九夏三伏
あの夏はやけに暑かった。
「あっちぃ」
目玉焼きが焼けそうな道、今にも焦げそうな木製の電柱、両脇には鬱陶しいぐらい草が繁っている。
身体の中まで刺してくる様な陽射しを遮るものは何も無くて、気休め程度にしかならない野球帽を手にしてパタパタと扇ぐ。
水色のシャツはいつの間にか、やや濃い色になっていて、もしかしたら俺はこのままミイラになるんじゃないか? って思う程だった。
「だめだ、耐えられねぇ」
休むのに丁度よさげな木陰に入って腰を下ろし、肩から下げた水筒の中のお茶を飲む。
水筒を傾けると、カラカラと中の氷がぶつかり合う音が聞こえて、少し痛いぐらい冷えたお茶が喉と胃の形を鮮明にしながら流れていく。
「くはぁぁあー。うめぇ!」
俺は夏休みを利用して、田舎のじいちゃんばあちゃんの家に泊まりに来ていた。
周りを山に囲まれた村で、盆地になっているせいで冬は寒くて夏は暑い。その上、前日に見た天気予報では今日は今年一の暑さになるとか言っていたっけ。
暑いのに暑いのが加わるともっと暑くなる事ぐらい当時小4の俺にでも当たり前に分かる話だった。
それでも俺は何故かじいちゃんばあちゃんの家から出ていた。
別に喧嘩した訳じゃない。田舎だから外に出ても何もない、それでも家に居るよりは何か面白い事があるかも知れない、そう思っただけだ。
村には本当に何も無くて、家の近くには何故かボロボロの駄菓子屋が一件あるぐらい。村のみんなが食料を買い集めるコンビニは自転車で最低でも30分ぐらいかかる。
だから、この村では車が必需品だった。無論じいちゃんも持ってるし、じいちゃんは車を出して何処かへ連れて行ってくれる事もある。だけど、今日は何となく一人で歩き回りたかったんだ。
「お茶、残しとかないとな……」
家を出る前にばあちゃんから渡された水筒のお茶は、家から出て1時間足らずで既に半分ぐらいになっていた。
一応念のために小銭は持ってきたけど、この村じゃたいした意味は持たない。だって自販機なんてものなかなかお目にかかれないから。
「どーしよっかなぁ」
目的も無く、ただブラブラ歩いて約1時間。面白い事に出会う訳もなく、むしろ途中から歩いてる事が面白くなり始めていた。
空は目に痛いぐらい青くて、浮かぶ雲の白さがまた一段と目に痛かった。
たまに吹く風が、ちょっと緩めの半ズボンを揺らしていく。
少し休んで、荒くなっていた息を整えた所で立ち上がって俺はまた歩き始めた。
草の青臭さを嗅ぎ、離れた所からちらほらと聞こえてくるクマゼミの鳴き声に耳を傾けて、少し見上げた位置に咲いている向日葵を綺麗だなって思いながら。だけどやっぱりこの暑さは嫌いだ、なんて思いながら。
どれぐらい歩いたかなんて覚えていなかった。ただ、歩き続けていると目の前に朽ち果てた朱色の鳥居が立っていた。
「こんな所に神社なんてあったっけ?」
この村を歩き回るのはこれが始めてでは無かった。今までにも何度か村に来て、今日みたいに歩き回ることもしていた。
だけど、こんな鳥居を見たのは今回が初めてだった。ボロボロさ加減から言って、かなり昔に立てられたものだろう。鳥居は既に崩れ落ちて、蔓草が何本も絡みついていて、地面に落ちた破片や辛うじて形を保っていた物とかから鳥居であった事が分かるぐらいだった。
じいちゃんとばあちゃんには、危ない所には言っちゃ駄目だと言われていた。山を舐めちゃいけないと、耳にタコが出来そうなぐらい言われていた。
だけど、だからこそなのだろうか。この時の俺はこの鳥居の先がすごく気になった。駄目と言われれば言われるほど行きたくなるから、心の何処かでは駄目だと思っていたけれど、それよりも自分の好奇心の方が圧倒的に強かった。
それに何度かこの村に来て、ある程度山に慣れているからと思っていたからだろう。根拠の無い自身が、いや慢心が俺の事を奥へと進ませた。
自由に伸び放題な草を掻き分けて進む。最初は足元がボコボコになっていて不安定で、一歩足を踏み出すたびに足場を確保しなくては危なかった。
鋭い葉が俺の足にサッと触れては切っていく。よくしなった枝がその跳ね返りと共に、まるで鞭で叩きつけるかの様に当たってくる。手にも木の棘が刺さったり、暫く取れなさそうな程に粘着質な樹脂がベタベタと引っ付いてきた。
