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となり

作者: 星野区

 自分がとても小さな子供だった頃、ゆらゆらとしたはっきりと目に見えない“何か”が、夏の空へと昇っていくのを目にした記憶がある。今思えばそれはただの陽炎だったのだろうけど、何せ幼かった頃のことだ。「あれはおばけだ」と信じて止まなかったことも、今となっては良い思い出となっている。ちょうど肝試しの季節なだけあって、それもおばけだと信じる根拠になっていたのだと思う。

 今ではあの頃より随分と成長して、陽炎をおばけだと思うことも無くなった。そして、以前はおばけのことを心底恐ろしく思っていたものだけど、今となっては、そのような幻を怖がるようなことは全くと言っていいほど、ない。


 夏休みが始まり、学校へ登校することのない毎日の生活に慣れてきた頃。カレンダーの予定欄はいつも空っぽで、予定無き予定を過ごす夏休みが僕の日常となっていた。部活には入っていない。暑い中、一緒に遊びに出掛けるような友達もいない。

 ……でも、そんな僕にも、たった一人だけ一緒に遊べる友達……否、親友がいる。

 今朝は7時に両親の過ごすリビングへ、眠い目を擦りつつ足を踏み入れる。両親は目をまん丸くして僕を見つめてきた。父親の吸う煙草の煙が寝ぼけた瞳の中に染み入ってくる。「おはよう」と、仕事着に身を包んだ母親が声を上げる。こんな一般家庭の空間なんて今だけで、彼らはすぐに出掛けていってしまう。僕たちは分かっていた。

 長期休暇と言えども、社会に躍り出た大人たちには子供のような休暇は無い。僕の両親は共に朝から仕事へ出掛けてしまう。何もそれは今に始まったことではない。けれど、たった一人ぼっち、家に取り残される状況というものは、あまり良い気分ではなかった。胸に空いた隙間に冷たい風が吹いてくるようだった。だから、僕はなるべく一人の時間が無くなるように、休みの日が続くような時期には、夜は早く寝て昼過ぎに起床するようにしていた。去年までは、そうしていたのだ。

 両親が家から居なくなると、次に訪れるものは静寂だ。夏の暑さの中で響き続ける蝉の鳴き声が、微かに耳に届くばかりである。テレビや音楽の音も勿論しない。我が家には僕一人だけしか存在していなかった。僕だけの存在する家に、静寂の次に訪れるもの――それが彼だった。彼こそは、僕の親友だ。

 呼び出したわけではない。ただ、僕一人だけになると、気がついた時にはいつも彼がとなりに来ていた。となりに来た彼という存在は、今日は何をして遊ぶ? と、わくわくとした声色で僕に尋ねてくるのだ。彼が現れれば、家族がいない日、即ち毎日、僕たちはこっそりとこの静かな家の中で遊ぶ。このことは誰も知らない。僕と僕の親友だけの秘密だった。

 彼には実体が無いようで、僕以外の誰かが家に居る時には、誰にも見つからないように隠れている、と親友は言っていた。言うとおり、両親が家にいる時は、家のどこを捜しても見つからない。何故家に僕一人だけでいると現れるのか、どうして存在しているのか、彼に尋ねると、「それは、ぼくにも分からない」とだけ言われる。本当に分からないことのようだった。とても不可思議なことだけれど、僕たちにとってはそんな疑問が解決しようがしまいが、どうでも良いことだった。退屈な休みを親友と過ごせるということだけで、僕には十分過ぎるほどだったから。


 彼には姿という姿がない。形も決まっていない。曖昧な姿をした親友が、自分の前に人間の形になって現れる。

 「今日は何をして遊ぶ?」親友が尋ねる。いつも僕は宙に浮かぶ彼とじゃれ合ったり、夏であれば冷たい親友の身体に触れて涼んだりする。人間クーラーみたいだ、と言うと、親友は恥ずかしそうに頭と思われる部分を垂れさせる。

 学校であったこと、家族のこと、自分の身の回りの様々なことを彼に話して聞かせると、親友は黙って話を聞いてくれる。普段の僕はこんなふうではないのだけど、彼の前だと何故か饒舌になった。自分ばかりがぺらぺらと面白おかしく喋っていたものだから、つまらなくない? と訊くと、「ううん、楽しいよ」と返してくれる。親友は自分の話題を持たない。話すのはいつも僕の方だったけれど、楽しそうにしている彼を見ると、僕も楽しい気分になるような気がした。

 そんな彼のことを大好きになるのに、そう多くの時間は要さなかった。彼が現れる時が待ち遠しかった。両親が早く出て行ってくれないかとじれるほどだった。親友と過ごす休みがこんなにも楽しいことだったなんで、今まで知らなかったからだ。彼だけは僕を解ってくれる。自分だけの親友。同時に、僕が彼の親友であることも、僕は嬉しかった。


 ある日、空中に浮かんでいる彼がこんなことを言った。「きみは宙に浮かばないんだね」と。

 僕が宙に浮かばないのは当然のことで、僕は自分が彼のように浮かべるなんてこと考えたことも無かった。だから、「そりゃあ、君とは違うからね」と、僕は返す。すると、彼はこんなことを僕に言ってきたのだ。

