邂逅
河原を吹き抜ける風が、静かにシバの頬を撫でていた。
いい加減に孤児院へ帰らねばならない。それはシバも分かっていた。
大きく溜め息をついてから、
「よ、」
立ち上がる。
ふと、何かが聞こえた気がして、シバは動きを止めた。
目を閉じると、草々の揺れる音に混じって風が音を運んでくる。
……―――ォォオン―――
ぶるりと震えた。
(遠吠え…)
兄弟達と、月に向かって吼えた夜が過ぎる。
反射的に、吼えていた。
応えるように、
全ての思いを乗せて、
ありったけの力で。
長い長い、咆吼。
最後の最後まで、息を振り絞って吼えた。
風が、どこまでも音を運んでいくような、錯覚さえ覚えるほどに。
「ッ!」
バッバッと勢いよく周囲を見回すシバ。
幸い、誰もいなかった。
「あっぶな…」
目撃されていたら確実に通報されていただろう。
ほっと胸をなでおろし、土手を上ろうと踏み出す。
「…あれ?」
風が、無い
急に嫌な感覚が背筋を上った。
何か、危険なものが近づいているような―――
「ッ!?」
ゴシャアッ
飛び退いた刹那、地面が割れた。いや、大きな金属が地面を叩き割っている、それは鈍く光る大刀。を、持ち上げ肩に担いだ男、月光に照らされ瞳が黄色く光る、黒装束に身を包み、左腕には豹の斑点。
「ま、今のは避けるよな。挨拶代わりだ、スカー。中々動かないんで本当にたたっ斬っちまうかと思ったぜ」
久々に再会した旧友に話しかけるように、男はニカリと笑った。
(待っ…て…え、何だ、こいつ。誰だ?今、何した?)
「あ?毛色が変わったか?…右目も…傷が無ぇな」
状況把握すらできないシバを置き去りにして男は喋り続ける。
どう考えても普通ではない出で立ち、抉れた地面、既知であるかのような言葉、シバは混乱するばかり。
「ひ、人違いだ!」
「はあ?何言ってんだ。神威が、」
男は言葉を切って後方へ飛び退いた。と、目の前が轟音と共に燃え上がる。
「ぅあづっ!」
前触れもなく燃え上がった炎。
対応できるはずのないシバは当然、尻もちをついた。
「……その右目…お前は…」
炎の向こうから、訝しげな声が聞こえる。
男とシバを遮って、土手が一直線に燃えていた。
「『黒豹バギラ』がわざわざ下界に来るとはな。珍しいじゃねえか、お前ら暇なのか?」
すぐ後ろ、頭の上からの声。腹の底を震わせるその声を振り仰ぐ。最初に見えたのは、大きく鋭い牙の列。それらを剥き出しにしてそいつはどうやら笑っているらしかった。
人1人をその腹に収められそうなほどに大きい、隻眼の狼。雪のように白い毛並みの中で、爛々と光る真っ赤な左目が唯一、異質だった。
「暇とは心外だな。お前に会いに忙しい中わざわざ来たのによ。…もっとも、本当に見つかるとは思わなかったが」
バギラの視線がシバに移る。
「で、そいつは何だ、スカー?」
轟々と燃え盛る炎の壁が、更に高くなる。
「てめえで考えな!」
炎が津波のようにバギラへ襲いかかる。
尻もちをついたまま呆気にとられるシバの首根っこを咥え、スカーは反転。その勢いのままにシバを中空へ放り投げた。
「う、わ、」
遠い地面、内蔵の浮遊感、つまり、恐怖。
「あああああああ、ッグゥ、ふ?!」
地上10メートル超からの落下はスカーによって防がれた。
跳躍したスカーの背中に叩きつけられ呻くも、息をつく間も無く、
「掴まってろ!」
跳んで、跳んで、いや、飛んでいた。
振り落とされまいと懸命にしがみつく中で薄目を開けると、河原は遥か後方へ遠のき、白い狼は空を走っていた。
冷たい風が、耳元で吹き荒ぶ。
「はっは!鬼ごっこか?いいぜ、乗ってやるよ!」