だけど俺にはその全てが、冒険の香りに感じられた。
夢中になって奥へ進めば進むほど草が少なくなり、足元はしっかりとした石畳へ変わっていた。
鳥居のあった辺りは石畳が崩れていたり、草のせいで地面が隆起していたから足元が不安定だったんだと、この時分かった。
足についた草を払って、手の汚れを半ズボンで吹いて、絞れば汗が止めどなく出てきそうなシャツで顔の汗を拭う。
そして、改めて辺りを見回してみる。
鳥居のあった入り口とは打って変わって、今は高い木々に覆われていて、殺人的なまでの直射日光は心地よい木漏れ日に変わっていた。
程よく生えた草木のお陰で気温は今までより暑くなくて、少し休憩すれば汗も時期に引くだろうか、といった感じだった。
そして、肝心の石畳の先には、蔓草に絡まれながらもしっかりと立つ朱塗りの鳥居が。近づいて見ると、塗装は剥げているし、ところどころ崩れていたり、鳥居の上部の丁度真ん中の所には何かが乗っていた様な形跡はあったけれど、今は何も乗っていなかった。
それでも、入り口の所のボロボロな鳥居と比べてみれば、しっかりと鳥居としての機能を果たしている様に思えた。
鳥居のさらに向こうには石造りの階段があって、見た感じ20段前後に見える。
最上段の左右には木製の柵が見えていて、それはどうやら上へ登った人間が落ちないための柵の様だ。
俺は不思議な高揚感に包まれながら、階段を1つ、また1つと登って行く。一段上がるたびに、心臓の鼓動も1つ上がる様な気がした。
「……」
階段を登りきった先に広がっていたのは、世話をする人間のいなくなった悲しげな社だった。鳥居があったのだから、予想は付いていた。だけど、俺が言葉に詰まったのは、もっと華やかなものを予想していたから。
今思えば、そんなに華やかなものがあるはずがない事ぐらい分かることだった。だけど、この時の俺は上がりきった高揚感と興奮が、この社を見て一気に冷めてしまったことを鮮明に覚えている。
社へ近づいて、眺めてみる。2つ目の鳥居と同様に、塗装が剥がれ、木々は腐り、壁に亀裂が走しっていた。
少し触れるだけで崩れてしまいそうな儚さ、それなのに悠々と、それでいて威厳を感じさせる力強さ。まるでこの社の周りだけ別の時の流れであるかのような、そんな気がした。
さっきまでの興奮は、とうに冷めていた。だけどこの時の俺は、この神社には何があるんだろうと、既に次の好奇心が湧いていて、それに釘付けだった。
社の前面の扉、この扉の先には何があるんだろうかと、木製の階段に足を伸ばそうとした時
「待って!」
突然に誰かに声をかけられて、俺はすごく驚いた。
「その先には行かないほうが良いよ、木が腐っているから足元は抜け落ちるだろうし、下手すれば全部崩れ落ちて下敷きになるかもしれない」
そう言われて急に恐ろしくなり、自分がやろうとしたことを反省する。
声のした方向を向くと、俺よりも3つほど年上だろうか?といった年齢の女の子が立っていた。
髪は短く、半袖半ズボン、野球帽を被っていてその時の俺と同じような格好をしていた。だけど、顔はあまり思い出せない、それなのにどんな表情を浮かべていたかは思い出せる。そして溌剌とした子で、とてもボーイッシュだったことも覚えている。
「ごめん」
「大丈夫だよ。怪我する前で良かった」
女の子は俺の事を怒らなかった、むしろ肩を撫で下ろして安堵しているように見えた。
「こんな所に私以外の、しかも私より小さい子がいるなんて珍しいね、どこの子?」
「山中」
「ああ、山中さんの所の……お孫さん?」
「そう」
凄くびっくりした事と、この村ではあまり見ることの無い歳の近い人間を見た事もあって、俺の口調は随分と素っ気ないと言うか、無愛想なものになってしまっていた。
「こんな所で何してたの?」
「……冒険」
「そっかー冒険かー。じゃあ君、良い場所見つけたね!」
帽子の上から、強くて優しい力で頭を撫でてきた。
「……怒らないの?」
恐る恐る聞いてみる。普通なら怒られてもおかしく無いような事をしているのに、この女の子は全くそんな気配を見せなかったから。
「んんー。だって私もここに居るわけだしね」