 「え? きみは浮かべないんじゃなくて、浮かばないんでしょう?」と――。

 僕は、彼が何を言っているのかよく解らなかった。彼と僕は違う。何が違うかと言われたら、答えにくいけれど、とにかく決定的に何かが違っている。それは以前から当たり前のことなのに。彼は、何か勘違いでもしているのだろうか。

 「僕は君みたいに浮かべないよ」僕は首を振る。それを見た彼が、それすらも否定するように、「そんな筈はないよ」空中の彼が手を伸ばす。「……ほら」

 途端、僕の目線がふわりと高くなる。急に世界が地中に沈み込んだような錯覚に陥って、僕は思わず手足をばたつかせた。けれど、その手は彼の手によって掴まれていて、身動きが取れない。

 足はというと――僕は息を飲んだ。驚いたことに、足が地上から離れていて、自身の身体が宙に浮かんでいるのだ。

 言葉を失っていると、彼は「ほらね」と言って、僕と繋いでいた手を離す。それを見て僕は焦ったが、なにと言うこともなく、僕の身体は宙に浮いたままだった。

 ……本当に、自分で、浮かんでいる。

 「どうして……」あまりの光景に、僕は興奮とも違えぬ動揺に上擦った声を上げる。「僕に、なにかしたの?」思わずそう彼に尋ねてしまう。でも、彼はそんな僕に怪訝な様子ひとつ見せずに、「浮かべるってことに気づかなかっただけだよ。たぶん」と、ぼんやりとした輪郭をゆらゆら揺らした。

 彼の言うことが正しいのだとすれば、僕は本当に今まで自分が浮かべるということを知らなかっただけなのだろうか。普通の人間なら、浮かぶなんて技は持ち合わせていない。それなら、僕は普通の人間なのに空中に浮かんだ、人類史上初の人間なのではないか。そんなすごいことを、彼はいとも簡単に僕に気づかせてくれたのだ。

 「他の人もね、たぶん同じことが出来ると思うよ」彼はぷかぷかと部屋の中を横移動しながら、言った。「だって、きみとぼくが出来たことなんだもの」僕は彼を目で追っていた。彼は部屋の南側へと身体を運ぶ。

 すると彼は部屋の窓に手をかけ、それを開けようと鍵に手を触れる。しかし、どうも上手くいかないようで、それを見た僕は彼の元へ行こうと動こうとする。浮かんだまま、どうにか身体を捻って移動を試みる。なにせ生まれて初めての浮遊をしているものだから、身体が思うように前へ進めない。それでも何とか窓に辿り着き、僕は彼に代わって錠を下ろした。

 「ねぇ、外に出てみようよ」楽しそうな声の調子で、彼は言った。「空中散歩しよう」彼は勝手に僕の家の窓を開けると、今にも外へ飛び出しそうな様子で僕の方を見る。

 ――君って、外に出られるの?と、僕がうろたえていると、彼は「大丈夫だよ。ぼくが手を引いてあげるから」と、外を遊泳する不安と受け取ったように、僕の手を優しく包み込んだ。

 外からは、蝉の鳴き声が家で過ごしていた時よりも一段とけたたましく聞こえる。彼らは長年に染渡った孤独の波長をかき消して、僕の心の中へと澄み渡る。やがて夏の暑さがじりじりと風穴の中に侵蝕していく。家の中で過ごすことの意味を無くさせるように、僕は夏の日差しの中に憧れのような感情を抱いていた。友達の居なかった今までは枯れかけてしまった気持ち。となりを見れば、それを回復に導いてくれた、僕の親友。

 「ね、行こうよ」親友は僕の返事を待つ間も無く、僕の右手を自分の左手に取った。ひんやりとした感覚を待っていたけれど、その手はむしろ僕の手よりも温かに感じられた。親友と同じになれたぬくもりが僕の心と身体をゆっくりと浮かび上がらせる。親友は僕の手を引いて、窓の外に僕の身体を招き寄せる。


 夏の音と光に包まれ、僕たちは互いの手を取り合って、大きな空へと徐々に上昇していく。身体が軽い。まるで子供に紐を離された風船のように、どこまでも昇っていけそうな予感が僕にはあった。木立の葉擦れが別世界から届いた福音を祝うかのごとく僕たちを歓迎する。

 足の下を見ると、白い屋根が目に飛び込んできた。あれは僕の家の屋根だ。本当に空に浮かんでいるのだ……と、足が地につかない心持ちで、僕は改めて認識する。

 相変わらず曖昧な形を保ったまま、僕の親友はおもむろに頭上を指差した。さらに上へ行く、という意味なのだろうか。僕は今までに無い体験に胸を高鳴らせた。僕が大きく頷くと、それを合図にしたかのように、すぐ傍にあったと思っていた屋根がどんどん遠ざかっていく。白い屋根の下にある我が家が、まるで地中のずっと深くに埋もれているかのように見受けられる。そんな所に今まで自分は暮らしていたのだという事実が、僕には何だか信じられないことのように思えた。

