6話 魔法紋
正式に仲間たちと別れて区切りをつけたからか、あの日からテフランの実力は伸び始めた。
いや、ファルマヒデリアと出会う以前の装備が貧弱に過ぎて実力の伸びを邪魔していて、動く甲冑から得た武器防具に慣れたことで真の実力が発揮できるようになったという方が正しいのかもしれない。
理由はどうあれ、テフランは迷宮の出入り口付近で戦うのを止め、もう少し奥に進んでもう少しだけ手強い魔物を相手にすることに決めた。
その判断とテフラン自身の調子は良好で、小動物が大型化したような見た目の魔物に後れをとることはない。
一対一はもとより、数匹対一人の状況でも危なげなく勝てていた。
その危険のなさは、近くでも守るファルマヒデリアが常に笑顔でいることからもわかる。
魔物の素材――多くは毛皮にある魔法紋の部分を剥ぎ取って、鞄に詰めていく。
鞄が満杯になったら、迷宮を脱出して組合で換金する。
昨日よりさらに多くなった報酬を手にして、テフランは考える。
(いつもの食堂で食事をしても、少し余るな。魔法紋を体に刻むために、貯めておこうかな)
セービッシュたちが魔法紋を掘った事実もあって、テフランもかなり乗り気である。
魔法紋を体に刻めば憧れの魔法を使えるようになるし、稼げる実力があるとみなされて、渡界者の間で一目を置かれる立場になれる。
良いことづくめのことばかりなので、食事の席でファルマヒデリアに話すことに、テフランはためらいはなかった。
しかし、反応は意外なものだった。
「それは許しません」
いつも笑顔が多いファルマヒデリアが、珍しく真顔で否定してきたのだ。
理由もちゃんとはなしたので、てっきり賛成してくれると思っていたテフランは、途端に腹を立てる。
「許さないって。どうしてだよ。渡界者にとっては、良いことしかないって言っただろ」
「あんなモノを体に刻むなんて、テフランには害にしかならないからです。そもそも、魔法紋をどうして刺青で体に入れるのか、理解に苦しみます」
「……魔法紋を体に持っている、ファルリアお母さんが言うことか?」
「私のは生まれ持っての機能です。後天的に入れるものとは違います」
それはそうかと納得してから、テフランはもう一度、魔法紋を体に入れるメリットを話していく。
「魔法紋は、魔法を使う度に劣化していくものなんだ。道具に入れたら、魔法を使う度に効力と道具自体の強度が落ちていってしまう。けど体に刺青で入れると、怪我が治るように、魔術紋の劣化も治せるんだ」
だからこそ戦闘で魔法を使う職種の人間は、魔法紋を刺青するのが普通なのだと、テフランは語った。
それを受け、ファルマヒデリアは首を横に振る。
「いくつかテフランは――いえ、人間たちは魔法紋について勘違いしているようです」
「勘違いって、どういうことだよ」
ファルマヒデリアは口を開きかけて、ここが食堂だと思い出して口を噤み直し、話は帰宅した後でということになった。
真相が気になるテフランは、食事をぱぱっと終えると、ファルマヒデリアの手を繋いで、引っ張って急いで家に入る。
「それで、魔法紋の何が勘違いなのさ?」
ずいっと顔をつき出して聞くと、ファルマヒデリアの顔が近づいてきた。
声を潜めるためかと思いきや、鼻先が触れるより内側へ侵入してきて、唇同士が触れそうになる。
「どわあああああ! な、なにキスしようとしているんだよ!」
大慌てで体を離したテフランは、指で唇に触れてキスされていないことを確かめている。
その姿に、ファルマヒデリアは首を傾げた。
「テフランが顔をつき出してきたものですから、てっきり私、口づけを強請られているのかと思いまして」
「そんなわけないでしょ! 話が聞きたかっただけだってば!」
「ふふっ、分かっています。冗談ですよ。でも、そんなに嫌がらなくても、いいではありませんか」
「うぐっ、嫌っていうか、ちょっと驚いたというか心の準備が――って、今のなし!」
悲しそうなファルマヒデリアの表情に、テフランは口が滑りそうになった。
しかし何を言おうとしたのか分かってしまったファルマヒデリアは、途端に嬉しそうな表情に変わる。
「お求めならば、いつでもどこでも、この唇を好きにして下さってよいのですよ」
健康的に赤い唇を、ファルマヒデリアは見せつけるように近づける。
テフランは思わず目を奪われ、そして口づけしたときのことを思わず想像して、生唾を飲み込んだ。
それと同時に、求めればすぐに手に入る状況の危うさを知った。
「キ、キスの話はもういいから。ほら、魔法紋の話をしてよ」
「まったくもう。口づけぐらい、減るものじゃありませんのに……」
唇に指を当てて不服そうにしてから、ファルマヒデリアは本題に入った。
「テフランたちは、魔法紋について間違った認識を持っています。それに見るに、渡界者に刻まれているものは不完全なものばかりです。どんな理由があろうと、とうてい愛しいテフランの体に刻むのは許しません」
急に『愛しい』と言われて赤面するテフランだが、すぐに我に返る。
