16話 アティミシレイヤとの今後
家に戻ったとき、テフランは気づいた。
「この家、組合が借してくれていたんだった」
組合長と敵対するような真似をしたのだ。出ていけと要請されるのではないかと、テフランは心配した。
「退去の準備をしておいた方がいいのかな」
腕組みして考えるテフランに、ファルマヒデリアは笑顔を向ける。
「スルタリアが「今後もよろしく」と言っていましたから、気にしないでいいでしょうね」
「でも、あの人は秘書だよ。組合長がダメと言えば」
「あら、テフランは気づいていなかったのですね。スルタリアの方が立場が上なのですよ」
「……えっ? 組合長の方が秘書より立場が下なの?」
一般的に考えればあり得ないことに、テフランは混乱する。
ファルマヒデリアも少し不思議そうにしながらも、確信はしていた。
「二人の間に、なにかしらの取り決めがあるのでしょうね。なににせよ、退去の準備は、言われたらすればいいのです」
「その通り。強制的に追い出そうとしてきたら、こちらも力づくで抵抗してあげるから」
ファルマヒデリアのあっけらかんとした物言いと、アティミシレイヤの確約を受けて、テフランは苦笑いする。
(二人の告死の乙女を相手に、強権的に強気になれる人はいないよね。過剰戦力にもほどがあるし)
そんな強大な力を持つ二人が、己の従魔であることについて、テフランは心境を改める。
(今回はアティミシレイヤを止めるためにファルマヒデリアを頼ってしまったけど、これから先はあてにしないように心がけないとな。自分自身の力じゃないものに頼り出すと、人間は腐っていくって教わったし)
ありし日の父親の言葉に従おうと、テフランは決意する。
そんな心掛けを知ってか知らずか、ファルマヒデリアとアティミシレイヤは動き始める。
「ほらテフラン。数日ぶりに帰ってきたのです。お風呂の準備をしますから、迷宮でたまった汚れを落としましょう」
ファルマヒデリアは風呂場へ向かうと、湯船に魔法でお湯を張り始める。
この後どうなるか理解して、テフランがこっそりと自室へ引き上げようとするも、アティミシレイヤに阻まれてしまった。
「風呂に入るのだから、装備を下ろすのを手伝ってあげよう」
「ちょっと、どさくさにまぎれて、服に手をかけないでよ!」
「恥ずかしがらなくていい。お互いに口づけをしあった仲だ」
アティミシレイヤがグイっと顔を近づけて放った言葉に、テフランは思わず赤面する。
「あ、あのときは、あれしか方法がなかったからで」
「それはその通りだが。テフランは、嫌々してくれたのか?」
普段と変わらない調子での問いかけだが、その瞳には少し寂しそうな色が浮かんだ。
テフランはその感情を察知しつつ、ついアティミシレイヤの薄く整った唇に向けてしまい、慌ててそっぽを向きながら答える。
「必死だったからよく覚えていないけど、イヤじゃなかった」
顔を赤くしながらの告白に、アティミシレイヤは微笑みを浮かべる。
その笑顔は、愛しい感情半分、からかい感情半分のものだ。
「嫌ではなかったのならよかった。でも、よく覚えていないのは問題かな」
言いながら、アティミシレイヤはテフランの頬に手を添え、横向いている顔を真正面へと引き戻した。
そして軽く唇を舌で湿らせると、ゆっくりと顔を近づけていく。
絶世の美人の唇が近づいてくる様子に、テフランは魂消て呆然としてから、急いで顔を逸らそうとする。
「なんでそういう結論になるんだよ。っていうか、顔が動かせない!?」
「告死の乙女の中でも戦闘型だぞ。魔法紋を使わなくても、人間より膂力は上なんだ」
じっくりと時間をかけて近づいてくる唇に、テフランは真っ赤な顔で混乱しながら、受け入れるべきか跳ね除けるべきかを必死に思考する。
心が決まらないままに、あと薄紙一枚の距離さえ詰めれば触れるという場所まで、アティミシレイヤの顔がきた。
まさにそのとき、救いの声がやってきた。
「お風呂の準備ができましたよ――って、邪魔しちゃいましたか?」
お風呂場から戻ってきたファルマヒデリアは、二人の様子を見て事情を察すると、続けてと身振りする。
しかし、テフランはいまが好機と逃げ出すことにした。
アティミシレイヤの腕を下から上へと持ち上げつつ、地面にしゃがみ込む。
頬を挟んでいた手が外れたのを確認してから、テフランはお風呂場へと走った。
「お風呂に入るから!」
扉を閉めて、つっかえ棒をする。
(お風呂の乱入対策に準備していてよかった。これでファルマヒデリアとアティミシレイヤは入ってこれない)
安堵しながら、テフランは服を脱ぎ捨てて、石鹸で泡立つ湯船へと身を沈めた。
