十三話:びちゃびちゃ
もう、全てが嫌になりました。
がんばって戦ってたのに、魔斧の威力のせいでみんな俺に近づきもしないし。
挙句に斧と一体化するし。
俺を受け入れてくれた村は村長ばっかの村だし。
それ嘘だったし。
恥ずかしいこと聞かれて、それきっかけでドラゴンに纏わりつかれるし。
親友の娘はエロ書物になってるし……。
「もう、なにもかも嫌になりました」
そんな呟きが聞こえたのか、アイシャが扉を激しく叩く。
「お兄ちゃん! いいかげんにトイレから出てきてよ! 謝るから、謝るからあッ! わ、私……おしっこ漏れちゃう! あっ」
もうどうでもいい。
漏らせばいいんだ。
エロ書物に何の恥じらいがあるというのだ。
「ご主人様、小娘が恥じらいながら粗相をするのは、私にとって覗き見る対象でしかないので構いませんが、少々問題が発生しております。一度お出になって頂けませんでしょうか」
「どうせ、どうせそれも嘘なんだろ! 俺をまた騙そうって言うんだろ! さすがに俺だってもう騙されないもん!」
「あなたあ、大変だよ? あっちこっちびちゃびちゃだよ?」
「……お前等が来てからずっとそうだよ」
あっちもびちゃびちゃ、こっちもびちゃびちゃ。
だからって今さらなんだと言うんだ。
「ご主人様、それが今回の濡れ具合は今までの比ではありません」
「アイシャに自分で掃除させとけよ。もう大人なんだから、それぐらい当然だろ」
「私まだ漏らしてないもんっ! っていうか、そういう話じゃないの、お兄ちゃん!」
「ご主人様、既に家中びちゃびちゃでもはやこの家はもうもちません」
どんだけ漏らしてんだよ。
「違うからね!? お兄ちゃんが思っているのとは違うからね!? っていうかもう出てよ! 私も、ほんとに……もう出る……」
すがりつくような声に少し心を揺すぶられながら、しかし俺はトイレから出ない。
もういいんだ。
誰もいないならここで俺は新しい村を作ってやる。
今度こそ村長として、俺が一から俺の居場所を作ってやるんだ。
人がいなくても村さえ残っていれば、やがて誰か俺を認めてくれるまともな人間も来てくれるだろう。
外の頭のおかしいドラゴン姉妹と親友のエロ書物じゃなくて。
「仕方ありません。エイミア、私は荷物をまとめます。あなたはここでご主人様のサポートをしてください」
そう言い残してラミアの足音が遠のいていく。
本当に荷物をまとめるつもりか。
そのまま二頭で出て行ってくれるのか……。
「あなたあ、しーしー、おしっこしー」
何のサポートをしてんだ、こいつは。
「あぁッ! やめてエイミアさん、それは……それは私に効くッ! だから、や、やめてぇ……」
何を勝手にサポートされてんだ。
「はあ」
何をしてるんだか何をしたいんだかわからないが、とりあえずアイシャだけは本気で言ってると、すすり泣き助けを求める声で確信できた。
仕方なく外へ出ると、入れ替わりですぐさまアイシャがトイレに駆け込む。
こんな奴らに囲まれて、これからどうしたものかと何気なく周囲を見まわし、俺はそれに気付いた。
「なんだこのびちゃびちゃッ!?」
床も壁も天井もびちゃびちゃだった。
しかもただ濡れているだけじゃない。
半固体状のゼリーのようなもので至るところが覆われ、濡れている箇所の中心には穴が空いている。
呆然としてそれを見ていて、俺は思い出した。
俺はそれを知っている。
見たことは数度しかないが、群れるととんでもない脅威になると云われる怪物。
そして今日久しぶりに見たばかりの怪物。
「ご主人様、お出になったようでよろしゅうございました。おめでとうございます」
「便秘だったみたいな言い方をするな。トイレには居たが俺は何も出しちゃいない。アイシャは今出してる最中だけどな」
「お兄ちゃん! 扉の前にいないでよ! 出るものも出ないわよ!!」
「それよりご主人様、ご覧の通りでございますので、お早く退避を」
「なんでだよ……なんでいきなり、こんな量のスライムが湧いて出て来るんだよ……」
家の至るところにへばりついたスライムが家を溶かしていっている。
最悪だ。
もうこの家はダメだ。
「なんで、なんでこんな事ばっかり……」
「おそらく、逃げた村長ズの仕業でしょう。村の周囲にスライムを配置し、いざという時にそれを放って全てを溶かし証拠を抹消する。人間らしい姑息な手段です」
スライムは単体では脅威にならない。
その能力は体内に取り込んだ虫をゆっくりと時間かけて消化する程度だ。
しかし群れると複数個体が一つに合体し、水分だけを捨てることでその消化液の濃度を増す。
そうなると、獣でも木材でも、そして人でも溶かす厄介な怪物へと変わるのだ。
だからスライム単体を密かに飼い、いざという時にそれらを合体させる。