炎に包まれているはずなのに、バギラの声だけが追いかけてきた。
「あの炎は足止めにしかならない。飛ばすぞ」
狼はシバの返答を待つことなくスピードを上げた。
(ああ、もう…考えても意味無さそう…夢かなこれ)
この、わずかの間にシバの理解を超えるものがあまりに多かった。
混乱も度を越すと何も考えられなくなるのだと、学ばざるをえない。
「とりあえず最低限必要な情報を言う。よく聞いとけよ」
ただ、状況はそれすら許してくれないらしい。
「俺はスカー。ずっとお前を探していた。今日、やっと見つけたお前が敵勢力に殺されかかっていたので助けに入った。ここまではいいな?」
(よくない)
何で自分のことを知っているのかとか、殺されかけなくちゃいけないのかとか、どうやって空を飛んでいるのかとか…聞きたいことは山ほどある。が、ツッコミは全て胸の内に留めておいた。
「これからお前を俺たちの国へ連れて行く」
「国?海外へ、このまま?」
「お前の考えているものとは違う。…人間のいない国だ」
"にんげんのいないくに"
狼の言葉を形だけなぞる。
音にせず唇だけで反芻して、
自分がそれを求めていると、知ってしまった。
(そうか、俺は人間のいないところへ行きたいのか)
「…嫌がらないんだな」
「…うん………俺は、狼だから」
「……そうか」
自分でも突飛なことを言ったと思う。しかし、気持ちは伝わったのだろうか。スカーは静かに一言、返しただけだった。
そうこうしているうちに、遠い地上に見える明かりが増えてきた。
ピクリとスカーの耳が動く。
「もう少し先まで行きたかったが、追いつかれたな。そこの屋上に降ろすから、あとは自分で走れ」
「え!どこまで?!」
「"門"を用意してある。とりあえず大通りを駅方面へ真っ直ぐ走れ。途中にある郵便局の角を曲がって路地を真っ直ぐ。左手を見ながら走ればすぐ分かる。見つけたら飛び込め」
「駅方面、郵便局を曲がって、左手側…」
忘れないようにぶつぶつと繰り返す。むちゃぶりに文句を言っている暇は無さそうだ。急降下さながらといった勢いでビルの屋上へ降り立ったスカー。その背中からずり落ちるように降りると念を押された。
「いいか、人混みに紛れて走れ。"向こう"に着いたら物陰に隠れてじっとしていろ。絶対だぞ」
俺が頷くのを確認した瞬間、再び空へと走り去って行った。
わけの分からないことだらけだったが、嫌気の差していた今の生活が変わるならば何でもいい、そう思った。
* * *
「さて、」
炎の波は破った。スカーと少年の気配を探ると、どうやら街中へ向かっているらしい。
(木を隠すなら森、か)
人の多い場所にあの少年を紛れさせるつもりか。スカーにとってあの少年が何なのか、分からない。
スカーは狼の姿で現れた。搾りカスみたいな神威しか無いように見受けられたが、その状態で多少無理をしてでも逃がしたい存在ということ。何よりあの少年は、スカーと違い髪色はこげ茶、右目の傷こそ無かったが、昔のスカーに酷似している。そもそも、遠吠えに乗って感じたスカーの神威を辿った先にあいつがいたのだ。
「ふむ………」
口元に手をやりバギラがあらゆる可能性を考えること数秒。
ニヤリと笑う。
『黒豹の大将、ダリスです。定期連絡、こちら成果無し。そちらは?』
「おう、こちらも特に無い。引き続き頼む」
『了解』
思考を直接やりとりすることによる定期連絡。それを終えるとバギラは空へと地面を蹴った。
「ちょっとした摘まみ食いならいいよな、レオ」
聞こえるはずのない相手へ向けて一言。
自慢の脚でスカーたちを追いかけた。