
「フェイミンさんがお酒の差し入れ? 珍しいわね」
「わたくしからではなく、キャサリンさんからでございます。あまり運びとうございませんでしたのに、『是非に』とムリヤリ押しつけられてしまいまして……」
そう話すフェイミンさんの横で、ユメミが酒ビンを包んでいた風呂敷を解いた。
「おおぅ〜!」
中味は高級なお酒だ。それを見たユメミが、目を丸くしている。
「フェイちゃん。一緒に飲もぉ。すぐに温めるわぁ!」
ユメミが酒ビンごとお燗しようとした。だけど、
「ご遠慮いたしたく存じます」
「あぁ〜。まだ温めてないよぉ〜」
フェイミンさんがお湯から酒ビンを取り出して、離れたところに置いた。そのフェイミンさんが、
「それよりも今夜の管理計画でございますが、寒気を地上へ下ろすのは、いつごろの予定でございましょうか?」
と尋ねてくる。
「そんな予定はないわぁ」
ユメミが即答した。
「ミリィさん。どういう計画でございますか?」
フェイミンさんの確認が、あたしにくる。
「ユメミ。このまま逆転層の状態を保ったまま、寒気をやりすごそうとしてるのよ」
「大気が不安定でございますのに?」
「不安定なまま安定させようとしてるのよ」
あたしの答えに、フェイミンさんがあきれた顔で肩をすくめてくれる。
まあ、お天気の世界って、そういうものだもんね。
不安定なまま安定。不規則な規則。乱れない乱れ方。軍事的な緊張の続く中での平和みたいなものだね。
これを大気を乱さないまま終わらせるのが、あたしたちの腕の見せどころ。
と言いたいところだけど、ユメミの本音は、
「あうぅ〜。コタツから出たくないぃ〜」
動きたくないだけだった。
ユメミが地上人だったら、お腹が空いてもコタツから出たくなくて痩せていくタイプか。それとも運動不足でプクプクに肥るタイプか。
「……うぅ。お酒が切れたぁ。ミリィ〜、そこにあるお酒を取ってぇ〜」
これは後者っぽいかな?
ユメミが空になった酒ビンを振って、替わりのお酒を催促してくる。
「イヤよ。そのぐらい自分で取ればいいじゃない」
「ええぇ〜? じゃぁ、我慢するぅ〜……」
ユメミがお酒よりもコタツを採った。意外にも前者のタイプだったのかもしれない。
「寒いぃ〜……」
ユメミがお尻を動かして、コタツの中へ潜っていく。
「喉が渇くわぁ〜……」
ユメミがそう言って、こっちに顔を向けてくる。
「ミリィ。お酒ぇ〜」
「自分で取りなさい」
暖房術が使えないと、精霊はここまで堕落するのね。
ユメミの周りにあったお酒を、少し離れた位置に移す。ユメミが手を伸ばしても、コタツから完全に出ないと届かないぐらいの距離に……だ。
「取りに行きゃぁいいんでしょぉ」
ユメミがコタツに入ったまま姿勢を変えた。コタツを背負ったまま動く、カメのようになる。というかヤドカリかな?
「ユメミ、雲の上は冷えてるけど、いいの?」
ユメミの動ける範囲は、コタツマットの上だけだった。そこから出たらお腹が冷えてしまうため、そこで動きが止まる。
あ、あきらめた。
ユメミが移動をやめて、コタツをマットの真ん中に戻す。
「いいもぉ〜ん。亜空間倉庫から出せば、いいだけだもぉ〜ん」
そう言ったユメミが、虚空に穴をあけた。そうか、その手があったか!
でも、
「あぁ……。うそぉ……」
広い亜空間倉庫の中には、酒ビンや酒樽がたっぷりと詰まっている。だけど、コタツに入ったままだと、品物に手が届かないようだ。必死に手をバタつかせているけど、穴の位置がお酒の近くまで動かないらしい。どういう構造でそうなってるのかは知らないけど……。
「うっうっうっ……。お酒ぇ〜……」
ユメミが哀れに見えてきた。
ああなったら、もう仕事は任せられないというか……。
「フェイミンさん。今の状況だけど、普通はどうなるのかな?」
ユメミが頼りにならないから、代わりにフェイミンさんに解説を求めた。
「今の状況でございますが、夏でしたらいつ集中豪雨が始まってもおかしゅうない状況と存じます」
「うん。そこはわかる。かなり強い逆転層ができてるから、いつグルンと大気の入れ替えが起こるか……」
「グルンって……。激しい対流とか、強い積乱雲と言いなさいませ」
フェイミンさんに言い方を注意されてしまった。
「でも、ユメミは寒さに弱いからね。寒気の重しを利用して地上を断熱圧縮して、そのままやりすごそうって……」
「気圧が高うなって、気温も上がってございますものね。とはおっしゃっても、雲の上は……」
「うん。そこが落とし穴」
ユメミの気持ち的には、冷え込みの管理っていうのがイヤなんだろうね。だけど、地上が温まった分だけ雲の上は冷えたままだ。
「承知しました。上空の寒気は地上へは降ろさず、そのまま海に出すおつもりでございますのね?」
フェイミンさんが念を押すように確認してくる。
「そうみたい。間違ってたらユメミに訂正を入れさせるわ」