迷宮で蓄積していた疲れが、お湯に溶けていくような心地に、全身の力を抜いていく。
あまりの気持ちよさに眠気がきたとき、カランと物音がした。
テフランが何気なしに音のした方向を見ると、つっかえ棒がなぜか転がっている。
そして全開になった扉のところに、恥ずかしげもなく裸体を晒すアティミシレイヤが立っていた。
少し筋肉質ではあるものの、小麦色の肌は瑞々しく、乳房や臀部は女性特有の丸みを誇っている。
腕と足に魔法紋の過剰行使による出血跡が少し残っているが、その健康美は少しも減じてなく、男性なら誰もが目をくぎ付けにすること間違いなしだった。
それはファルマヒデリアの美貌に慣れつつあったテフランですら、見惚れてしまうのに十分なほどだ。
一方で、アティミシレイヤは遠慮のない足取りで風呂場に侵入し、そのまま湯船に足を突っ込んでくる。
そこでようやく、テフランの自意識は再起動した。
「ちょ、ちょっと、なんで普通に入ってくるんだよ!」
「ファルマヒデリアに、テフランと一緒に入ってはどうかと言われたからだ。裸の付き合いは、関係性を深めるのに重要だからってね」
「それは、何か違う気がする!」
「でも、ファルマヒデリアと一緒に入っているのだろ?」
「それは止めてっていっても止めてくれないから、つっかえ棒を用意したり対処をしようと――」
やり取りの最中に、テフランの目にアティミシレイヤの下腹部付近が映り込んだ。
湯船に片足を入れ、もう一方を外に出したままという、開けっぴろげになったその大股を。
「――喋るなら、足を閉じてよ!」
酷く赤面しながら、テフランは顔を手で覆った。
アティミシレイヤはどこを見られていたのかを悟ると、納得して湯船にもう片方の足を入れる。
その際の湯面の揺れで察知して、テフランは狭い湯船の端まで逃げた。
「なんで入ってきてるのさ!」
「足を閉じろと言ったのは、テフランだろ?」
「湯船から出てって意味だったんだよ!」
「そうなのか。それにしても――はぁ~、あったかいな~」
アティミシレイヤは抗議を無視して、完全に湯船の中に入った。
テフランは言い分が通じなかったことに項垂れると、目を瞑って湯船を出ようとする。
しかしその肩を、アティミシレイヤに押さえつけられた。
「すぐに逃げようとするのは、失礼ではないか。心がいささかに傷つく」
アティミシレイヤはテフランの足に自分の足を絡ませて脱出を阻むと、目を開けさせようと試み始めた。
事ここに至ってしまっては、テフランも諦めるしかない。
心を決めて、動揺しないよう気構えしながら、その目を開ける。
だが塞いでいた視界にいきなり、対面に座る絶世の美女の裸体を入れた衝撃で、テフランの鼓動は急激に高鳴ってしまった。
赤面の度合いが強まり、お湯の温かさもあって意識が揺れる。
そうとは知らずに、アティミシレイヤは嬉しそうだ。
「ようやく、ちゃんと見てくれたな。それでどうだ。好みの見た目かな? そうであれば嬉しい」
両手を広げて裸体を見せつけてくるアティミシレイヤに、テフランは揺れる意識から素直に答えてしまう。
「とても美人だよ。美人過ぎて、俺の好みかは、正直わからないけど」
「女性の好みが固まっていないのか。では、好みから外れているのではないのであれば、それで良しとしよう。さて、洗ってあげてと頼まれているからな。テフラン、近くに来て欲しい」
アティミシレイヤは腕を掴んで引き寄せると、テフランの体を素手で洗い始めた。
体を這いまわる手に、テフランにくすぐったさと気持ちよさがないまぜになった感触が走る。
「ちょ、自分で洗えるって」
拒否しようとするも、アティミシレイヤは決して放そうとしない。
「いいから任せて。戦闘型でも奉仕作業はできると証明するから」
どこか嬉しそうかつ甲斐甲斐しい手つきで洗うアティミシレイヤを見ると、年上の女性に弱いテフランは強く拒否できなくなってしまった。
加えて、背中から洗ってくれるファルマヒデリアは違い、対面に座って体を洗ってくれることに免疫がないため、意気地が消えてしまう。
テフランの首や腕を擦っていたファルマヒデリアの手が、胸元や胴体へと順々に移動し、やがて腰元へ伸ばされた。
その際に腕に触れた「なにか」に、アティミシレイヤは少し驚き、続けて恥ずかしそうにする。
「えっと、テフランも男の子だものな。うんうん、この体を見てそうなってくれたのなら、喜ぶべきことだ」
自分の一部の変化を知られたことに、テフランは顔を赤くすると、耐え切れなくなって湯船から勢い良くたちあがった。
「も、もう十分綺麗になったから――」