 地上よりももっと高く昇り詰めると、駅の方面の景色を僕たちは遠望する。ドミノのように立ち並ぶビルを眺望していると、その下を走る車や人間の姿が、透明な炎のようなものに炙られているのを僕は目撃した。

 自分が幼い時見た、あの陽炎に町が燃えていたのだ。ぼうっと浮かぶそれは、まるでその町自体を占領しているかのように、一帯を熱く揺らしていた。目に入ったそれは、幼い日の僕の瞳を強く揺れ動かした。

 僕が町の全景に夢中になっていると、となりから「どう、すごいでしょう」と、得意そうな彼の声が聞こえた。僕は浮き立つ心を抑え切れなかった。「すごいよ。こんなの、今まで見たこともなかったよ」感情の高ぶるままに、自らの衝撃を言葉に乗せる。彼はそう聞くや否や、良かった、と小さく息をついた。僕はそれを聞き逃さなかった。

 「良かった、って?」僕が問いただすと、彼は白状したように、首を左右に振って見せた。「あんまり閉じこもってばかりいるからさ、つい、連れ出してみたくなっちゃったんだ」彼は首を前に傾けた。「きみのことが心配だったんだ」

 俯く彼につられて僕も下を向く。下には、さっきまでよく見えていた筈なのに、随分と小さくなってしまった白い屋根があった。陽炎よりも、空よりも、ずっとちっぽけな家が僅かに視界に捉えられた。あんな小さな箱の中に、僕は長い間自身の身体を閉じこめ続けていたのだ。彼に連れ出されていなければ、僕は今でもあの中に居続けていたことだろう。

 僕は親友を見た。照れくさそうに頭を掻く仕草をしている。僕は何だか堪らない気持ちになると同時に、視界の中のぼやけた彼の輪郭がさらに滲んでいくのを感じた。僕はそれを誤魔化そうと、彼から顔を背けるように遠くのビルを仰ぎ見る。

 「……なあ、あの陽炎さ、僕、小さい頃はおばけだって思ってたんだ」――おばけ? 彼が不思議そうに復唱する。「そう、おばけ。いい年になるまで気づかなかったんだ。とんだ勘違いをしてたよ」そう聞くと、彼は吹き出したように笑った。僕も少しだけはにかむ。これを告白したのは、親友である彼が初めてだった。「あはは、でも、そういうこともあるかもね」横目で見ると、彼は涙を拭うようにして指を顔の前で擦った。「今まで自分がこうだって思ってたことが、実は違ってて、ずっと気づかないこと……」


 太陽に近づいている筈なのに、不思議と皮膚の焦げつくような暑さは感じなかった。しかし、僕たちは確実に白昼の晴天に向かいつつあるのだ。

 彼は、もう少し上に行くよと言うように、再び青天井のライトを指差した。僕がこくりと頷くと、またそれを合図にしたかのように、二人の身体が一層地上から離れていく。僕は上空を振り仰いだ。太陽がすぐ目の前にある。ちりばめられた白い雲に、今にも手が届きそうな距離だった。

 何だか辺りがとても眩しくて、僕は目を糸のように細めるようになって、全貌を直視出来なくなっていた。となりにいる親友の左手が、自分の右手と繋がっている感触だけが確かなものだった。僕は、あまりの眩しさに、空いている左手を顔の前にかざした。

 そして、僕は見た。かざした筈の手の甲が、5本の指が、太陽の光を透かして僕の目の中に入ってくるのを。僕は、自分の手を越して空を見ていた。左手が肌の色を無くし、輪郭の線が曖昧なものになって、ゆらゆらとしたはっきりと目に見えないものにぼやけていたのだ。

 僕は驚いて、となりの親友の方を見た。太陽に近いせいか、もともとぼやけていた彼の身体もよく見えなかった。光のせいなのか、僕の身体が透け始めているせいなのか、果たしてそのどちらかなのかはわからない。確実に言えることは、僕も彼も存在しているということだけだった。目にははっきりとは見えなくても、確かにそこに存在して燃え続けている陽炎のように。繋いだ手や指を強く握り締めることで微かに伝わってくる感触が、それを証拠づける。

 僕たちは空を目指し続け、ついには下界が何にも見えなくなる。そこにいた頃よりも、僕はたった今、大きな居心地の良さを感じていた。窮屈な地上とは違って、ここには僕たちを閉じ込める小さな箱はどこにもない。親友とふたりきりのこの時間が、僕にはとても幸せに感じられる。永遠に続くことを望んでいた。僕には、となりにいる彼さえ居れば大丈夫なのだと確信していた。

 やがて、僕の瞳は真っ白い光に塗りつぶされた世界を映す。自分の身体も、景色も見えなくなる。

 多分、あの家に帰ることはないんだろうなと、真っ白な視界で親友を見つめながら、ぼんやりとそんなことを思っていた。

 曖昧な形をした親友が、今はっきりと、となりにいる僕に笑顔を差し向けたような気がした。

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