「わかりました。では運命室には、その方針だと伝えておきます。海難事故への備えが必要と存じますので、早めに強い海霧が出ると伝えませんと……」
「あ、そうなるのか……。まったく思いもしなかったわ」
さすが水の上級精霊。水に関した現象は任せろってことだね。
「うぅ〜。ミリィ、寒いよぉ〜。身体の中から温まりたいよぉ〜……」
そういえば、あっちも水の上級精霊だった。あまりにもノンベが過ぎるから、いつの間にかお酒の上級精霊だと錯覚してたわ。
「そぉだぁ! ここが寒いのはぁ、寒気の中にあるからよぉ。雲の上だけでもぉ、下の空気を持ってくればぁ……」
ユメミが変なことを思いついた。
善は急げとばかりに雲に穴をあけて、そこから下の暖かい空気を持ってこようとする。
「あ……」
これはフェイミンさんの声だ。
「遅うございました。やめさせようと存じましたのに……」
「え? いったい何が……」
フェイミンさんが何を危惧してるのか、すぐにはわからなかった。でも、
──ぷしゅぅ〜……
穴から噴き上がってくる風が、どんどん勢いを増して強い上昇気流へとなっていく。
その風が穴を押し広げ、そして、
「あああぁ〜〜〜〜〜……」
コタツごとユメミを天高く吹き上げた。
ユメミはそのまま星空に消えて、キラッとお星さまになったようだ。
「空気が乾いてございますので、雲ができておりませんわ」
フェイミンさんも星空を見上げて、そんなことを言った。
──ぷしゅるるるぅ〜〜〜〜〜……
地上からの風が、更に太い流れになった。と同時に、
「うわぁ。この雲、少しずつ下がってないかな?」
逆転層にできた雲が、どんどん地上へ降りていくんだ。
「まるで空気が抜けたようでございますわ」
まさにその通り。ユメミの作った穴から、地上の空気が寒気の上へと抜けていった。
その代わりに上空で重しになっていた寒気が、地上へと近づいていく。
これ、夏ならば積乱雲ができるところだ。でも、今はまったく雲はできてないのよね。
その雲ができなければ積乱雲のような現象は起きないと、なんで思い込んでたんだろう?
真冬のステルス積乱雲。あたしの脳裏に、そんな単語が浮かんできた。
やがて地上に残った暖かい空気がすべて抜けると、地上は広く霧に覆われていた。ようやく雲ができたって感じかな。
そこへコチコチに凍ったユメミが、ドスンと落ちてきた。
『やあやあ、みんな。今朝の冷え込みはすごいねえ』
翌朝のニュース番組の気象中継に、派手な色の防寒着を着込んだ上沢氏が登場してきた。
『予想以上の放射冷却で、氷点下六度だよ、氷点下の六度。昨日の日中は一六度だったから、二〇度以上下がってるね。おかげで吐く息が白いというか、肺が寒さで痛いよ』
上沢氏がそんな泣き言を零しながら中継を続ける。
「うううぅ〜。放射冷却じゃないよぉ〜……」
とは、再びコタツで丸くなってるユメミだ。
昨晩は強烈な寒波の真ん中まで飛ばされて、すっかり凍りついてから落ちてきたからね。解凍作業に何時間もかかってしまった。
今はコタツで暖を取りながら、体調の回復に努めている。いつもの酒盛りだけど……。
『この冷え込みで、各地で水道管の破裂が報告されてるね。強い冷え込みが想定されてない地方では、北国のような凍結防止の対策は十分じゃないからね。これはとんだ災難だよ』
ユメミが熱燗をちびちびと飲みながら、地上界の気象報道を見ている。
地上は氷点下六度と報じてるけど、それは地面から一メートル半高い場所での温度。地面はもっと冷えているはずだ。
そこへ水道管が破裂して漏れた水が流れてきて、あちこちで路面凍結を起こしてるんだ。
運命室から想定外の交通事故が大量発生してると、寒気の管理担当のあたしたちへ苦情が殺到している。
そんな気象現象の管理本部にしていた雲の上では、
「フェイミンさん。どうして連絡してくださらなかったのかしら? そのために差し入れを持っていっていただきましたのに」
と、同業者からの苦情も来ていた。
文句を言ってるのは、ステルス積乱雲というか、地上から暖かい空気が抜ける現象を見逃したキャサリンさんだ。
「うちも準備だけは万全でしたのね」
相棒のノーラも、決定的な瞬間を映像に収められなくて、不満たらったらになっている。
ステルス積乱雲だから映像にはできないんじゃないかと尋ねてみたら、赤外線やレーダー波画像による映像を撮って、あとで可視化したものに加工する予定だったらしい。なるほど、だからカメラ類が何種類もあるのね。
「そんなにご覧になりたいのでしたら、ご自分でなさいませ」
フェイミンさんが、そんな二人の対応に困っている。まあ、勝手なことを言ってるよね。たぶん……。
そんな騒ぎをよそに、一番の当事者だったユメミは、
「寒いぃ〜。春まで温泉に浸かってたいぃ〜。冬の間だけでもぉ、担当を南にして欲しいぃ〜……」
などと不満を言いながら、一人で何本ものお酒を熱燗にして飲み干していた。
いい加減に身に着けようよ、暖房術……。