そうすることで、ラミアの言う通り村ごと抹消することが可能になる。
あのパイに乗せられたスライムの残骸も、村で飼っていたスライムの残したものだったのだ。
今のタイミングで大量発生していることを踏まえると、確かにラミアの言う通り彼らの仕業と考えられる。
だけどそんなことをすれば、スライムによる被害は村だけではすまない。
「このままじゃ、付近一帯も巻き込まれるんじゃないか。あいつらそれがわかってて、こんなものを放ちやがったのか……?」
「おそらく。町までは距離が多少ありますし、そこまで森が広がっておりますから、人間の被害はほとんど出ないのかもしれません。しかし、この山と森、そして生息するものは全て喰われてしまうでしょうね」
消化の限界までスライムは周囲のもの全てを飲み込んでいく。
そして限界に達すると、元より多くの数に分裂してまた個体として活動し始める。
確かに広い森があるおかげで、町までは到達しないかもしれない。
だが森を消化した後、スライムはどれだけ増えるだろうか。
そして増えたスライムが町に到達し、また合体したとしたなら……。
「なんでだよ……。俺はただ、穏やかに過ごしたかっただけなのに。なんでこうも厄介ごとが舞い込んでくるんだよ」
嘆き頭を抱える俺に、不意に懐かしい言葉が投げかけられた。
「お前だからこそ、できることがある」
「……アイシャ、それは」
「そう、お父さんがよく言ってた言葉だよ。ねえ、お兄ちゃんはどうしたいの? 身体のことがあるんだから、もしお兄ちゃんが本当に戦いたくない、逃げたいって思うんなら、私はそれを止めない。でも、それなら普通、迷わずにすぐに逃げ出すはずだよ。なのにお兄ちゃんは迷ってる。それはなぜ?」
「それ……は……」
「お兄ちゃんがわかっているからじゃない? お兄ちゃんだからこそ、できることがあるって。そして、本当はそうしたいんじゃないの。だって、お兄ちゃんはヒーローだもん。私の憧れの、正義の味方だもん」
そんなこと言われなくてもわかっている。
いや、わかっていた……はずだった。
身体が斧になっていく恐怖で、いつしか忘れていたのかもしれない。
そもそも俺は、命がけで魔族と戦っていたはずだ。
この身体を――命を犠牲にしても、俺は人々を守りたいと思っていたはずだ。
魔斧の適正者だったからじゃない。
俺は本当に、心の底から、アッシュやアイシャ、俺が生きていて欲しいと思う人々の為に戦っていたはずなんだ。
ならば、死すら厭わず戦っていたというのなら、斧になることが何だって言うのか。
「アイシャ……すまない。俺は大事なことを忘れていたらしい」
「お兄ちゃん……」
そう、俺はいつしか忘れていた。
何よりも感じていたあの頃の気持ちを。
何よりも大事に思っていたあの頃の願いを。
俺はそれをはっきりと思い出した。
でもね。
「やっぱり斧はいやあああッ!」
「お兄ちゃんッ!? 今の流れは私の励ましでやる気出してカッコよく戦士に戻るみたいな流れじゃないの!?」
「うっさいバカ! 斧になっていってるのにカッコいいわけあるかよ! そもそもトイレから語りかけてきてんじゃねえよ。他人のやる気出す前にお前はさっさと出すもん出せよ!」
「バ……バカって言うほうがバカなんですぅッ! そんな扉の前でいつまでもうじうじされたら出るものも出ないわよ! って女の子に何を言わせてんのよ!」
「あなた、あたしは斧なあなたも大好き!」
「嬉しく……ないけど……ありがと。でも照れるから、もうちょっとやんわりと言って欲しいというかなんというか」
「何よッ! お兄ちゃんのチョロ斧!」
「誰がチョロ斧だ! このカエル頭に載せたエロ書物が!」
「別にエリザベスを頭に乗せてたってそれは私の勝手でしょッ!」
「名前つけてんじゃねええよッ!」
しかも無駄に歴史と気品がある。
少なくとも斧人間よりは良い名前だ。
カエルのくせに。
「ああもうっ! 言い合いしてる場合じゃない。このままだと俺達も危ういんだ。さっさと行く……。ラミア、なんか身体が大きくなっていってない?」
ふと気付けば、ラミアの身体が通路を塞ぐように膨れ上がり、そして白い肌が漆黒に染まっていっている。
大きく目を見開き、その口からは幾つもの鋭い乱杭歯が覗くその姿を見れば、彼女が何をしようとしているかはすぐに理解できた。
「ご主人様、残念ですが退路を塞がれましたので、強行突破することに致しました」
もはや我が家に別れを惜しむことも許されないらしい。
諦めのせいか、喉からは渇いた笑いが無意識に漏れる。
アイシャ、漏らさないといいけどな……。
視界を漆黒の鱗が埋め尽くす。
巨大なドラゴンの出現によって内側から破壊された安らぎの我が家は、粉微塵に爆発四散した――。