「待って。不完全ってどういうことだよ。魔物や魔獣から剥ぎ取った魔法紋を書き起こして使っているから、間違っているはずがない」
「そこが勘違いなのです。魔物から取った魔法紋自体は、たしかに正しいものです。しかし『書き起こす』という行為で、品質が歪んでしまっているのです」
理由がわからずに首を傾げるテフランに、ファルマヒデリアはペンと紙を持ってきた。
「いまから、指に火を灯す魔法紋を浮かばせます。簡単な形のものですので、その紙に書き写してみてください」
「分かった。やってみる」
ファルマヒデリアは手袋を脱ぐと、立てた人差し指に魔法紋を浮かばせ、指先に火を灯した。
テフランから見えるその魔法紋は、『ト』の横に『ク』をくっつけたような形をしている。
その通りに紙に書いて差し出すと、火を指から消したファルマヒデリアは『思った通り』とにっこりと笑った。
「これで火は灯るでしょうが、この形では不完全なのです」
「そんなことあるわけない。実際に見た通りに書いたんだから」
「そう、見た通りに書いているのが間違いなのです。なにせ魔法紋とは『平面的』ではなく『立体的』な模様なのですから」
「立体的って、どういうこと?」
「つまり、表面から見える魔法紋の輝きは、何層にもわたって重なった魔法紋を透かし見ているようなものなのです。平面的に見れば間違っていないので魔法は発動しますが、効果は不完全となってしまうのです」
テフランの想像が追いついていないと見たのか、ファルマヒデリアは紙を一枚取ると、ペンで線を引いていく。
先ほどテフランが書いたものより、少し複雑な形で十倍は長い。
書き終わるを四つに折り畳み、それをテフランの前に差し出す。
「この状態で、ランプの光にかざしてみてください。テフランが書いたのと同じ模様が見えるはずです」
言われた通りにやってみると、本当にその通りだった。
テフランは首を傾げ、畳まれた紙を開いてみる。しかし、さっきファルマヒデリアが書いた通りの線があるだけ。
折りたたんで透かして見れば、『ト』と『ク』をくっつけたような形が見える。
ここでようやく、テフランはファルマヒデリアが言いたいことが分かった。
「本当は複雑かつ長い模様を折って重ねることで、体の中に小さく収めているってことか」
「火を灯す魔法でその長さですからね。高威力の攻撃魔法になると、平面的に正確に書くと、この部屋の壁全てを使ってギリギリ足りるという具合ですから」
ファルマヒデリアは、テフランが書いた紙と自分が書いた紙を取り上げると、両方に魔力を通した。
線が淡く光ると、両方の紙が燃え上がる。
むろん、ファルマヒデリアが書いた方が、より明るく、より激しく燃え上がっていた。
これでテフランは、人間が使う多くの魔法紋が不完全であると認識を新たにする。
だが、続く疑問はある。
「もしかして、不完全なものだから、魔法を使う度に劣化するのか?」
「それは違います。不完全なものほど劣化は早いですが、完全なものであっても劣化は免れません」
「それなら、結局は刺青を入れないといけないんじゃないの?」
「考え違いをしていますよ。劣化するのは魔法紋ではなく、魔法紋の周りにある物質の方です」
「ということは、物に書いたらその物自体――刺青だと人間の肉体が劣化するってこと?」
「その認識で、間違いありません。だからこそ、テフランの体に入れるのは決して認められないのです」
「いやでもさ。体は傷を治すものだろ。劣化した部分だって治るんじゃないのか?」
「治りはするでしょう。ですが、果たして元通りになるのでしょうか?」
「えっ。違うの?」
「魔法は、この世界ではありえない現象を引き起こしているのです。その元となる魔法紋の影響にさらされて、肉体が無事でいられる保証はありません。ある日突然、病気を発症することだってあり得ます」
ファルマヒデリアが語ったことは、この世界の根幹を揺るがしかねない大事だった。
それほど今の世の中には、魔法と魔術紋はありふれたものになっているのだ。
「そんな。嘘だろ」
「真偽を疑うのは構いません。ですが、私はテフランに魔法紋の刺青を入れさせません。それは絶対です」
呆然とするテフランに、ファルマヒデリアは表情を緩める。
「それにテフランが異世界――地底世界に行きたいのなら、魔法紋は入れない方がいいですよ。むしろ邪魔になりますから」
「……それってどういう意味。もしかして、ファルマヒデリアは地底世界のことを知っているの?」
思わず問い詰めようとするテフランの口に、ファルマヒデリアの人差し指がつけられた。
唇に感じる人肌の温かさに硬直するテフラン。
ファルマヒデリアは余裕ある大人の笑みを浮かべると、意地悪を思いついた目つきに変わる。
「内緒です。だって私、テフランが夢のために迷宮に挑むことに理解は示しても、本心では快く思ってないのですからね」
それ以降、テフランがどう頼んでも、恥を忍んで甘えてみても、ファルマヒデリアは決して地底世界のことについて話そうとはしなかったのだった。