女の子もここに居る事に対して何処かで後ろめたさと言うか、罪悪感のようなものがあったのだろうか、あまり多くを語ろうとはしなかった。
「いいでしょう? ここ」
「……うん」
「ここね、私の秘密基地なんだ」
ゆっくりと社に近づく女の子、ボロボロの柱にそっと触れて話し始めた。
「本当はね、もっと立派で毎日誰か人が来ていたらしいんだ。だけど、ずっと前にここの神主さんが亡くなっちゃって、それからも暫くは村の人たちが手入れをしてくれていたんだけど、長くも続かなくてね、こうなっちゃったんだってさ」
そう語る女の子の姿は何処か悲しそうで、寂しそうで、何かを思うような姿に見えた。
かと思えば、女の子はこっちを振り向いてニカッと笑った。
「ここに君みたいな子が来るなんて珍しいし、一緒にかくれんぼでもしない?」
ここで俺は、意外と子供っぽいんだな、と思った事を覚えている。今にしてみれば俺に合わせてくれていたのかなとも思うけど。
「うん!」
でも、すごく嬉しかった事も覚えていた。面白い事に出会えた事と、歳の近い誰かと遊べるという事が嬉しかったんだ。
それから俺たちはずっとかくれんぼをして遊んでいた。女の子はかくれんぼの達人のようで、見つけるのも隠れるのも凄く上手かった。全然見つけられない事に俺は女の子に対して怒ったっけ。
何度も隠れて、見つけられて、隠れるのを待って、降参したり、見つけたり。俺たちは無我夢中で遊んでいた。
暫くすると、女の子が話しかけて来た。
「そろそろ帰った方が良いんじゃない? 結構暗くなってきたよ?」
俺たちが遊んでいる場所が木々に囲まれていて薄暗い事もあって気付かなかったけれど、痛かった陽の光は随分と和らいでいて、青かった空が燃えるように赤くなっていた。
「あ、ホントだ。もう帰らなきゃ」
長い時間遊んだ事もあって、この時には俺も普通に話が出来るようになっていた。
「明日も来る?」
女の子が聞いてきた。俺は「うん!」と答えたかった、だけど明日はじいちゃんが何処かに連れて行くと言っていたし、明後日はもう帰らなきゃならなかった。
そんな俺の気配を感じ取ったのか、女の子は残念そうな顔を浮かべた。
「じゃあ……これあげる」
そう言って女の子がポケットから取り出したのは、赤い紐がついた小さい鈴だった。
「これは?」
「それはね、お守りだよ。きっとこの先君の事を守ってくれるから、大事にしてね?」
「貰っちゃっていいの?」
何となく俺は、この鈴が女の子にとって凄く大切にされてきていた物であった気がした。
「良いの良いの! 私が持っているより、君に持っていて貰いたいからさ」
俺はそう言われて、鈴をギュッと握った。
「俺、お姉ちゃんの事忘れないよ。また来年来るから!」
子供の浅はかな約束だった。今の俺からしたら、こんな約束守れる筈が無い事だと分かる。だけど当時の俺は本気でそう思っていたんだ。強く強く、いつまでも、死ぬまで忘れる事が無いと。
女の子は嬉しそうで悲しそうな、複雑な顔で俺の事を抱きしめてきた。
「ありがとうね」
女の子は、凄く良い香りがした。そして柔らかくて暖かった。
抱き締められた瞬間は凄くドキドキして、全身が硬直したけど、どこか懐かしくて優しい気持ちに包まれて、無意識のうちに俺も抱きしめ返していた。
その時、旋風が吹いた。風は俺たちを中心に吹いていて、目を開けていられない程強い風だった。
数秒間吹いた風は、砂利や葉っぱを巻き込みながら吹いていたにも関わらず、俺の体は一切の怪我もなく、汚れてさえもいなかった。
そしてなにより、目を開けた時には俺はじいちゃんばあちゃんの家の前に居た。
何がどうなっているか、全く分からなかった。さっきまで朽ちた神社にいて、女の子と遊んでいた筈なのに、風が吹いて気が付けば既に家の前なのだから。
家からは美味しそうな匂いが漏れてきていて、そこで初めて自分のお腹が空いていた事に気付いた。
一歩踏み出すと、音がなった。それは、肩から下げていた中身のなくなった水筒の中の氷が揺れる音と、ポケットの中に入っていた1つの鈴の音色だった。
俺はその鈴を取り出して、ギュッと握り、満面の笑みを浮かべて家の中に入って行ったんだ。