羞恥と湯あたり気味で上がっていた血圧が、急激に立ったことで一気に下がってしまった。
テフランは目を回して崩れ落ち、頭を浴槽か床かに打ち付けそうになる。
だがその前に、アティミシレイヤの手がそっと受け止め、自分の体をクッションにするように引き寄せた。
身が屈んだことで頭への血流が戻ったテフランは、いまの自分の態勢に大慌てになる。
「ご、ごめん。すぐ離れるから」
「急いで動くと、また立ち眩みを起してしまうぞ。少し落ち着くまで、こうして抱かれてなさい」
アティミシレイヤに抱き留められては身動きが取れず、テフランは諦めて体の力を抜く。
そうして少し落ち着いてみると、意外なほどに心地がよかった。
(……ファルマヒデリアより、抱きしめるのは苦しくないな。あと、ちょっと体温が高いかな)
優しい抱擁に安堵しているテフランに、アティミシレイヤはそっと呟く。
「いま心の中で、誰かと比べなかったか?」
「ごめん。ファルリアお母さんとね」
正直に告白したところ、アティミシレイヤは思案顔に変わる。
「つかないことを聞くが、ファルマヒデリアは母なのか?」
「義理の親子って設定を、組合長につけられてからね」
「それでは、我々の関係も母と子の関係になるのかな?」
意外な言葉に、テフランは抱き留めらたまま小首を傾げる。
「母親が二人っていうのは変でしょ。だから、姉とかになるんじゃないかな?」
「むっ。ファルマヒデリアの子であるという立場は、少し嫌なのだが」
「嫌と言われても、それ以外に方法がないんじゃない?」
「むむむっ、いや待て。テフランの父親と母親は別れていたのだったな」
「もしかして、生き別れの母親ってことにするの? その見た目だとムリだよ」
アティミシレイヤは健康美に優れていて、見た目が若々しい。とても、テフランの歳の子を持つ経産婦には見えないどころか、子がいるとすら納得されない次元である。
それを危惧して無理と断じたテフランだったが、アティミシレイヤは違うと首を振った。
「その母親の恋人ということにすればいいのだ。そして死ぬ際に、生き別れた子のことを託されたのだと」
「……要するに、俺の顔も知らない母親が父親と別れたのは、異性より同性の方が好きな人物だったと。そして、死ぬ間際の恋人がアティミシレイヤだったということにしようと?」
「その偽装背景なら、テフランの母親代わりという立場に収まることができるだろ」
「まあ、同性の恋人っていうのはいなくはないって聞くけど……」
渡界者は徒党を組む際、異性間のいざこざを持ち込まないように、同性だけで組む者が多い。
そして生き死にを共に乗り越え続けた関係性から、同性の仲間でも恋人に発展することは、珍しくはあるが、ないわけではなかった。
でも、アティミシレイヤが義母になりたいために、実際の母親を同性愛者にするのは、母の愛情に飢えていた経験があるテフランには躊躇われた。
「俺の父親がファルマヒデリアとの関係を隠して、アティミシレイヤと二股していたってほうが納得がいくよ」
「いいのか? 迷宮で話を聞いた限りでは、色々な教えを授けてくれた人物のようだったが?」
「いいんだよ。手の早い人だったから、恋人がいなかったときなかったよ。俺の父親を知っている人なら「あいつなら二股ぐらいしていたろ」って言うよ、きっと」
「……なかなかに、豪放磊落な人物であったのだな」
「渡界者としては、とても優秀かつ信頼できる人だったけどね」
そんな話を至近距離でしていて、テフランはお湯の温かさとアティミシレイヤの体温で茹だる寸前になっていることに気付く。
「もう出ないと、また気絶しちゃう」
「では、出るのを手伝おう。ふらふらして危なさそうだから」
アティミシレイヤに介助されながら湯船の外に出て、用意されていたタオルで体を拭っていく。
しかし着替えを用意するのを忘れていたため、二人してどうしようと顔を見合わせる。
ちょうどそのとき、ファルマヒデリアが二人分の着替えを手に入ってきた。
まるで扉の外で待ち構えていたかのような登場だが、テフランは何も言わずにおいた。
ファルマヒデリアは着替えを渡しながら、テフランとアティミシレイヤの関係が深まった様子に頷くと、これから先は自分の番とばかりに、テフランを連れて出ていってしまう。
一人取り残されたアティミシレイヤは、軽く肩をすくめると、いそいそと着替えていく。
「なにはともあれ、これで自分もテフランの義理母ということでいいのだよな?」
その独り言に誰の返答もなかったが、アティミシレイヤはそう決めたという表情になると、テフランたちを追って風呂場から去って行ったのだった。




